Session #8 I Wish (2)
「もしかして……」
話を聞き終えた亜実が口を開いた。
「受けるのが全部二部なのも、裁判と関係があるの?」
「それは、いろいろとお金がかかりそうだからってことで?」
「うん……」
亜実はバツが悪そうに口ごもった。
「ま、おれはおれなりに考えた結果だから」
優人は笑って答えた。
もっとも、父親は進学させるなら一部に行かせる腹づもりだったらしく、優人の決意を当初は立腹気味だったが、それが予想以上に固いことを感じ、半ば呆れるように折れた。優人は本気で昼はアルバイトで働くつもりでいた。
「そうそう、わたしの方もちょっとあったの」
「再開発が中止になったって話?」
「なぁんだ、聞いてたの?」
「うん、やっぱりマスターが教えてくれたよ」
千鶴の一周忌が終わった直後、十代町一丁目の再開発計画が中止になったという話がもたらされた。
樋川建設側の地上げ攻勢は苛烈を極めた。多くの住民が動揺し、一時は反対運動の組織委員会も崩壊寸前まで追い込まれた。
そんな中、住民達を支え、踏み止まらせたのは〝生まれ育ったこの場所に、これからも住み続けたい〟という、自然な想いだった。理由や事情はどうあれ、この場所に先に住み、生きてきたのは自分達の方だという強い自負心だった。
後から来た者を理由なく排斥するつもりはないが、そこにはお互いに守るべき礼儀がある。金が全てではないし、金だけで全てが解決できるなどという無礼な在り方は絶対に許さない――住民達の踏ん張りは、再び強さを増した。
そしてついに樋川建設側が折れた。計画の白紙撤回を住民側に伝えてきた。
この話は全国ニュースで取り上げられた。地元で生まれ育ち、そこで生きてきた人々を無視した開発は、軋轢を生むだけだという論調がほとんどだった。
優人は、〝サヴォイ〟がなくなるという危惧がなくなったことに素直に安堵した。だが一方で反対運動の一端に触れたことから、この土地の空気に反発し続け、大学受験を契機に離れようとしている自分がいることに、時折後ろめたさを感じるようにもなっていた。
「でも……家の中、今大変じゃないかい?」
「ん……今では見切り発車だったって、父は頭抱えてます」
亜実はくすりと笑った。娘としては不謹慎な話だが、それくらいには逞しくなったということかも知れなかった。
「父はまだ諦めてないみたいですけど……ただ……」
「何?」
「〝ばち〟が当たったのかも〟っていってくれたから、取り敢えずそれだけでいいです」
亜実は小さく伸びを打った。
「ところで亜実は今日は? 制服なんか着てさ」
「部活。久し振りの合同練習だったんだ」
「合唱部だったんだよね?」
「もう忘れたの?」
「ごめん。そういえば、なんか歌が聞こえたもんな。じゃ、学校にいたんだ」
「学校じゃ全然逢えないもんね」
「そうだなあ。おれも音楽の授業以外じゃ、芸術棟なんて行かないから」
「そう……」
二人はしばらく黙り込んだ。お互い、言葉が見つからなかった。
「少し歩こうか?」
「うん」
優人は自転車を引いて歩き出した。亜実は以前と同じ幼い足取りで優人についてきた。
海へ出た。冷たい風の中に微かに潮の香りが交ざっていた。
二人は防波堤の近くに佇んだ。
「ねえ、優人さん。なんでわたし、前日に〝サヴォイ〟に来れたと思う?」
亜実のポニーテールが風にたなびいた。優人は無言で首を横に振った。
「小夜子さん、うちに来たの」
「え? いつ?」
「最後の練習の、三日くらい前かな」
初耳ではあったが、優人には何となく想像はついていた。
「その時小夜子さん、就職が決まって、内定式の帰りだったみたいで、学校の制服のままだったの。だからわたしが知り合いだっていったら、母も安心して小夜子さん部屋に上げてくれたの」
優人は亜実を見詰め、黙って話を聞いた。
亜実は部屋のベッドの上で上体を起こし、小夜子を迎えた。
「まだ体調戻らない?」
亜実の母親に出されたアイスコーヒーをストローで飲みながら、小夜子は穏やかな微笑みを浮かべた。
「す、すいません、まだちょっと……」
亜実は口ごもった。突然訪れた小夜子に怒られると決めつけていた。罵りの言葉を覚悟していた。
「ねえ、亜実。優人のどこがよかったの?」
「え?」
亜実は肩透しを食らったような気持ちになった。この日の小夜子が、とても大人っぽく思えた。
「アイツとはね、もう十年以上も顔突き合わせてるけど、おかしなやつだと思うんだ。ま、今のアイツは音楽馬鹿だよね、やっぱ……」
小夜子は一度、言葉を切った。次の言葉を探すように目を閉じ、意を決して再び口を開いた。
「幼なじみだからね。アタシがこんな性格で、アイツがあんなだろ、昔はよく泣かしたんだよ……でも千鶴ちゃんのことがあってからアイツ骨太になった。確かに性格だんだん歪んでったけど、真剣にジャズやるようになったのはあれ以来だし、サックスは上手くなっていくし、リーダーらしくなってきたし」
「小夜子さん、優人さんのこと、好きなんでしょ?」
亜実は単刀直入にいった。
「さあ……今でもよく分かんない。ただアタシが今までアイツのことを音楽仲間として見ようとしてたことと、あんたが来てからは、正直余りいい気持ちはしなかったってことは、はっきりいっといた方がいいかもね……ちょっとした嫉妬かも」
「す、すいません……」
「亜実が謝ることないさ」
小夜子は笑った。
「でも最近のアイツのサックスの音、何だかすごいことになってる。普段、変わらないように取り繕ってる分だけ、何ていうか、こう、音が痛々しくて、時々耳を覆いたくなる」
「そんな……」
「アイツも悩んでるんだから、それは分かってね」
亜実は無言で頷くしかなかった。
「とにかく、お互い本当に好きなら、目を背け合わないで、一度はちゃんと見なきゃね」
「う……うえっ……」
その言葉を聞いた途端、亜実は涙を溢れさせた。彼女は一人娘だが、姉に諭されるのはこんな感じなのかな、と思った。
「じゃあ、そろそろアタシ帰るから」
小夜子が立ち上がった。
「みんな待ってるから。じゃあね」
たしなめるようにいい残し、小夜子は部屋を出た。やがて〝お邪魔しました〟という彼女の声を亜実は聞いた。
亜実は自分の中で何かが整理できたと感じていた。
やがて彼女は、机の引き出しの奥にしまっていた『アイ・ウィッシュ』の譜面を引っ張り出した。
〝この娘も自分と同じだったってこと……?〟
マスターにいわれたことを思い出し、優人は亜実の話を聞き終えてそう思った。
〝お互いに相手の背後に見えるものにこだわっていて、相手自身を見ることなんて、まだしちゃいない〟
マスターが優人に投げかけた言葉だ。
「わたし、すごく勘違いしてたって思う」
亜実は、小さな身体で背伸びした。
「前にわたし、自由に憧れてたっていったけど、それって優人さんにすごく失礼だったんだなって」
「おれは別に気にしちゃいないけど……」
「そっちは気にしなくても、こっちは気にするの」
亜実はむくれた。
結局、お互いに相手自身を決して見てなかった。
優人は亜実の背後に、自らを取り巻いていた理不尽さを象徴的に勝手に何かを見い出してそれを憎み、亜実は優人の背後に勝手に自由を感じて憧れた。
だが結局は初めから存在していた〝ボタンのかけ違い〟を互いに感じ始めたことから苛立ちを募らせ、優人は亜実に拒絶され、苦しんだ果てに〝サヴォイズ・ギャング〟の最後のライヴを通し、二ヶ月の空白がやっと二人を向き合わせた。
「分かったよ、亜実。もういいよ」
優人は煙草の煙を吐きながら呟いた。今度は煙の白さと、吐く息のそれが交ざった。
「ちゃんと見なきゃ駄目だよ」
「ん?」
「小夜子さんのこと」
「何だよ、急に」
「わたしの勘なんだけど……」
軽く赤面する優人に、亜実は悪戯っぽく微笑んだ。
「小夜子さん、絶対優人さんのこと好きだよ」
「おい」
「えへ」
優人は亜実の頭を小突いた。彼女は肩を竦め、舌を出した。その表情を見詰める優人に、もうわだかまりはなかった。
「じゃあ、わたし帰ります、そろそろ」
「送っていくよ、駅まで」
だが優人の申し出を、亜実は丁重に断わった。
「大丈夫? 駅まで結構遠いよ」
「平気。それに少し一人で歩きたいんだ」
「……分かった」
優人の返事を待っていたように、亜実は歩き出した。数歩進んで振り返った。
「これから寒くなるけど、風邪引かないようにね」
「うん」
「受験勉強、頑張ってね」
「うん」
「東京、行きたいんでしょ?」
「うん」
「頑張って東京行くんだよ」
「うん」
「じゃあね、バイバイ」
「バイバイ」
亜実は前を向き直り、小走りに駆け出した。ポニーテールに括られた長い黒髪が搖れた。
さよなら――。
優人は心の中で、もう一度呟いた。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。