Session #1 Isn't She Lovely (4)
「また『ミスター・ブルー』だよ、一体誰だろう……」
〝サヴォイズ・ギャング〟のミーティングから数日が過ぎた。新入生歓迎のムードは、応援団による毎年恒例の新入生への応援練習が終わったことで一応影を潜め、優人にとっては苦痛でしかない日常が始まっていた。
彼はその日、いつものように家を早めに出て、一般の生徒が登校するより一時間くらい早く校門をくぐっていた。
東高の裏門の近くには文科系のクラブや同好会の部室を集めた建物があった。その建物の裏で毎朝サックスの基本練習をやるのが優人の日課だった。
優人にとっては獄舎のような東高だったが、こんなことができるほどには面の皮も厚くなっていたのかも知れない。
書道、美術、音楽などの、芸術系の教科のための教室を集めた、芸術棟と呼ばれる建物も一応あったが、音楽室は吹奏楽部と合唱部の部室を兼ねており、早朝練習をやっていて、部員の連中と顔を合わせる可能性があるので、優人は音楽の授業と、良和の口利きで美術部室に楽器を置かせてもらう以外には、なるべく芸術棟に近づかないようにしていた。
We touched like watercoler fawns
In landscapes painted by Cezanne,
Or lovers floating
Painted by Chagall.
But you and I were You-I then
We thought the rush would never end...
We thought the sky would never fall.
優人が芸術棟の入口に差しかかった時、三階の音楽室の窓から澄んだ歌声がもれていた。
ここ数日のことだった。朝のこの時間、誰かがマイケル・フランクスの『ミスター・ブルー』をピアノで弾き語っていた。
「毎日毎日飽きもせず……誰なんだろう」
優人は呟いた。
この頃はまだ〝シティ・ミュージック〟という言葉もかろうじて生きていたが、やはりAORといった方が適切だろう。分かり易くいえば〝大人のためのロック〟であり、一九七〇年代後半から注目を集め始めたジャンルだ。
ボズ・スキャッグス、ボビー・コールドウェル、ジノ・ヴァネリなど代表的なアーティストは多いが、よりジャズに近いアプローチを見せ、アメリカではジャズのコーナーにアルバムが並ぶこともあるのがマイケル・フランクスだ。
もっとも、この時点で優人が知っていたマイケル・フランクスのナンバーは、この『ミスター・ブルー』のみで、しかも歌詞は全く知らなかった。
〝サヴォイズ・ギャング〟ではすでにこの『ミスター・ブルー』を取り上げていた。持ち込んだのは良和だが、それはトロンボーンの福村博のアルバム〈ハント・アップ・ウインド〉に収められたインストゥルメンタルのカヴァーもので、歌詞を聴くことはなかった。その時にマイケル・フランクスの存在を知ったが、強く興味を引かれることはなかった。だからメロディに乗った『ミスター・ブルー』の歌詞を聴いたのは、この時が最初になった。
優人には正直、よく分からなかった。ただ少しの切なさを含んだ澄んだ声に胸の痛みを覚え、この弾き語りの主に興味を引かれた。
時計を見て、まだホームルームまでには少し余裕のあることを確認した優人は、初めて授業以外の目的で芸術棟の三階に足を運んだ。
フロアは吹奏楽部の練習のために雛壇状になっており、ちょうど進路指導部から配布される進学情報誌の写真でよく見る大学の講堂を思わせた。従って優人は必然的に弾き語りの主を見下ろすことになった。
優人から見て、楽譜の五線が書いてある黒板の左側にグランドピアノがあった。音楽室の窓から差し込む強烈な朝日がピアノの表面に反射し、優人の目を打った。朝日を掌で遮りながら、彼は目を凝らした。
この頃のいい方でポニーテールという髪の束ね方だったが、それでも隠しようのないほどに艶やかな長い黒髪だった。また透き通るような白い肌、大きな澄んだ黒い瞳……弾き語りの主は、数週間前に学食で視線を交わした、あの少女だった。
ピアノを弾く少女は優人の存在に全く気づいてないようだった。
ピアノのタッチは時に繊細に、時に力強く迫った。ただノリが少し平坦で、クラッシックピアノの経験が長いことを思わせた。
優人は何度目かの弾き語りがエンディングを迎えた時、音楽室の中に足を踏み入れた。自分の存在を伝えたいと思ったが、拍手するのもわざとらしく、どうしようか迷っていたところに少女が視線を向けてきた。
彼女はピアノを弾くのを止め、少し怯えるような表情を見せた。
〝しゃあない、もういいか……〟
優人は覚悟を決めた。雛壇状のフロアをゆっくりと降り、ピアノに近づいた。
「あの……各務……各務優人さんですね?」
最初に口を開いたのは少女の方だった。彼女はもじもじしながら、小さな声で訊ねた。
「そうだけど、どうしておれの名前を知ってるの? おれ、学校じゃ、あんまり人づき合いよくないから、知ってる方が珍しいと思うんだけど」
優人の本音だった。
良和以外の東高生には本当に無愛想だったから、一度視線を交わしただけで口も利いたことのない少女が自分の名前を知っていること自体、優人には不思議かつ不愉快だった。
「あの……去年の夏、勝田市立大のジャズ・ビッグバンドとジョイントしませんでした?」
「ああ、あれを見てたんだ」
前年の夏、勝田港の近くにある野外ステージで行なわれた勝田市立大学のジャズ・ビッグバンド〝ソリッド・スウィング・オーケストラ〟の定期演奏会で、〝サヴォイズ・ギャング〟はビッグバンドと共演した。
定演の一ヶ月前に様々な事情でリズムセクションがごっそり抜けるという非常事態を抱えていたオーケストラを優人達がサポートする形になった。
ビッグバンドジャズの定番ナンバーの他、逆に優人達も大編成のホーンセクションとキーボーディストのサポートを得られたのをいいことに、〝サヴォイズ・ギャング〟が取り上げてきたジャズ・フュージョンナンバーをレパートリーに加えた。
当日の演奏は強烈な盛り上がりを見せた。そしてその中に『ミスター・ブルー』もあった。
「前から好きだったんです、マイケル・フランクスが。で、各務さんのあの時のライヴ見て、火がついちゃって……」
「へえ」
「だからこの前学食で見かけた時は本当に心臓が止まっちゃうかと思いました。東高にいることは分かってたんですけど」
他の〝サヴォイズ・ギャング〟のメンバーと同様、優人もその時、ステージの司会者に名前と東高の生徒だということが普通にコールされた。自身の素性を話されても特に問題は感じなかった頃だった。
「ただ、いつもどこにいるんだろうって、ずっと思ってたから……」
「ハハ、東高ではおれ、存在感薄いはずだから……君、名前は? 何年生?」
「二年六組の樋川亜実です。合唱部にいます」
亜実と名乗った少女は、小学生が難問を解いて得意気になってるような口調で、はきはきと答えた。その無邪気な笑顔が、優人には何だか眩しかった。
「『ミスター・ブルー』っていつ頃の曲なの? 実はよく知らなくてさ」
優人が『ミスター・ブルー』のことに話を振ると、亜実は更に表情を輝かせた。
「一応、ファースト・アルバムですよ、〈アート・オヴ・ティー〉。もう一〇年以上前なのかな? デイヴィッド・サンボーンにマイケル・ブレッカーがいて、あとクルセイダースのウィルトン・フェルダーはサックス吹かないでベースだけ弾いてます」
「別におれに合わせて話しなくてもいいよ」
「はぁ……」
無邪気にサックス奏者の名前だけを立て続けに口にする亜実の笑顔が、優人には可笑しかった。
「聞いたんですけど……」
「な、何?」
不意に亜実は優人の顔を覗き込んだ。
「各務さん今、一人暮らし?」
「誰から聞いたか知らないけどさ、親父とお袋が、今は大阪」
「じゃあ、大変じゃないんですか?」
「もう慣れたよ」
意味なく喋るヤツがいるんだな――優人は憮然としたまま亜実に答えた。
「でもすごいですね。あんな大編成をバックに吹いちゃうなんて。怖いとか、なかったんですか?」
「別に……大体さ、そんなに讃められるほどのことじゃ……」
「ううん、格好よかったです!」
正面から讃められ、優人は何と答えていいか分からず、少々赤面した。ただ、余り無条件に讃められたことがない彼にとっては、決して悪い気がするものではなかった。
この時、亜実は握り拳を作って頬に当て、飛び跳ねてはしゃぐという、何とも子供っぽいリアクションを見せた。一歩間違えれば同性の大きな反感を買いかねないものだが、この時の優人は彼女の中に、それをまだ許してもいいのではと思えるほどの純粋な幼さを見ていた。そしてそれは、かつての千鶴と同質のものでもあった。
「やばいっ!」
ふと、優人は右手に巻いている腕時計に視線を向けた。
「一〇分前! 急いでここを出ないと!」
優人は急いで出口に向かおうとしたが、亜実が慌てて楽譜をピアノの下に置いていた鞄にしまい込んでるのを見て引き返した。
「まあまあ、そんなに慌てなくたって……」
「でっ、でも……」
譜面の束と格闘している間に、ピアノの上に残っていた譜面がどさっと音を立てて床に散乱した。いよいよ大騒ぎを始めた亜実を見ていられなくなった優人は譜面を拾い始めた。
「すいません」
身を縮める亜実には答えず、拾い終えた譜面を、優人は彼女の鞄に入れようとした。
「あ、いいです。自分でやりますから」
亜実が叫びながら優人の手から譜面を取り上げようとした時、彼女の白い指が微かに優人の手の甲に触れた。ひんやりとした感触に優人は一瞬たじろいだ。
「どうもありがとうございました。助かりました」
亜実はしかし、優人のたじろぎに気づくことなく、ぺこりとポニーテールの頭を下げた。
フライトケースを背負い、鞄を抱えた優人は亜実と一緒に音楽室を出ると、そのまま二階の美術室に降りた。
そこでは女生徒が一人、描きかけのキャンバスとイーゼルを片づけていた。良和の口利きで優人は美術部室だけは顔パスで通っていたが、それでも余り見かけない顔だった。多分新一年生だったのだろう。
優人は彼女に坂中良和の名前を出して簡単に事情を説明し、部室にケースを置かせてもらい、邪魔にならないように美術室を出た。
「あ、あのう……」
出口で亜実が優人に声をかけた。その口調はもじもじした、口ごもったものに戻っていた。何かをいいたそうでいえない感じだった。
「何? 悪いけど早くしてくんない? おれ、遅刻だけはしたくないんだよ」
「あの、お願いがあるんですけど……」
亜実はそういうと少し間を置いた。そして、やがて意を決して俯いていた顔を上げ、蚊の鳴くような声で呟いた。
「あのう……唐突ですけれども……バンドに入れて貰えませんか? もしピアニストが必要ならばの話ですけど……」
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。