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Session #7 (Want to be a) Doctor Sax (1)

 その夜、優人は激しく酔った。

 アルコールで全てのわだかまりを綺麗に流してしまいたかった。そうしないと〝サヴォイズ・ギャング〟の練習再開はできないと思った。

 二本目のバーボンが空になった時点で、優人は完全に正気を失った。

 翌朝、優人は店内のソファの上で目覚めた。

 マスターが優人を担ぎ上げて寝かしつけ、タオルケットをかけた。エアコンも適温に調整されていた。

 頭痛と吐き気は強烈で、優人はトイレで五回吐いた。でも気分は晴れていた。

 五回目の嘔吐の後、優人はトイレ脇の洗面台の前に立った。

 Tシャツを脱ぎ、洗面台の蛇口に何度も後頭部をぶつけながら頭から水をかぶった。近くにあった石鹸で顔を洗い、鼻をかんだ。

 洗面台から顔を上げた優人をめがけ、タオルが一枚飛んできた。優人は顔面で受け止めた。タオルを取ると、開け放たれたドアの向こうに〝サヴォイ〟のモーニングセットを持ったマスターが立っていた。

「水道の音が聞こえたから、もう起きたな、と思ってな。もう一一時を回ったぞ。朝飯兼昼飯だ。今日は午後からお前等みんな、俺につき合ってもらうからしっかり食え。酒残ってても、これくらい食えるだろう」

「ちょっと待ってよ。店はどうするのさ。それにお前等って……」

 優人は慌ててトイレから飛び出した。マスターはモーニングセットのトレイをカウンターに置いた。

「今日は日曜だ。小夜子と良和と裕孝には夕べお前がぶっ倒れてから電話しといた。一二時過ぎにはみんな集まってくるから、それまでにしゃきっとしとけ。サックスはスタジオに置いといたから。雑用が終わったら、俺もすぐ行く。久々にセッションだ」

 マスターは優人の返事を聞かず、〝サヴォイ〟を出た。

 マスターが全部ブッキングしてしまった以上、優人に文句はいえなかった。ただ久々にマスターのピアノでサックスが吹けると思うと、少し楽しみな気もした。

 優人は一人、カウンターでモーニングセットを食べ始めた。三枚のトーストとベーコンエッグ、小さめのサラダを苦いブラックコーヒーで胃に流し込むと、大分気分が落ち着いてきた。食べ終えてから優人は、もう一度洗面台に戻り、うがいをしてから煙草を一本、ゆっくりと吸った。

 二階のスタジオに入り、置いてあったサックスのケースを開けた。優人はストラップを首にかけ、いつものようにサックスを組み立て、ストラップのフックに引っかけた。アップライトのピアノの蓋を開けてAの音を出してチューニングを済ませてから、メトロノームを鳴らしながらのスケール練習を始めた。

 一時間ほど続け、ようやく感覚が戻ってきた頃、背後のドアが開いた。振り向くと、ホットパンツにTシャツ、素足にコンバースという軽装でギターケースを抱えた小夜子が立っていた。

「あ……おはよう」

 小夜子は優人の場違いな挨拶には答えず、無言で目の前を横切ってギターアンプの前の椅子に座り、ケースからギターを出してセッティングとチューニングを始めた。

「優人、アタシはさ、もう少しあんたは強いって思ってた。どんなにささくれたって、サックス持つ時はリーダーになれるって、そう思ってきたんだ。見込み違いだったなんて、思いたくないよ」

 幾つかのコードをランダムに弾いていた小夜子が突然口を開いた。

「小夜子、何がいいたい?」

 小夜子の口調ににじみ出た嘲りの色が、優人の感情を逆撫でた。

「亜実にのぼせてたあんたって、どうしようもなく滑稽だったね。はっきりいうけど、アタシはあんたと亜実のサイドメンじゃない。惚れた女が可愛いのは分かるけど、公私混同されちゃ、こっちは大迷惑だよ」

「この……」

「あんたの亜実の可愛がり方見てるとムカついてくるよ。そんなに可愛いけりゃ、いっそペットにでもすれば?」

「……!」

 優人は我慢し切れなくなった。

 ギターを置いて立っていた小夜子のTシャツの胸ぐらを掴んだ。

「小夜子! 喧嘩売りに来たのか!」

「はん! アタシはやっても構わないよ!」

 小夜子の言葉に、優人が拳を振り上げた。

「やれやれーい」

 スタジオの入口の方から聞こえた声に、二人は同時に振り返った。

 ベースのソフトケースを抱えた良和だった。

「何だ、やらねえのか。つまんねえな」

「良和、何のつもりだ、お前は」

「やるなら徹底的にやれよ。つまんねえモノ引きずってやったって、いい音出るわけないし、こっちも気分が悪くなる」

「……」

「離せよっ!」

 良和に毒気を抜かれた優人の腕を、小夜子は強い調子で払い除け、ギターに向かった。良和もベースアンプに着いて、ベースのセッティングを始めた。

「久々のマスターとのセッションだってのに喧嘩したままってのは頂けないな」

 背後から今度は裕孝の声がして、突っ立っていた優人は慌てて振り向いた。

「裕孝、来てたのか」

「ついさっき、良和と一緒にな。来たらお前等喧嘩してるから、おれが止めようとしたら、良和に止められた。〝しばらく様子見てやれ〟だと」

「あの野郎、人が悪い」

「でもま、よかったんじゃないの」

 裕孝は小声になり、優人の耳元で呟いた。

「最近小夜子のやつ、相当溜まってたみたいだし、お前も小夜子の本音聞けただろ?」

「チェッ……」

 優人が舌打ちすると、裕孝はスティックケースを抱えてドラムセットに向かった。

 マイクとマイクスタンドのセッティングを済ませ、ピアノの上に置いていたサックスを取り、ストラップにかけ直してサックスを構えてベルの位置をチェックし、スタンドの高さを調整した。そしてモニタースピーカーの音量チェックのため、優人はマイクに向かってワンフレーズ吹いた。

 だがセッションの御膳立てをしたマスターがまだ来ない。数日振りにメンバーと顔を合わすこともあり、どう口を開いていいか分からないでいた優人に良和が助け舟を出した。

「マスター、まだ雑用少し残ってるみたいでさ、もうちょっと時間かかるっていってたぜ」

「あれ、マスター戻ってたの?」

「買い物行ってたらしいよ。で、戻ってから何かウォークマン聴きながら書きものしてた」

「あ、そう」

 優人は生返事をした。

「先にウォームアップしとこうぜ」

「じゃ、『コンファメーション』やるか」

 裕孝が手首でスティックを振った。

「それでいいか。じゃ、やろう、早速」

 優人の言葉に応え、裕孝がカウントした。

 演奏が始まっても小夜子だけは何もいわず、仏頂面のまま、ギターに向かっていた。


 不快感がテーマを吹く優人を捕らえていた。

 チャーリー・パーカーの『コンファメーション』を〝サヴォイズ・ギャング〟で取り上げてから一年以上が経っていた。

 アルトサックス奏者にとっては〝必ず習得しなければならない〟といわれるほど大切な、ジャズのスタンダードナンバーで、そのメロディは初めて耳にする者のほとんどを〝これがテーマ? ソロのフレーズじゃないの?〟という気持ちにさせる難曲だが、ビ・バップの原点といえるコード進行はインプロヴィゼーションし易く、やっていてメンバーが一番はしゃぐ曲なのに、この時は全くグルーヴしなかった。

 スタジオ内に重苦しい空気が漂い始めた。

 何より、優人のサックスの音が全く冴えないのを、彼自身が焦りの中で感じ始めていた。

 モニターから返ってくる自分のソロの音に嫌悪感を抱いた。

 意味のないスケールアウトフレーズ、初歩的なリードミス、フラジオトーンのミス……サックスのキーに触れる指先と、ストラップをかけている首の周りが、ひどく汗ばんだ。

 4コーラスもやると、優人は耐えられなくなり、目で合図をして小夜子にソロを譲った。

 小夜子は椅子に座り、俯き加減にして、ストラトキャスターの音を軽く歪ませ、一心不乱にビ・バップフレーズを紡ぎ出す。

 だがこの時はただ黙々と弾いてるだけ、という感じは否めなかった。

 優人はスタジオの一角を占めるピアノに視線を移した。

 亜実との諍いが優人に重くのしかかった。

 あの出来事の前まで亜実は、そのピアノに向かっていた。蓋の閉じたピアノを見詰めていると、今度は亜実のあどけない笑顔が浮かんできた。彼女が音楽で自由を得ようとする喜びを全身で表現するようにピアノを弾いていた姿が、優人の脳裏から離れなかった。

「優人! テーマ!」

 良和が罵声で優人に指示を出した。我に返ると、小夜子はすでにソロを終え、優人のサックスとユニゾンで入るはずのテーマを弾き始めていた。慌ててギターにつけるが、動揺はすぐ演奏に現れた。

 アンサンブルは壊れた。

 演奏が終わった直後、何もいわずに即興で繰り出された小夜子のイントロで次の曲が始まった。

 ミディアムテンポで始まったスタンダードナンバーの『朝日のように爽やかに』。小夜子がテーマの冒頭4小節までを弾いてから優人が引き継いだが、テーマを吹き終えるとすぐに小夜子がソロで奪ってしまった。

 今度はオーソドックスなジャズギターらしい音で迫る小夜子のソロを聴きながら、優人はただ居心地の悪さばかりを感じていた。

 やがて小夜子からキューが回った。優人のソロの番だった。

〝あ……れ?〟

 最初の1コーラスで優人は、『コンファメーション』では分からなかった裕孝の不調に気づいた。

 ライドシンバルが繰り出す4ビートが前に突っ込んだり後ろにもたったりで、微妙にずれていた。普段、安心して乗っていられる彼の繰り出すビートは明らかに狂っていた。

 ソロを良和に渡すと、優人は裕孝の方を見た。裕孝はハイハットを刻みながら済まなそうに笑った。自分の不調は自分がよく分かっていた。

 何かあったな――優人は思った。

 気分転換に、ベン・タッカーの『カミン・ホーム・ベイビー』をやった。ハービー・マンのフルートで大ヒットした曲で、以前は拓哉を交え、彼のオルガン――正確にはDX‐7にプリセットされたオルガンサウンド――をフィーチュアして何度も取り上げていた。

 この日、四人だけでやったが、それでも裕孝が微妙なズレから立ち直ることはなかった。彼がブラシで8ビートを叩きたいといったので、その通りにしたが駄目だった。

「ねえ、ちょっと時間くれない?」

 小夜子が肩を竦めながらいった。

「何だか弦が死んでるみたいなんだ。すぐスペアに変えるから」

 小夜子は背後からギターケースを取り、ケースのポケットからスペアの弦を探し始めた。

 彼女が弦を取り替えている間、裕孝は暇を持て余すようにバスドラムのペダルを踏み、良和はベースアンプのトーンコントロールのつまみをいじって調整を始めた。優人はマイクから離れ、後ろにあった椅子に腰を落として、大きく息をついた。

 結局、四人は黙り込み、セッションを止めた。

 スタジオは無機的な場所だから、そこにいる人の感情がそのままその場の雰囲気と化す。スイングしない、グルーヴしない理由を安易に求める訳にも行かず、優人達はそれぞれが感情の澱みを持て余し、不愉快に蠢くままに任せていた。

 スタジオ内に立ちこめていた重苦しい空気の濃度と優人の焦りが最高潮に達した。他の三人も同じような思いでいた。

 優人はスタジオに来ないマスターを恨み始めていた。

〝マスター、何やってんだよ……〟

 泣き言を吐きそうになった時にスタジオのドアが開き、陽気な声が飛び込んできた。

「よ、やってるか」

 優人達は一斉に振り向いた。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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