Session #2 Face To Face (2)
優人は〝サヴォイ〟の二階のスタジオに入ると、まず自分の立ち位置を求めた。
スタジオは決して広いとはいえないが、バンド間でコミュニケーションを取るには程よいといえた。
優人の立ち位置から対峙するところにベースの良和が立った。向かってその右側にあるドラムセットに裕孝が座り、更にその右にギターの小夜子がいた。更にベースアンプの向かって左側に拓哉がいた。
「いい音色見つかった? 五十嵐さん?」
「何だか難しいもんだねぇ、こりゃ」
キーボードスタンドの上に置かれたシンセサイザー、ヤマハDX‐7のフロントパネルのいじっていた拓哉は、俯いたまま呟いた。
一九八〇年代に生まれたデジタルインストゥルメンツとしては、恐らく音楽史に残るであろう、このシンセサイザーを何を思ったのかマスターが突然〝買う!〟といい出したのは、優人が高校一年の時だった。新し物好きの性癖がまた出てきたな、と優人と小夜子は笑ったが、仕事が忙しい中、腰を据えて触れることが叶わず、演奏の際はプリセット音だけで臨むのが常だった。もっとも、例えばプリセットされたオルガンサウンドだけで強烈なグルーヴを作り出すマスターは、正に生粋のプレイヤーだった。
やがて拓哉が店に出入りするようになると、DX‐7は実質的に彼の所有物になった。この頃のキーボード情報誌には、DXをはじめとした各社のデジタルシンセサイザーのためのボイス・データ表が掲載され、あのアーティストのあのアルバムの、あの曲のあそこで使われているシンセサイザーの音色は、この機材ならこうプログラムすれば出る、というところまで分かるようになっていたが、拓哉もまたそれを見ながらそのまま打ち込んでみたり、少々加工してみたりなど試行錯誤を繰り返していた。
この時も、ちょうどそんな感じだった。モニタースピーカーから出ている音は、ブラス系のサウンドだった。
そして拓哉から見て右側にフェンダーローズ・エレクトリックピアノがあった。一九六〇年代後半以降のエレクトリックジャズ、フュージョンの隆盛とともに盛んに使われるようになったキーボードの名機だ。
開店当初はこのローズをステージに置いていたが、グランドピアノ導入とともにスタジオに収まった。ただ拓哉がライヴを手伝うようになって以降は、そのたびスタジオから階下までローズを降ろし――拓哉に良和、裕孝、優人の四人がかりの大仕事になった――上にDX‐7を置いたセッティングで臨むようになった。
スタジオ内に個々の楽器の音が渦巻いた。全員がそれぞれの楽器のサウンドチェックに余念がなかった。優人はマイクスタンドを組み立てて立ち位置に置き、マイクとミキサーをシールドで繋ぎ、電源を入れて音量を確認した。
「あ、あのう、わたし、何をすれば……」
入口近くでじっとしていた亜実が優人に近づいてきた。サウンドチェックで飛び交う音量に圧倒され、何もいえないでいた。
「あ、じゃあ早くローズに着いて。ええっと、シールドの繋ぎ方を説明するから、見てて」
「はい」
「今度から自分でやってね」
優人は亜実をローズの前に座らせた。手順を説明しつつ、ローズと繋がっているシールドをミキサーにセットし、亜実に簡単なコードを弾かせた。
亜実の横顔を見ながら、優人は千鶴のことを思い出していた。やはり横顔がよく似ていた。
千鶴が無邪気に、優人達の中を駆け回る姿が思い出された。
優人だけでなく、〝サヴォイ〟に関わっていた全ての人々にとっての妹のような存在で、みんなから可愛がられ、またみんなからの暖かい想いをいっぱいに受け止めていたはずだった。だから千鶴が生きていた時、決して彼女は不幸ではなかったと優人は確信していた。
「OK」
モニターからの音量を確かめてから、優人は全員に向き直った。
「じゃあ紹介しとくよ。樋川亜実さん」
「初めまして、樋川です。よろしくお願いします」
亜実は馬鹿丁寧気味に自己紹介をして、初めて優人と逢った時と同じく、ぺこりと頭を下げた。続けて優人は彼女にバンドのメンバーを裕孝、良和、小夜子、拓哉の順で紹介していった。
良和はもうすでに亜実と顔を合わせていたから別段変わった様子も見せず、ニヤニヤと笑みを浮かべ、会釈した。一方、初対面となる他の三人はそれぞれだった。拓哉は手を上げ、裕孝はオーバーに口笛を鳴らし、そして小夜子は目を点にしていた。
妙に雰囲気が固かった。
その原因を、優人はうすうす感じていた。
この時まで〝サヴォイズ・ギャング〟は、新メンバーを入れるということがなかった。
自然発生的に四人で始まった〝サヴォイズ・ギャング〟だが、優人にとってマスターはあくまでサポートプレイヤーという感覚だったし、拓哉に至ってはもはや独立した、そして真摯にリスペクトできる一人の〝アーティスト〟という存在で、お互いのライヴをサポートし合うという感じだった。例えばライヴの時に店の前に出す看板に拓哉か、〝サヴォイズ・ギャング〟か、どちらの名前を前に出すかというこだわりがあった。もっともステージに立つメンバーは基本的には変わらなかったのだが。
だからこの時、これまでとは明らかに事情が違い、メンバーが四人のままか、五人になるかという状況の中、少なくとも優人は期待と緊張に対峙していた。
「優人、そろそろ始めようや」
良和がアンプのヴォリュームを落としてウォーミングアップをしながらいった。
「じゃ、予定通り『リカード・ボサノヴァ』行こう」
サックスをストラップにかけ、長さを調整してから、優人はみんなに向かった。
「取り敢えず最初のテーマまで……いい?」
優人が促すと亜実は黙って頷き、自身で聞き取った譜面をローズの上に広げた。
「それ、全部君が自分でコピーしたの?」
「あ、いや手書きなんですけど……」
「いやいや、そうじゃなくてね」
横で見ていた拓哉が懐かしそうに笑った。
「ほう……」
広げられた譜面を覗き込み、優人は小さく声を上げた。
譜面は、優人が渡したコード譜を元に、ピアノの音の動きを全て書き出していたものだった。クラッシックピアノばかりやっていた人の中にはコードの意味が分からない場合が稀にあるといわれるが、取り敢えず彼女についてはその懸念はなさそうだった。
「で、弾けるの? これ?」
「はい、書き出した方が覚えられるんで……」
「ならいいよ。まず弾けるようになることをコピーっていってるわけだからさ」
優人は笑って答えた。
「優人いくぞー」
「OK」
裕孝は優人の返事に応えてスティックを打ってカウントを繰り出し、16ビート気味のサンバを叩き始めた。
バンドは初めて、という亜実を優人は見守った。
この日の練習の目的は、亜実のピアニストとしての力量の確認だった。マスターや拓哉ほどのものは望まないにしても、〝サヴォイズ・ギャング〟に迎える以上、そこそこにはやってもらいたいと優人は思った。
意外にも亜実はしっかりとしたタッチを繰り出し、ローズはグルーヴしていた。
亜実は慣れないアンサンブルと格闘しながらも徐々にバンドの音に溶け込んでいった。もっとも、その分だけやってる時の表情は真剣そのものだった。
アンサンブルが気持ちよく決まり始めた頃、メンバーは一〇分ほど休憩を取った。
一旦スタジオの外に出て、階段近くの喫煙所に陣取り、優人と良和は煙草を吸い始め、拓哉、小夜子、裕孝と亜実は近くに置いてあるウォータークーラーから紙コップにミネラルウォーターを注いで飲み始めた。
優人は灰皿の近くの椅子の一つに座り、テーブルの上のメモ用紙を一枚、シャツの胸ポケットから写譜ペンを取り、用紙に〝構成〟と書いてから五人に話し始めた。
「さてと……ソロどうしようか?」
「ねぇ、アタシが一番手だよね?」
「了解、了解」
優人はメモしながら、うんざりした口調でいった。出たがりの小夜子に、調子の悪いオーヴァードライブで騒がれたらたまらないな、と思った。
「亜実ちゃんにもソロやってもらうのかい?」
裕孝が亜実に向かって顎でしゃくった。彼女は一瞬身体をぴくっと震わせ、それからいつもの調子で俯いてしまった。
「初めての練習だし、別に今日はソロ、いいよ。まだ慣れてないんだし」
拓哉が助け舟を出した。
「でもやっぱクラッシックやってると音感ができてくるってことなのかな? だって完コピだもん」
「いえてる。いえてる」
小夜子と裕孝が交互に笑った。
率直に優人も彼女の音感の良さとコピーの上手さには舌を巻いたが、ソロを取る段階になると、きっと話が違って来るとも感じた。
優人は、クラッシックのピアニストがジャズをやろうとすると、まず悩むのが独特のグルーヴ感と、インプロヴィゼーションへの対応だと、何かの本に書いてあったのを思い出していた。特に一定のコード進行を与えられて、その上でソロを展開させるのは、譜面の世界しか知らないはずの亜実には厳しいとも、勝手に想像していた。
だからこの時は亜実にない物ねだりをしたくはなかったが、一応本人の意志は確認する必要はあった。
優人が半分まで吸った煙草を灰皿に押し込んだ時、亜実の方から蚊の鳴くような声が返ってきた。
「あ、あの……ソロ取ってみたいんですけど……いいですか?」
彼女はまたぺこりと頭を下げた。みんなにとって意外な答えだった。
「いいのかい? おれ達、ソロのサイズは決めないってのがルールなんだよ」
「おまけにソリストを無責任に煽るから」
「脅迫しないの!」
「あ……」
心配そうに優人が話すと、良和がニヤニヤしながら亜実をからかった。それを聞いて小夜子が良和の足に回し蹴りを叩き込んだ。
「どこまでできるか分かんないけど、やらせてください。今日はそのつもりで来ましたから……」
「まあ、そこまでいうんなら……そんな、恐い顔しなくていいからさ」
まるでこれから死刑台にでも登っていくような表情の亜実に、優人は苦笑した。次の瞬間、彼女は今度は真っ赤になった。
「じゃ、いっそ全員でソロ廻ししてみよ。順番は小夜子、亜実ちゃん、五十嵐さん、おれで行こう」
「あ、おれはいいよ」
「え? いいの、五十嵐さん」
「一応、音出しには入るけど、ちょっと離れて聴く感じにしてていいか? 今日は俺はその方がよさそうな気がするんだが」
「ん、了解。じゃそうしてくれる?」
そういって優人は椅子から立ち上がった。それが練習再開の合図になった。
ソロ廻しを始めると、小夜子は優人の予想通り、最初から普段より強めにオーヴァードライヴをかけ、ハードロックのように飛ばしてきたが、エフェクターの調子が悪いというのは本当だった。歪み方がクリアではないから、とにかく耳が痛かった。
最後にライトハンド奏法まで披露した小夜子のソロを、良和と裕孝は大はしゃぎで煽るが、亜実はバッキングの維持が精一杯でどうしていいか分からず、目を白黒させていた。
亜実のピアノソロの番が来た。
最初の音を聴いて、優人は眉をひそめた。
「あ……あ……」
焦った亜実の口から微かに呻きが漏れた。
やはり動けなかった。
与えられた空間に放置され、戸惑いつつも違う音を出そうとするが、一音外してやや不快な響きが生まれると焦ってフォローしようとしてまた外してしまい……の繰り返しで、どうにも様にならない音を繰り出していた。
他のメンバーは顔を見合わせて苦笑した。
やはり無理させるべきじゃなかったな――優人が後悔し始めた時、拓哉が動いた。
それまでDX‐7のストリングス系の音でアンサンブルをサポートしていたのを止め、オルガンの音を引き出してサンバのバッキングパターンを弾き始めると、拓哉は優人にアイコンタクトした。
それを受けて優人はローズの前に立ち、俯いた亜実の肩を叩いた。
「え?」
「最初に戻るよ!」
亜実の耳元で囁いてから、優人は慌ててマイクの前に戻り、次に小夜子、良和、裕孝に合図を送った。
カウントを出して強引に曲の冒頭に戻った。
曲自体はAABAの典型的な、いわゆる歌物の構造だった。このパターンを繰り返す中で盛り上げていくのはジャズの正道だ。
だがこの時、優人は自分のサックスの音に、自らの焦りや不満の感情が表れているのがはっきり分かるように思えた。そして、やや沈滞したスタジオのムードを変えようと初めから意識して早いパッセージを繰り出した。
やがて小夜子のギターと優人のサックスで激しいチェイスが始まった。いつの頃からか自然発生的に始まったもので、曲の種類は一切関係なく、その場で互いのフレーズを追い駆け合うものだ。
チェイスが熱を帯びてくると、良和にも裕孝にも拓哉にも笑みが戻ってきた。萎縮していた亜実も最後は必死に着いてこようとした。
最後に目配せし、優人はベルを振って合図を出し、後テーマを奏でて『リカード・ボサノヴァ』を終わらせた。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。