Session #8 I Wish (1)
二学期になって学園祭が近くなり、優人達の周囲は俄に慌ただしくなった。
一九八七年の東高の学園祭は、九月の第二週に行なわれることになった。
スケジュールとしては木曜日から日曜日までで、体育祭も含めた各クラスの準備は大体二週間くらい前から始まるが、基本的には木曜日から土曜日までが各クラスの催し物の日、土曜日の夕方から体育祭の準備の仕上げにかかり、日曜日に体育祭となる。
〝サヴォイズ・ギャング〟が出演する東高音楽祭が行なわれるのは土曜日の午後だった。クラスの催し物と体育祭の準備に重なっているにも関わらず、音楽好きな連中が集まり、毎年程々の盛り上がりを見せていた。
優人はリーダーとして、様々な事務手続きに当たった。主催者である生徒会と放送部に出演申請書と機材セッティング表を提出したり、機材関係の打ち合わせに顔を出したりで、結構忙しくなった。そして出演順を決める打ち合わせでくじ引きをした結果、幸か不幸か、〝サヴォイズ・ギャング〟はトリ、つまり一番最後を取ってしまった。
そんな忙しい合間を縫って優人達は練習を続けた。
だが亜実は練習に出てこなかった。
二学期が始まる直前に退院したという話はマスターから聞いていた。それを受け、優人は何度が亜実の家に電話を入れた。
交際っていた頃と同じように決めていた時間に電話すると必ず亜実が出た。
「もしもし」
「あ、優人です」
「あ……」
「あ、あのさ……」
「練習のこと?」
「うん」
「ごめん、行けなくて」
「あ、ああ……」
「身体の調子、悪いんだ」
「あ、そう……」
「ごめん、またこっちから電話するから」
だが結局、亜実からの連絡はなかった。
亜実は二学期になってからずっと、学校も休んでいた。良和に頼んで美術部の後輩に探ってもらったところ、風邪をこじらせて休んでいるというが、電話口の亜実を知った優人は、それが仮病だとすぐに分かった。学園祭に出演することへの諦めが生まれ始めた。
そして学園祭前日の、最後の練習の日を迎えた。
これまで亜実の代役を務めたマスターもスタジオに顔を出さなかった。この日、もし亜実が顔を出さなければ、〝サヴォイズ・ギャング〟は次の日の本番に出演しないつもりだと、彼も知っていた。
キーボード抜きで音を出してみても、この日は全然締まりがなかった。四人はいつの間にか音を出すのを止め、ぼんやりとし始めた。
「亜実ちゃんは? 連絡したのか? 優人?」
裕孝が真顔で訊ねた。優人は無言で首を横に振ってから答えた。
「昨日電話はしといた。今日が最後の練習だってことだけいっといた」
「どうも、今日も学校に来てないみたいだぜ」
他人事みたいな口調で良和が言葉を続けた。
「出演……無理かなあ……」
「アタシはそんな心配ないと思うんだけどね」
優人が沈痛な面持ちで吐いた言葉を、小夜子は軽く受け流した。
「何だよ、小夜子。何かあったのか?」
「別に……ただそんな気がするだけ」
訊ねた優人に小夜子はとぼけた返事をした。
しばらく無言の状態が続いた。裕孝はスティックでスネアのリムを叩き、良和と小夜子はそれぞれチューニングを始め、優人がマウスピースにキャップをかぶせた時だった。
「あ……亜実ちゃん……」
裕孝がスティックを止めていった。他の三人が顔を上げた。
亜実がいた。
スタジオのドアのところで息を弾ませ、立っていた。初めて優人の部屋に来た時と同じオレンジ色のTシャツを着ていた。少し長めの黒いスカートの下からは、黒のコンバースが覗いている。トレードマークのポニーテールもそのままだった。
亜実は早足で優人に近づき、息を整えながらいった。
「あ、あの……ごめんなさい……」
亜実は静かに顔を伏せた。肩が震え、声が涙で濡れた。
「ごめんなさい。今はごめんなさいとしかいえないけど……」
「分かった、もういいよ。一緒にやれるね?」
亜実は無言で頷いた。優人は依然と同じように亜実の頭を軽く撫でてやった。
「じゃ、最後しっかりシメようぜ」
裕孝が力強くバスドラムを踏み始めた。
「すいませんっ!」
珍しく大きな声で亜実が叫んだ。裕孝はバスドラムを踏むのを止めた。
「今からこれできませんか?」
「え?」
何のことだか分からず、呆けていた優人達を焚きつけるように、亜実は『アイ・ウィッシュ』のベースラインを力強く弾き始めた。
「おいおいおい」
「どういうつもりだよ!」
優人はマイクに向かって叫んだ。『ドクター・サックス』の練習用に五人分のマイクがすでにセッティングされていた。
「これ、やれませんか!」
亜実もまた、マイクのスイッチを入れ直し、元気に叫んだ。
「大丈夫です。二、三日前から家で練習してました。やりたいんです。やれます!」
小さな身体を心地よさそうに揺すりながら、亜実が視線を小夜子に向けた。
「全く……」
小夜子もまた微笑みながらギターのリフを乗せた。
優人は亜実の瞳を見直した。彼女の表情には、これまでのあどけなく無邪気な色があったが、その瞳には毅然とした想いがたたえられていた。
亜実は強い決意を持って明日の〝サヴォイズ・ギャング〟の最後のライヴに臨んでいた。それは優人にも関わってくることで、彼女がどんな決断をしても真正面から受けとめなくてはならない。
優人は覚悟した。
「なあ、優人。いっそ『コンファメーション』止めねえか? 4ビートやったって、どうせ受けねーんじゃねえの?」
「いいねえ、決まり」
良和の言葉に小夜子が立ち上がった。
「じゃ、今日の音出し、いっそ『アイ・ウィッシュ』からやっちゃおか?」
「異議なし!」
裕孝と良和がいい合った。
不意に優人は高校二年の秋を思い出した。
全てに絶望し、ひねくれていたあの頃。だがこの時優人は、仲間達と話す中で、そんな爛れた皮膜のようにくすんだおよそ一〇ヶ月の日々が霧散してゆくのを感じていた。
『アイ・ウィッシュ』が、久し振りに激しく、そして心地よいセッションになった。
亜実から優人へ、久し振りの電話が入ったのは、冬も押し迫った一一月の末だった。
この時期になると、毎週日曜日に三年生は必ず模擬試験を受ける。優人は試験の終わる午後の時間を指定し、待ち合わせ場所に向かった。
学園祭以来、優人は亜実とは全然逢わなくなっていた。同じ学校にいても、二年生と三年生では校舎が違うし、優人も二年生のいる校舎には余り近づかないでいたから、逢うのは本当に久し振りだった。
待ち合わせの場所は勝田市港の近くの公園だった。
前年の夏、ここの野外ステージで〝サヴォイズ・ギャング〟は〝ソリッド・スウィング・オーケストラ〟とジョイントライヴを行なった。それを見て亜実は優人を知った。彼女にとっては出逢いの場所だった。
約束の時間に五分ほど遅れた来た時、まだ亜実はいなかった。優人は自転車を止めてステージの角に腰を下ろし、途中で買った缶コーヒーのプルトップを引き抜いて飲み始めた。冬の押し迫った晩秋の空気は冷たく、優人の肌を圧迫した。缶の口から流れる湯気と、吐く息の白さが交ざり合った。
「優人さん、久し振りです」
優人を〝さん〟づけで呼んだ亜実は、セーラー服の上に学校指定のコートを着ていた。
「眼鏡かけたんですね。いつから?」
「一〇月くらいからかな。慣れない受験勉強なんてするもんじゃないね、全く」
優人が毒づくと、亜実は微笑んだ。
ライヴが終わって以来、優人も受験勉強を始めた。四月頃から視力に不安が出てきていたが、ついに眼鏡が必要になった。
「模試だったんでしょ? どうだったの?」
「もうボロボロ。だけどまあ、引っかかりそうな大学が見えてきたから」
「受けるのは、全部東京なんでしょ?」
「まあね」
優人はコーヒーを飲み干して立ち上がり、テニスシューズの踵で空き缶を踏み潰した。
「あと……受けるの全部二部なんだって?」
「誰から聞いたの? それ」
「昨日久し振りにマスターにも電話したから……ごめんなさい」
「別にいいよ、本当のことだから」
済まなそうに肩を縮めた亜実に、優人は笑ってみせた。
この段階で、優人は東京で受けるべき大学を絞り込んでいたが、その全てが二部、つまり夜間の学部だった。
「ちょっと事情ができてさ、あんまり親にお金頼らないでいこうと思ったんだ」
「差し障りなかったら、教えて欲しいんだけど……」
「うん……裁判起こすことになったんだ」
「裁判って、妹さんの事故の?」
「ああ、親父の一大決心だよ」
優人は笑いながらいった。
千鶴の一周忌法要の後、優人と両親で改めて千鶴の墓参りに行った時だった。
父親の実家は、勝田市内の郊外にある。住所こそ市内だが、周りには田畑が広がっていて、地方の農村風景そのままだった。
実家の建物から歩いて五分ほどのところに墓地があった。次男で、すでに実家から離れている父は、本家の墓からも離れる形を取っていた。幸いにも、本家の墓所がある墓地の一角を新たに購入できたが、自分より先に娘がそこに眠るとは、想像できなかった。
線香を立て、三人で手を合わせた。
墓参りを終えると、父親は母親を先に帰るよう促した。すでに何事かを理解している感じだった彼女は文句をいうでもなく、笑ってその場を離れた。
「やっと決めたよ」
父親もまたほっとした笑顔を見せ、損害賠償の民事訴訟を起こしたと優人に告げた。
父親は、建築設計事務所の共同経営者だった大阪在住の友人には、早い段階で娘の死亡事故と、不当な圧力により刑事裁判としては許し難い結果に終わったことを話していた。するとその友人は烈火のごとく怒り狂い、詰め寄った。
「そんな馬鹿な話が許されていいはずがない! 弁護士紹介してやるから洗いざらいぶちまけろ!」
そこから密かに話は進んだ。
友人の紹介で知り合った弁護士から、その知り合いの弁護士が勝田市内で事務所を開いていると聞き、彼を相談役として訴訟準備を始めた。
処々の雑務が重なり、時間はかかったが、その結果、千鶴の命日に提訴するということになった。
温厚で、余り派手なことが好きではない父がなぜ? と優人は不思議に思った。
父親は息子にいった。
「その時までは、まず残された方のことを最優先に考えようとしていた。だがアイツに激怒された時、〝それで生き延びたって、千鶴が果たして喜んでくれるだろうか?〟と考えた。やはり戦って、千鶴の名誉を回復してやらなきゃ、浮かばれんと考え直した……今から考えれば、至極当然のことだがな」
「母さんは何ていってるの?」
「むしろ喜んでくれたよ。最後までやろうってな」
「父さん……」
「みんなにはまた苦労をかけるかも知れんが、よろしく頼む」
父親にそういわれ、優人は何も言葉を返せなかった。
無論、父親の決断によって家族が挑むことになる新たな闘いがどれほどの労力と時間を要するのか、この時の優人には見当がつかなかった。だが少なくとも、千鶴の名誉を取り戻す闘いに、もやは背を向ける理由などなかった。
〝やればいいさ……〟
優人が見上げると、空に鳶が舞っていた。
月並みな鳴き声を響かせ、鳶は何度か上空を旋回し、飛び去っていった。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。