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Session #8 I Wish (3)

「それで、もう亜実とは逢ってないんだろ?」

「ああ」

「後悔してない?」

「もう、いいよ。お互いやっと納得できたと思うからさ」

 優人は立ち上がり、窓を開けた。冷たい雨が強く降っている外に息を吐き出した。

「コーヒー、入れるよ」

 小夜子はキッチンに向かった。

 年明け以降、それぞれが慌しさの中で三月を迎えていたが、それもあと五日で終わろうとしていた。春を迎える直前のこの時期、必ず降る冷たい雨を見ると、優人は年末とは別に、一年の終わりを感じるのが常だった。

 四月から〝サヴォイズ・ギャング〟はバラバラになる。

 良和と裕孝は浪人が決まった。

 裕孝は東高の専攻科――東高に併設されている、大学受験浪人用の特別課程で、厳しい選抜試験がある。ただ民間の教育産業に対する〝民業圧迫〟の批判を受け、二一世紀になって廃止された――に入る準備を始め、良和は勝田市内の美術教室に併設されている芸大受験講座を受け、すでに合格していた。

 小夜子は勝田市内のある地方銀行に就職が決まった。

 そして優人は、全て二部ということで東京の私立大学を五校受験し、辛うじて滑り止めの一つに引っかかった。

 悩んだ末、早くこの地を離れた方がいいという想いの方がやはり強くなり、優人はその大学に行くことに決めた。

 二月、三月を優人は忙しく飛び回った。

 両親との話し合い、東京での入試、受かった大学への入学手続き、新しい住まい探し……結局卒業式には出席しなかった。

 それでも卒業式の翌日には東高を訪れ、担任だった教師に挨拶した。

 秋以降、話す機会が増え、ひどく心配をかけてしまったのは事実だと、冷静に感じられるほどには、優人も大人になっていた。彼は素直にまず、お詫びの言葉を口にした。そして月末には東京に発つことを伝えた。

 三年の時、優人の担任だった男性教師は、年齢は二〇代後半で考えも若く、彼が接した中では比較的理解を示した方だった。学園祭後、彼が数回進路の相談した時も親切に答え、また彼が高校の三年間、ジャズに熱中していたことを告白した唯一の先生となった。

 〝頑張れよ〟といいながら差し出された教師の手を、彼は素直に握り返し、握手を交わした。その手の温もりを、優人は穏やかな想いの中で仕舞い込んだ。

「千鶴ちゃんの裁判ってどうなったの? そろそろ一審が出る頃じゃないの?」

「いや、何かもう少しかかりそうな感じかな」

 小夜子にとっても妹のような千鶴だったから、提訴以降の成り行きは気になっていた。

 一審の公判は時間がかかっていた。

 優人はその全てに出廷することはできなかったが、彼が見た限り、被告の青年は完全に萎縮してしまったように思えた。しっかりした弁護士こそついていたが、父親である国会議員がいたことはなかった。完全に保身に入ったという。更に息子には一方的に絶縁を宣言、後は逃げの一手だった。

 ああいう連中なんて所詮そんなものだから、と優人はすでに思えるようになっていたが、やはり、そんな逃げがいつまでも通じるはずはないと信じてもいた。

「親父から聞いた話では、五月の連休前くらいになりそうだって」

「なるほどね……」

「ま、大学(ガッコ)を二部にしたのも、なるべく身を軽くしといて、いざとなったら少しでも動けるようにってのもあるからさ」

「そう……で、明日はどうすんのさ?」

 コーヒーカップを渡しながら、小夜子は訊ねた。一口飲んでから優人は答えた。

「一応学校に寄ってから、そのまま寝台で東京に行くよ」

「え、何か用事あるの?」

「そんな訳じゃないんだけど……何となくね」

「ふぅん……」

 小夜子はそのまま黙った。優人が少々感傷的になっていることには気づいてなかった。

「じゃ、今夜は地元最後の夜ってわけ?」

「まあね……お前も一人暮らしは慣れた?」

「いろいろ大変だけど、気楽だよ、やっぱ」

 小夜子は一緒に抱えていた缶ビールを開け、飲み始めた。

「本当に、今日のセッションが、フェアウェルセッションになっちゃうんだ……」

思い出の(メモリアル)、って言葉をつけてもいいと思う」

「茶化すなよ、優人」

「そんなつもりないさ。本当にみんなさっぱりしてたと思うよ。良和も、裕孝も、遙さんもマスターも、五十嵐さんもね」

「マスター、これからどうすんだろ……」

「マスターは大人だよ。大丈夫さ」

「そうね、そうよね。馬鹿みたいな心配しちゃった」

 小夜子は取ってつけたような笑顔で答えた。

 北女の卒業式を待って家を出た小夜子はアパートで一人暮らしを始め、銀行の研修を受けながら自動車免許の教習所に通っていた。

 一方、優人は数日前より、家から少しずつ荷物を送り出し、最後の分を送ってから、鍵を大阪に送った。

 結局、生活必需品の大部分を送り出してしまったため、ここ数日は最低限の荷物とサックスを抱えて、〝サヴォイ〟の宿泊室に居候を決め込んでいた。市内のマンションから〝サヴォイ〟まで通勤しているマスターが、優人達のライヴの準備などで遅くなったりした時に泊まる部屋だ。

 そして〝サヴォイ〟のスタジオで〝サヴォイズ・ギャング〟としての最後のセッションをやった。マスターと、久し振りに帰っていた拓哉を交えてのものだった。

 みんなが驚いたのは、拓哉がトランペットを始めていたことだ。

「一体どうしたの? 五十嵐さん?」

「まあ、成り行きとおれの気まぐれとしか言いようがないが……結構楽しくてな」

 目を丸くする優人達に拓哉は笑った。

 秋口から始めたというから、まだ半年足らずということだが、この時の優人にはかなりの腕前に聴こえた。

 ピアノとトランペットを半々という感じでのセッション参加だったが、トランペットについては、例えばファンク系のナンバーでソロスペースを渡せばメイナード・ファーガソンばりのハイノートを決めるし、バラードナンバーではマイルス・デイヴィスもかくやというハーマンミュートで繊細な音を紡ぎ出すといった感じで、もはやピアノとトランペットの、どちらが本業なのか分からないほどだった。そして両方の充実振りが、そのまま名古屋での活動の充実さ加減を伺わせた。

 当初、本当は東京か、それがだめなら大阪か京都辺りで活動したいと考えていたが、まずは勝田市を離れることが先と考えた上での決断だった。それにこの後、一九八九年にはニューヨークの老舗ライヴハウス〝ボトム・ライン〟の日本支店が開店するなど、名古屋は九〇年代以降の日本のジャズシーンに、少なからず影響を与える場所となり、拓哉の選択は決して間違っていなかったといえた。

 セッションは心地よい緊張感の中で進んだ。

 何らかの形で人前でやったナンバーや、セッションのためだけに必死でコピーしたナンバー……スタンダードからフュージョンまで、様々な音が飛び出した。『リカード・ボサノヴァ』も『アイ・ウィッシュ』も『ドクター・サックス』もみんな大切なナンバーとなった。それぞれにいろんな思い出が染みついていた。優人の高校生活は〝サヴォイズ・ギャング〟に始まって〝サヴォイズ・ギャング〟に終わっていた。

 遙もスタジオに入り、〝サヴォイズ・ギャング〟の最後の演奏に、必死にカメラのファインダーを向けた。

 セッション後のコンパも、これまで通りの笑顔の絶えない雰囲気だった。全員がそれぞれの道を見据え始めていた。

 そんな自分達を、マスターはどんな思いで見詰めているのだろうと優人は思った。

 優人は下心を持ってマスターに、東京に行く、と告げたが、結局彼は東京での昔話はしなかった。

「俺は出歯亀は嫌いなんだ。されるのも、するのもな」

「マスター、ごめん」

「いいよ、気にするな」

 失礼を詫びる優人に、マスターは微笑んだ。

「お前が東京で何かを感じられた時になったら、話してやる」

 優人は無言で頷いた。

 でもピアニストでいることを断念して故郷に帰る決心をした時、強い痛みがあっただろうということは、優人にも充分に想像できた。

 そして〝サヴォイ〟を開いて姪の小夜子を通して優人達と出逢ってからは、マスターは陰に陽に〝サヴォイズ・ギャング〟を助けた。その中の一人である優人がかつての彼自身のように楽器を携えて東京に行く。

 クールに振る舞って見せても、心の中に何か感慨がなければ嘘だ、と優人は思った。少なくとも彼は、マスターはそんな人だと信じていた。

 その後、優人は一足先に〝サヴォイ〟を出る羽目になった。

 話があるからアタシのアパートに来てくれ、という小夜子につき合わされることをマスターに告げてから優人は宿泊室から小さな旅行鞄を取ってきて、カウンターに置いていたサックスのケースを右肩に抱えた。しばらくこの店ともお別れだ、と思うと一抹の寂しさは隠せなかった。

「じゃ、マスター……」

「明日は用事が立て込んでてな、見送りには行けないんだ。まあ、しっかりやって来い」

「了解」

 マスターに返事をしてから、優人は良和達に向き直った。

「じゃあ、良和、裕孝。悪いけど先に大学生してくるよ」

「おうよ。どうせ夏休みには帰ってくるんだろ」

「その時はまた面白い話聞かせろや」

「そのうち名古屋にも遊びに行くよ、五十嵐さん」

「逆だ、馬鹿。おれが東京にセッションに行くんだよ」

「あはは……遙さんもいろいろありがとう」

「がんばってね」

 酔いに任せて陽気に送り出そうとしてくれる五人に、優人は右拳を高く掲げた。

「じゃあ、元気で!」

 〝サヴォイ〟を出る直前、優人はもう一度全員に声をかけ、小夜子と一緒に彼女のアパートに向かおうとした。

「まさクン、ちょっと待ってよお」

 出て数歩のところで遙が優人を呼び止めた。

「これ、渡すの忘れるとこだったわ。餞別になるか分かんないけど、受け取ってくれる?」

 遙が手渡したのは、十数冊のポケットアルバムだった。一冊を抜き取って中を見ると、それは〝サヴォイズ・ギャング〟のそれまでのライヴやセッションの写真だった。東高の学園祭でのライヴのものもあった。それは、その時を懸命に生きようとした、優人達の記録だった。

「ほら、あたしいってたよね。君等の記録係になったげるって」

「覚えてるよ」

 結局、遙は自分でいった通り、初めて〝サヴォイ〟でライヴを始めてからの二年近く、優人達を被写体としてファインダーを向け続けた。

「余り上手い記録係じゃなかったけど、受け取ってよ……ね?」

「すごいよ、これ。貴重だよ。本当にありがとう。頂くよ」

「本当はもっと君達を追ってみたいけど、君達が卒業するんなら、あたしもいつまでも君達を追いかけるわけにはいかないし。あたしも君達から卒業しないとね」

「ねえ、優人。これ見て見て。なんかギター雑誌で使って貰えそうな写真だよ、これ」

 小夜子は、一枚の写真を指さしてはしゃいだ。そこには下からのアングルで捉えられた、ギタリスト織部小夜子の勇姿があった。

 優人は遙に向き直った。

「本当にね、まさクン見てると他人の気がしないの。あたしの一八の時に、本当そっくりなんだもん。だからすごく貴重なもの見せてもらったような気がする。感謝しなきゃね」

「いつかもおれ、いったけどさ」

「何?」

「遙さんも流行(はや)らない人だね、本当」

「お互い様でしょ、それは」

「似てんのかな、おれ達」

「かも知れないよ」

 三人は笑い合った。特に遙の笑顔は飛び切り無邪気だった。

「で、あたしもさ、明日用事があって見送りに行けないんだ。ごめんね」

「いいよ。こんないい餞別(もの)貰ったから」

「本当にありがとうね」

「こっちこそだよ、本当に」

 こんなに素直な気持ちでありがとうっていえる自分は、少しは成長したのか――と優人は信じたかった。

「じゃ、元気でね」

「遙さんも、来年は大学卒業でしょ? 頑張ってね」

「うん、頑張る」

 遙は手を上げて答えた。

 小夜子と一緒に数メートル歩いたところで優人はもう一度〝サヴォイ〟を振り返った。

 店に灯りが灯っているのを見て、優人は安堵した。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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