Session #7 (Want to be a) Doctor Sax (3)
ミーティング終了直後、裕孝が急に口を開き、自身の身辺の変化を語り始めた。
優人は唖然とした。
裕孝の告白は優人、良和、小夜子が店を出ようとする直前、唐突に始まった。
「あ、そうだ。忘れんうちにいっとくわ。おれさ、名前変わったから」
「は?」
出口に向かおうとしていた三人は一斉に振り返った。
「何だよ、それ」
「今日から五武裕孝になる。母親の昔の名字さ」
「それって裕孝……」
「離婚れたんだよ、両親がな」
裕孝の口調はあくまで淡々としていた。
裕孝の両親が不仲だということは優人達も薄々感じていた。中学時代も裕孝の強い拒絶の前に、彼の家に遊びに行くことはなく、更に高校生になって彼が髪を伸ばし始める頃には裕孝の口から自身の家族の話題は全く出なくなった。
裕孝の父親が、市内の繁華街で複数の風俗店を経営する実業家だと、優人達はこの時初めて知った。名前を出されると、全員が〝ああ、あの店か〟と頷くほど、実は浸透していた名前だった。
元々接客が好きだった裕孝の父親は、三〇代半ばで脱サラして水商売の世界に飛び込んだ。才覚に恵まれていたのか、事業は順調に進んだ。
新しいものにも敏感で、この頃出始めたキャバクラのシステムをいち早く取り入れたり、バイト採用の女子大生を上手く回したりなど、地方の商売人としてはそれなりの成果を見せていた人物だった。
「別におれは水商売が悪いなんて思っちゃいないし、信念を持って取り組むに値する仕事だと思ってるさ……でもな……」
お前等は部品だ、幾らでも取り替えが利く――そう公言してはばからない彼の父親の、女癖の悪さはとにかく目に余るものだった。店の従業員に手は出すわ、社員旅行の先でナンパはするわで、一緒に働く数少ない正社員の評判は散々だった。
「亜実ちゃんとはレベル違うけど、おれも忘年会とかさ、親父の誕生パーティとかさ、何かにつけ店のパーティに引っ張られたけど、そこで前に引っ張り出されるのが嫌でね。みんなの目が敵意剥き出しなんだよ」
「裕孝……」
小夜子の呟く声が泣きそうになっていた。
「実際、正社員の一人が裏で吐き捨ててるの聞いちまったからな、〝ゴキブリ社長のクソボンボンが〟ってさ」
やがて両親の関係は冷え切った。裕孝が中学に入った頃にはすでに家庭内離婚の状態で、母親が一人で背中を丸めて肩を震わせているのを彼は何度も見た。
「おれはさ、母親似らしいんだ。髪伸ばしたのも半分は親父への当てつけだったんだ。大袈裟に考えたつもりはないんだけど、やっぱ若い頃髪伸ばしてたらしい母親みたいにすれば親父も嫌がるんじゃないかなってさ」
裕孝は笑った。優人は彼のクールな表情の裏にある痛みを初めて垣間見た。
「結局おれも弟も母親に引き取られることになったけど、おれは別に母親を全面的に支持してる訳じゃない。ただ泣いて悔しがるだけの生き方なんておれは嫌だ」
「弟いたんだ」
「話したことなかったもんな……今年小学校に上がったばっかりなんだ。年は大分離れてんだよね」
裕孝は初めて自分の弟の存在を口にした。優人は黙って煙草に火をつけた。
「そりゃ泣き叫んだよ、弟は。でもまだ小一じゃん。区切りもいいし、これから長く生きていかなきゃならないこと考えたら、今名字が変わるなんて一時的なリスクだと思うよ。勿論おれに関していえば、もう〝安斎〟の名前は嫌だ」
「強いね、裕孝って」
小夜子が小さく呟いた。
「自分じゃ、そんなことないと思ってんだけど、ただ最後に親父には吐き捨てたよ」
お前なら愛人に孕ませて跡継ぎのガキ作るくらい訳ねェだろ――そういい捨て、裕孝は父親の元を去った。
「ま、慰謝料と養育費の問題もクリアしたらしいし、一応市内に2DKのマンションを借りれそうなんだ」
夏休みが終わる前に引っ越しを済ませ、二学期から母子三人での新たな生活を始めると、裕孝はいった。
「けどまた学校の連中うるせえだろうなあ、ウチの教師ども、こんなことにはさといから」
裕孝は大きく背伸びした。
「二学期に備えて、馬鹿どもへの言い訳と反論、今から考えとかんとなあ」
「考えてみりゃ、ひでぇ話だよな」
良和が少々おどけて呟いた。
「オレの家って恵まれてるのかな。あんなに明るい家じゃ、とてもグレるなんて考えられんからな」
「別におれはグレちゃいないよ」
良和のボヤきに裕孝は笑った。
「でも明る過ぎるのも考えもんだぜ。あれじゃ真面目な話が切り出し難くてよ」
「違いねぇ」
ムースでかっちりとセットしたヘアスタイルを掻きながら良和がボヤくと優人は思わず吹き出した。
「だからさ、亜実ちゃんの話、ずっと聞きながら思ってたよ、気持ち、分からんでもないって」
「そうかい?」
優人は吸い終えた煙草を灰皿に押し込み、裕孝に向き直った。
「変に親に立ち塞がれると……やっぱりな。でも、まあ、いいさ」
裕孝の表情は、どこか晴れ晴れとしていた。別離が次を見つめる契機になっていた。
「でもさぁ優人、突然だけどジャズって面白いな」
「え?」
「あんまり褒められたことじゃないが、今日みたいにちょっと気持ちが荒れてるとすぐに演奏に出るんだよな」
「分かるよ、それ」
「何か生身でぶつかってるって感じがたまらないんだ、最近さ。赤っ恥かくことも多いんだろうけど、自分が自分でいられるよ、ここは。フュージョンもいいけど、ジャズはずっと続けたいね」
「ほんと、ジャズって自分が裸にされそうなのよねぇ、恥ずかしくって……」
小夜子はギターケースを腕の中に抱えたままいった。
「正直さ、おれにとって家族ってもうここしかないのかも知れないなって、思うよ。〝サヴォイ〟に来ればみんながいて、マスターがいて、遙さんがいて……不思議と素直になってるような気がする、全く」
家族――裕孝のその言葉に、優人は一瞬身を縮めた。
よく考えてみれば、亜実のことも、ほぼ一年前の優人自身の家族に関する葛藤がなければ、くすんだ色に染まることはなかった。亜実そのもの見ていたんじゃないというマスターの言葉を、優人は改めて思い返していた。
「ま、それぞれあるってことだろう。どっちにしろ、〝サヴォイ〟はいつでも開けているのは今まで通りだ、分かったな、裕孝」
「了解、マスター。じゃ、先に帰るね」
話の最中に優人達が開けた缶ビールの空き缶とプルトップを片づけながらマスターが裕孝に声をかけると、裕孝は手を上げて〝サヴォイ〟を出た。
「じゃ、俺達も帰るわ」
「取り敢えず次もよろしく」
「バイバーイ」
優人達もマスターに声をかけ、裕孝の後を追いかけるように店を出た。直前、マスターの口元が緩んでいるのが優人には分かった。
「ひろたかー、待ってよー」
小夜子の甲高い声が店の外で響き渡った。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。