Session #6 To Young To Go Steady (4)
六時半を回った頃に優人は〝サヴォイ〟に着いた。
この日はもう店先から看板が消えていた。店内に入ると、カレーの香りが優人の鼻孔をくすぐった。
「マスター、来たよ」
「おう、優人。ま、そこ座れ」
カウンターの中でマスターは、顎でしゃくって自分の目の前のに座るように促した。
優人はスツールに座り、足元にサックスのケースを置いた。
「なあ、優人。お前もう飯食ったか?」
しばらく黙っていたマスターは、話題を変えた。
「いや、まだだけどさ……」
「久し振りにカレー作った。夕べから仕込んでたんだが、どうも作り過ぎちまった感じでな。遙くんも帰省しちまって、誰も食べてくれん。晩飯まだなら食え」
「えっ、でもなあ……」
返答に詰まる優人を、マスターは強引に押し切ると厨房に入った。
かなり大きな皿に優に二人前はあるだろうライスを盛ってから、溢れるほどのルーを盛りつけてカウンターに戻ると、マスターはスプーンと一緒にどん、と出した。
「マスター、もう少し情緒のある出し方できないの?」
優人は目を剥いた。
「優人、お前最近、痩せたんじゃねえのか?」
「え?」
優人の悪態にマスターは答えなかった。代わりに投げかけられた質問の意味を優人は分かりかねていた。
「どうせ一人暮らしで、まともなもん食ってないんだろ? 遠慮しないで食え。金は取らないって知ってんだろ?」
「かなわないな、マスターには。じゃ、いただくよ」
優人はカレーを食べ始めた。マスターのカレーは〝サヴォイズ・ギャング〟のメンバーの間でも評判がよく、練習の後にはみんなで酒を飲むか、マスターのカレーを御馳走になるのが彼等の習慣だった。
「ごちそうさま……ねえ、マスター、ついでにコーヒー入れてくれるとすごく嬉しいんだけどな」
「了解」
二〇分ほどで二人前はあるカレーライスを平らげた優人の調子のいい注文を、マスターは素っ気なく受けた。
優人は煙草に火をつけてから、店内にかかっているBGMに耳を澄ませた。
「トレーンだよね?」
マスターは振り返り、笑みを浮かべた。
流れていたのは、ジョン・コルトレーンの〈バラード〉。一九六〇年代にジャズに惹かれた人にとっては外せない名盤だ。
『ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ』が終わり、三曲目の『トゥー・ヤング・トゥ・ゴー・ステディ』に変わっていた。
ナット・キング・コールの歌唱で知られる、このナンバーに聞き耳を立てていた優人の前にマスターがグラスを置いた。中には小さめの氷塊が三個と、琥珀色の液体があった。
「ねえ、マスター。耳が遠くなる年じゃ、ないだろ?」
優人は憮然としていった。
「はん?」
「おれはコーヒーって、いったんだけど」
「黙っててもお前は顔にすぐ出るからな。酒飲みたいって、顔に書いてあるから俺はそれに従っただけ」
「未成年に酒を勧めて……営業停止になるぞ」
「他人の店の酒、散々飲んどいて何を今更。お前はふてぶてしい時は徹底的にふてぶてしいからな」
「大きなお世話だ」
「おまけにふてぶてしくなると、ずいぶん老けた感じになっちまうからな」
「飲んでやるからなっ!」
「どうぞ御自由に……」
毒づいた優人をマスターは軽く受け流した。
優人はウイスキーのロックをちびちびと舐め始めた。
不安定な気持ちをささくれさせないため、意識して酒を絶っていた優人の身体に、ロックは応えた。熱い塊が喉から胃に落ちてゆく感覚が自分ではっきり分かった。
優人は時間をかけ、ロックを二杯胃に流し込んだ後、三杯目を水割りに変えてもらうと、飲むピッチが早くなった。マスターは五杯目のお代わりと一緒に枝豆を出した。
枝豆を摘んで口の中に投げ込みながら水割りを口に含み、一緒に胃の中に落とす。優人は心地よい酔いに包まれていった。
エンドレスにセットされた〈バラード〉のCDは、一曲目の『セイ・イット』に戻っていた。トレーンのテナーが奏でる柔らかなメロディが、優人の酔いの回りを急速に早めた。
逆上して亜実に手をかけた挙句、無様に酔い潰れようとしている自分がひどく醜く思えた。今の惨めな想いでサックスを吹いたらどんな音が出るのだろう――優人はぼんやりと考えた。
「優人。そろそろ話してくれんか?」
「やっぱ顔に書いてある? マスター」
優人はグラスに残っていた水割りを一気に飲み干した。
「何かあっただろう、ということぐらいはな」
「そう……」
「お前から話を聞くまで俺も話せん。ことと次第によっちゃ、この場でお前をぶっ飛ばす」
「……分かったよ」
優人は覚悟を決め、ここしばらくの間に亜実の間に起こった出来事を一つ一つ細かく話し始めた。
「理想を持って生きるのも大切だろう」
黙って聞いていたマスターが、僅かな無言の間の後に語り始めた。
「理不尽で不条理な状況に押し込められたお前にとっちゃ、こうあって欲しいっていう想いが切実なのも分かる。だがな……」
マスターはショットグラスにウイスキーを注ぎ、ストレートで飲んだ。
「そばにいる人を悲しませたり傷つけたりしてて、一体何の理想だよ」
「マ、マスター……」
「多分お前は亜実ちゃん自身を見ていたんじゃない、優人」
「は?」
「きっとお前は亜実ちゃんを通して亜実ちゃんの後ろの別のものを見てたんだよ。例えそれがお前の一方的な思い込みかも知れなかったとしてもな」
「何? それ」
「お前にとっての……理不尽な力か。千鶴ちゃんの命を奪っときながらのうのうとしてられる、憎んでも憎み切れない理不尽な連中の象徴か」
「そんなことは……」
「決して穏やかじゃなかったはずだろ? 亜実ちゃんの家の話を聞いてからは」
「……かも知れない」
「そんな亜実ちゃんが、突然お前に近づいてきた。お前が唯一胸を張って自慢できる、音楽してる時の姿に憧れてな。お前はそれですっかり舞い上がってしまった。そんな気持ちで交際ってたから、その象徴をどこかで征服できたって思ってしまったんじゃないのか?」
「惨めだな……」
優人は唇を噛んだ。
亜実自身を見ていたんじゃない――マスターの言葉は真っ直ぐ優人の胸に突き刺さった。
亜実は優人を慕い、優人も亜実が好きだった。だがどこかで亜実に対し、優人は一線を引いていた感もあった。
亜実の家のことだ。
樋川建設が、〝サヴォイ〟がある一角を地上げし、再開発を計画していると知った時、〝なぜだ!〟という激しい想いが渦巻いた。
一方で、優人は確かに亜実と交際うことで少し心を開いた。ただその想い故、亜実自身を真正面から見据えられなかった。
「でも亜実ちゃんも同じだよ。お前自身を見てたんじゃなくて、お前の後ろに別のものを見てたんじゃないかな」
「亜実いってたよ。〝自由に憧れてた〟って」
「社長令嬢で家もどこか厳しくてさ、学校の先生達にも妙な期待をされてしまう娘だ。周りなんか関係ないねって感じでジャズやってるお前が、自由に思えても不思議じゃない」
「ん……」
「ただ、あの娘は敏感だから、ひょっとして気づいたんじゃないかな。お前自身を見てなかったんじゃないかってな」
亜実は人一倍の繊細さ故、優人の屈折した想いを敏感に感じ取った。それは言葉にならない故、優人への苛立ちも激しかった。
そして同時に、亜実の繊細さは、彼女自身にも向けられた。
「亜実ちゃんな、ここしばらくずっと父親と口論が絶えなかったらしい」
「え? そうなの?」
「反対運動のイベントに出たのがバレてな、それ以降、ずっとだと」
亜実の母親から聞いたという話を、マスターは丁寧に語った。
「計画を今すぐ中止して。居場所を奪わないで……ずっと父親に訴えてたらしい」
「そ、そうだったんだ……」
「ほとんど毎日、相当激しかったらしい」
転倒も、口論の果てに階段から転げ落ちたもので、更には階段の下にガラス戸があってそのまま激突、割れたガラスの破片で手首を切ってしまったという。
「おれは何てことを……」
あの亜実が――優人は言葉を失った。
亜実も分かっていたと優人は思った。
どんなに父親に訴えても、覆る可能性は極めて乏しい。
それでも動かずにはいられなかった。
自らが傷つくと分かり切ってなお突っ込んでいったとなれば、ほとんど自殺に等しい。
そして自分の無神経な言葉が、亜実を追い込んでしまったのではないか――優人は暗澹たる想いに囚われた。
「お前等、交際始めてどれくらいだ?」
「ん……三ヶ月くらいかな」
優人は指折り数えながら答えた。
「三ヶ月ね……結局、お前等二人ともまだお互いに相手自身を見てないんだよ。お互いに相手の後ろに見えるものにこだわっていて、相手自身を見るなんて、まだしちゃいない。本当はまだ、交際ってるなんていえないよ」
優人は黙った。マスターは優人のグラスを取り、慣れた手つきで新しい水割りを作った。
「このまま別れるにしろ、元の鞘に収まるにしろ、一遍、亜実ちゃん自身をしっかり見詰めないとな。できるかどうかで、お前の人間としての評価が決まってくる」
水割りのグラスを出しながら、マスターは大きく息をついた。
「あ……」
優人は次の言葉が見つからなかった。
「しんどいか、今?」
マスターは、俯く優人にいった。
「ただ不思議なもんでな」
返事のない優人を無視し、マスターは続けた。
「その時はそのことが一大事のように思えても、結局はそれも後の人生の前奏曲でしかないってことが分かるんだ、過ぎてしまえばな」
「プレリュード?」
「物事は全て続いてるってこと。どんなことも全て次のことの前奏曲だよ」
マスターはいい切った。
「後で分かるよ。結局全てが前奏曲さ」
「……」
優人は黙ってゆっくりと水割りを飲んだ。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。