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Session #1 Isn't She Lovely (2)

「いずんしーらーぶりー、いずんしーわーんだぁふるー」

 その日の秋雨の濡れ方は、ゆっくりと身体に染み込むようだった。

「ばっいずんしーらーぶりー、めーふろーらぶ!」

 優人の横ではしゃぎながら、妹の千鶴が日本語訛りの強い英語でスティーヴィー・ワンダーの『イズント・シー・ラヴリー』を歌っていた。英語が好きで、中学入学後は辞書片手に歌詞カードとその対訳を見比べる日々を送っていた。

 この日も、小学生の時から通っていた英会話教室が主催する英語のスピーチコンテストに出場するため、その練習で帰りが遅くなるということで、優人が千鶴を迎えに行くことになった。彼女は毎週二回、市内の繁華街から少し外れたところにあるその教室へ、一旦自宅に帰ってから足を運んでいた。

 一方、優人は〝サヴォイズ・ギャング〟のセッションや練習がある時はアルトサックスを収めたフライトケースを抱え、ジャズクラブ〝サヴォイ〟の二階にあるスタジオに向かうという日々だった。そして〝サヴォイ〟とそのスタジオが入っている雑居ビルと、千鶴が通う英会話教室が割りと近いところにあり、たまに優人が千鶴を迎えに行っていた。

「ねえお兄ちゃん、小夜姉ちゃん達とやってるバンド、上手くいってる?」

 一通り歌い終えた千鶴が、彼女が実の姉のように慕っている小夜子の名前を出した。英会話教室の授業の一環で初めて聴いたというスティーヴィー・ワンダーの『イズント・シー・ラヴリー』に興味を持った千鶴に、カセットテープを渡したのが小夜子だった。以来、千鶴の部屋からスティーヴィーの歌声とハーモニカが絶えず流れるようになった。

「ん……まぁな」

「スティーヴィー・ワンダーやんないの?」

「え?」

「お兄ちゃんだって嫌いじゃないんでしょ? ジャズもできる曲ばかりって聞いたし」

 小夜子を真似たらしいショートボブの髪をかき上げ、はしゃぎ続ける千鶴の横顔を、優人は言葉を濁して見詰めた。ショートボブのヘアにツーポイントの丸眼鏡の組み合わせは、色白で、やや大きめの黒目がちの瞳を持つ丸顔の千鶴には意外に似合っているように優人は思った。

「あんまりはしゃぐな、濡れるぞ」

 自転車を引きながら傘を差していた優人は、飛び出しかける千鶴の上に傘をかぶせた。

「お兄ちゃん、喉渇いた」

「え、何だよ急に」

 毒づきながら、優人は学生服のポケットの小銭をまさぐった。

「そこの自販機で買ってくるから、待ってろ」

「じゃ、あっちの交差点まで先に行って待ってるねー」

「こら、聞いてんのか……」

 優人がいうより早く、千鶴は交差点に向かって小走りに駆け出した。小雨に濡れるのも構わずといった様子だった。

「しょうがねえなぁ」

 はしゃぐ千鶴の小さな背中から一旦視線を外し、優人は飲料の自動販売機まで向かった。自分用に缶コーヒーを、千鶴用に缶入りの烏龍茶を買い、後を追おうとした時だった。

「事故だ!」

「女の子が!」

 急に周囲が慌しくなり、人々が交差点の方に向かって走り始めた。

「まさか……」

 優人は激しい胸騒ぎを覚えた。買ったばかりの二本の缶をその場に放り出し、交差点に駆け出した。

「すいません、退いて下さい!」

 すでにでき上がっていた人だかりを強引に掻き分け、道路に飛び込んだ。

「う、嘘だろ……」

 横断歩道の真ん中辺りに、千鶴の小さな身体がうつ伏せのまま横たわっていた。そして接触したと思われる白の軽自動車が道路脇につけられ、ドライバーらしき男がバツの悪そうな表情を作り、車外で座り込んでいた。

 その時確かに、千鶴側の歩行者用の信号は青のままだった。

「千鶴!」

 優人は叫んだ。

 だが千鶴の身体に動くような素振りはなかった。

 やがて千鶴の身体の周りが朱に染まり始める。


「優人、おい優人」

「あ……ごめん」

 小夜子に呼ばれ、優人は我に返った。

 痛みを含んだ記憶は、そのまま街への違和感へと変化していた。

 優人達が生まれてから一八年を過ごした勝田(かんだ)市は、大阪以西の西日本に位置する小都市の一つだ。

 〝商業の街〟と呼ばれることもあるが、それも結局は地方の狭いコミュニティの中だけのことで、取り立てて有名な産業や産物があるわけでもない。皮肉にも優人が通った県立東勝田高校が、創立八〇年近い歴史において、過去に何度も甲子園の高校野球大会に出場していることで、意外と全国的に知られていることを、優人は後年知ることになった。

 それでも一九八〇年代になり、大手電機メーカーの工場を郊外に誘致する計画が本格化した。後にバブル景気と呼ばれる経済のうねりがようやくこの街にも及んだかと、多くの大人達が笑顔を見せ始めていた。

 無論、優人がそのことについて、自覚的に何かを考えていたわけではない。だがそれは後に彼に大きな影を落とす遠因となった。

 〝東高〟こと東勝田高校は、県下でも有名な、高い大学進学率を誇る進学校だ。

 見方によっては馬鹿馬鹿しいほどに歴史と伝統を重んじるこの学校で尺度とされる才能は、毎日朝から晩まで鉄面皮を張りつけていられる世渡りの上手さだけ――この頃の優人にはそう映った。

 勝田市内には、いわば〝東高信仰〟があり、受験生を持った親達は〝できることなら東高に〟という、ある意味では人の親ならごく当然の望みを持つ。

 中学時代の優人の成績はかなりいい方だった。確かに充分狙えたから、何の疑問も持たず東高に願書を出した。

 後で思えばどうにも子供じみた受験戦争をくぐり抜けて合格を知った時、優人はは仲間とも家族とも一緒に喜んだはずだった。

 そんな優人が大きな懐疑に直面したのは、高校二年の九月だった。

 交通事故で、当時中学二年だった妹の千鶴を失った。

 世の兄貴達にとって妹の存在はどんなものなのかは、恐らく人それぞれだ。ただこの時の優人は千鶴との間に不思議な間隔を置いていた。

 病弱で喘息持ちで、昔から決して健康とはいえなかった千鶴を、優人は気にせざるを得ない環境で育った。両親の代わりに彼女の通院につき添ったり、風邪をこじらせた時には終日看病したこともあった。そしてそれがよかったのか悪かったのか、千鶴にとって、兄である優人が〝年代の近い最初の男〟ということになってしまっていた。そして優人の方も、何かとまとわりついてくる千鶴を疎ましく思う反面、ざらついた外の感触とは違う、奇妙な滑らかさを感じていた。

 だから勿論、彼女を失ったことは、それ自体がひどく辛いことだった。

 それまでいるのが当然だった存在が、ある日、ある時を境に忽然といなくなる。しかも二度と戻らない。こんな現実をいきなり突きつけられて平静でいられるはずはなかった。

 そして後の顛末が、優人のその後をほぼ決定づけた。

 事故の原因は加害者の過失で、慣れからくるスピード違反と脇見運転だった。

 にも関わらず、加害者は略式裁判で、たった五〇万円の罰金刑で終わってしまった。

 後で話を聞き、優人は呆然とした。

 事故当時二〇歳だった加害者の男は、大手電機メーカーの工場誘致に尽力した、地元選出の有力国会議員の息子だった。いわゆるフリーターのまま遊び呆けている、典型的な馬鹿息子だった。

 しかも時期が悪く、国政選挙が間近だった。議員は警察など関係各所に圧力をかけて事件の詳細を書き換えようとした。彼らにすれば簡単なことらしく、調書を作る段階で細工をするものだった。

 同時に秘書を通じて優人と家族に接触してきた。手打ちのための見舞金に恫喝のおまけつきだった。

「貴方を干すぐらいわけないんですよ……」

 優人の父親は市内で、主に内装工事を中心とした小さな工務店を営んでいた。

 バブル景気の盛り上がりが地方にも波及しつつあったこの頃、頑張れば仕事を増やすこともできただろうが、それも仕事を提供してくれる存在があってこそだ。地元に大きな事業を呼んでくる有力議員に逆らえば、明日から路頭に迷うなんてことも、少なくともこの頃の地方都市なら充分有り得た。

 娘を失い、無気力になっていたところにダメ押しのような恫喝に対峙し、心身ともに疲れ切った彼は、それでも家族を養わなければならないという自分の役目を優先させた。

 優人は怒った。生まれて初めて父親に食ってかかった。だが、やがて憔悴しきった両親の横顔を見るにつけ、そこで想いの発露を繰り返しても無意味であることを悟った。

 その時からだった。

 優人の中で街と学校の全ての光景が、ほとんど色褪せた。

 進学校の面子にこだわる窮屈な雰囲気。

 程よく指導要領に忠実で、程よく生徒達の冗談が分かって、とにかく全て程よく適当な教師達と、程よく話題が豊富で――その話題も優人にはどうしようもなく幼く思えた――程よく話を合わせ、程よく笑い合っていられて、そのくせテストの席次のことになると目を血走らせて一喜一憂する生徒達に、優人は強い違和感を覚えるようになった。

 勢い、優人は〝サヴォイズ・ギャング〟のセッションに熱中した。唯一、彼の中で色褪せることのなかった空間で、ほぼ毎日学校帰りに遅くまでやるから、授業中は船を漕ぐし、家で机に向かう時間もほとんどなくなる。当時、校長が全体朝礼のたびに繰り返していた〝東高生なら毎日家で五時間は勉強しろ〟なんて言葉に深い意味を感じることはなかった。

 中ほどの数字は維持できていた優人の成績は結果、一気に学年順位で最下位まで落ち込んだ。教師達に落伍生の烙印を押され、相手にされなくなったのも東高の学校生活の中に生きがいを見つけることを放棄した原因の一つには違いなかった。

 結局、街も学校も、優人の想いとは無関係に時間は淡々と流れてゆく。自分一人の想いなんて気にも留められないものだと思った。この時、優人は初めて世間の〝無情〟と〝非情〟を全身で味わった。

 話が広まり、級友達は誰も優人と口を利こうとはしなくなり、優人もまた、自分から口を開きはしなかった。

 寂しいとは思わなかった。むしろ優人は、無粋な干渉をする者がいなくなったのを喜んだ。そして自身の中につけられた、雑菌だらけの爪で引っ掻かれ、塞がっても跡が残るような傷は、きっとお前等には無縁だろう、という精一杯の虚勢な気持ちを張って生きた。

 そんな中、優人の父親に転機が訪れたのは暮れも押し迫った一二月だった。大阪在住の友人から、新しく建築設計事務所を開くから手伝って欲しいと打診された。

 彼はその話に乗った。新しい街で心機一転を図ろうとした。

「おれ、この街に残りたいんだ、敢えて」

 優人はこの時、たとえ一人でも勝田市に残りたいと告げた。公立の高校への編入は、試験などいろいろと厳しい問題があることも理由の一つではあった。

 そして優人にも仲間がいた。

 〝サヴォイズ・ギャング〟――ギターの小夜子、ベースの良和、ドラムの裕孝。彼等とのセッションに、優人はどれだけ勇気づけられただろうか。そんな仲間を失うより、教室で孤独に耐える方を選んでも、優人は構わなかった。

 更に優人はある想いを抱いた。

 この街を見続けてやる。

 どうしようもない不正が平気でまかり通るのに、自分に直接影響がないというだけでみんなが無視できる、汚れた、無情なこの街を。

 何をするわけでもなく、ただ見ることだけに何かの意味があったのか? と思えるが、この時の優人は真剣だった。ただ見続けるだけでも、何かの意味があるように強固に思っていた。

「……」

 頭ごなしに反対されると思っていたが、両親とも改めて反対するようなことはなかった。何かを感じてくれていたのかと優人は思いたがった。

 結局、優人は年が明けて早々に一人暮らしを始めた。

 一方、母親は父親に従った。心身ともに弱っている上に、幾つかの持病も抱えていた夫のそばにつくことにした。

 優人の高校生活は概ねそんな感じだった。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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