Session #6 To Young To Go Steady (1)
『フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン』を軽快なボサノヴァのリズムで演奏し終えると、まばらだが集まった客から拍手が起こった。
バート・ハワードが一九四五年に作った後、一九六二年にボサノヴァにリメイクされて大ヒットした。
後に日本でも、一九九〇年代半ばに爆発的な人気を博したテレビアニメのエンドテーマになったり、或いは宇多田ヒカルに取り上げられたりで多く知られるようになったが、優人にとっての手本は渡辺貞夫のカヴァーだ。一九六七年に録音された〈ボサ・ノヴァ67〉というアルバムに入っているもので、中学二年の時に吹奏楽部の顧問に聴かせてもらったのが最初だった。
八月初旬、お盆前の日曜日の夕方に、〝サヴォイズ・ギャング〟のストリートパフォーマンスが決行された。
〝サヴォイズ・ギャング〟はMCを挟まず、グローヴァー・ワシントン・ジュニアの『メイク・ミー・ア・メモリー』の演奏に入った。
一九八〇年のアルバム〈ラインライト〉に収められた曲で、元々は〝ブラジリアン・フュージョン〟といった感じだが、優人達はそれをストレートなボサノヴァで聴かせた。
小夜子のシンプルなソロを受け、優人が引き継ぐ。無駄に派手にならないよう、音を選んでソロを吹いた。
〝無理もないか……〟
優人はDX‐7に向かう亜実の横顔を見た。
後に〝DXエレピ〟と呼ばれるようになる、プリセットされたエレクトリックピアノの音でボサノヴァのパターンを弾いていた。
だがこの時は、ただ弾いているだけ、という印象で、この頃の亜実のピアノが見せていた激しさはなくなっていた。
なかなか盛り上がらず、焦った優人は音数多めのビ・バップフレーズを連発したが、どうにもならなかった。
亜実は俯いたままだった。決して顔を上げようとせず、とにかくキーボードに向かっているだけだった。
十代町一丁目再開発計画反対!
出て行け樋川建設!
反対運動の垂れ幕や幟が、〝サヴォイ〟周辺に目立つようになっていた。
ストリートパフォーマンスも、それに関係したものだが、自ら参加を申し出たとはいえ、この状況に対峙する亜実の心情を、優人は計りかねていた。
〝何もそこまですることないじゃないか……〟
優人は、自らもソロを取ろうとする亜実を制し、後テーマを吹いた。
晒し者にしたくない、という想いがあった。
この頃、優人達は週に三、四日は〝サヴォイ〟に足を運んでいた。
主に午後から夕方にかけて練習時間を取った。午前中は良和と亜実が東高の夏期特別補習を受けなければならなかったからだ。
東高では夏休みは勿論、冬、春休みもあってないようなものだった。
県西部地区でトップクラスの大学進学率を誇る高校だから、まとまった休みを使って、補習を行なうのが当たり前だった。まして高校三年の夏休みだ。優人の級友達も、優人以外は全て出席していた。
講習に出席しないことは、東高の受験システムを拒否することと、同級生達から孤立することを意味した。
もっとも、すでに東高に対して拒否反応を示し、充分過ぎるほど孤立していた優人は、むしろ清々した気持ちで補習を拒否した。彼にとっては、〝サヴォイズ・ギャング〟の最後のライヴを最高にすることが全てだった。
練習は、そのほとんどの時間を『ドクター・サックス』に費やしていた。
曲の構成も大体決まった。亜実のアイディアを生かし、Aメロは優人のサックスを立ててインストで演奏し、Bメロの歌詞と途中のラップは残す形を取った。
最初、優人がテーマを引っ張った後、亜実、小夜子と良和のラップとコーラスが引き継ぐ。間奏のサックスソロは小夜子のギターソロに差し替え、テーマに戻ってからコーラスが絡むエンディングになだれ込み、そのまま優人のアルトサックスソロを突っ込む――このパターンで繰り返して音を出しているうちにアンサンブルも決まるようになり、後はソロパートをどれだけグルーヴさせられるかということに課題は絞られた。優人はより真剣な想いで練習に臨んだ。
初めて亜実を部屋に泊め、送り出した日の夜、優人は小夜子から電話を貰った。すでに良和と裕孝に遙、そしてマスターには電話を入れたという彼女は、か細い声で謝ってきた。
「亜実にも謝っといてくれない? 何かいいづらくてね……」
優人は彼女の言葉を素直に受け止め、すぐに電話で亜実に伝えた。亜実は電話口で言葉少なく頷いた。
取り敢えず、表面上は解決した形になった。
だが小夜子は無口になった。
口数だけでなく、ギターも無口になった。
あれだけ饒舌で、ロックギターを思わせるスタイルで迫っていた小夜子のギターの音数がずいぶん減った。
逆に饒舌になってきたのは亜実のピアノだ。
どこからかコピーしてきたフレーズをすぐに練習で試す。それも日によって変わる。彼女の素直な感性は貧欲に様々な音を吸収していく。それを繰り返しながら亜実のピアノは飛躍的に上達した。この頃、ソロが暴走して止まらなくなるのは、いつも亜実だった。
だが一方で、練習中に釈然としない空気も流れ始めていた。
表面上は、五人での音合わせは上手くいっている感じがあった。一曲を通しての演奏で心地いいグルーヴが溢れることもあった。
だがスタジオに詰めている時の五人の気持ちや見ている方向が全く異なっている印象を、優人は抱き始めていた。そこに没頭しているのは亜実だけで、他の三人が、どこか冷めているという印象だ。それぞれが違うところを見ている感じだった。
原因を優人は想像できた。
亜実の父親の会社による、十代町一丁目の再開発計画だった。
この店が、〝サヴォイ〟がなくなるかも知れない――そんな想いがそれぞれにわだかまっていた。そして自分達の居場所を奪うのが、目の前にいる少女の父親かも知れない。凛としたマスターの言葉があったとはいえ、不安と不満がどこかに沈殿していた。
また優人は自分の感情を計りかねていた。
〝サヴォイ〟がなくなることに対する不安と怒りは誰よりも強かった。千鶴の一件以来、理不尽な力で奪われ、踏み潰されるかも知れないという状況への不快感は計り知れない。
反面、自分を信じ切っているとしか見えない無防備な態度で近づく亜実の心を傷つけたくはない、とも思った。マスターのいう通り、それが真に〝大人の話〟で済むならば、マスターを信じようとも考えた。
それでも亜実は以前と変わらない無邪気な笑顔を優人に向けた。見透かされてるかな、とも感じた。すると優人は亜実の顔を正視できなくなった。
自分にとって、この娘の存在は一体何なのだろう。
この娘にとって、自分の存在は一体何なのだろう。
疑念が優人の頭の中にもたげ始めていた。
神社での一件以来、優人は自分の気持ちに自信を持っていたはずだった。だがこの時、彼は相反する二つの気持ちの間を搖れていた。
亜実は実は敵なのか? それとも?
漠たる不安が、優人の中で次第に大きくなっていった。
そんな中、小夜子がストリートパフォーマンスの話を持ってきた。決行二日前のことだ。
〝サヴォイ〟が入居している雑居ビルの二軒隣に、古くからの甘味処があった。北女の生徒には人気の店で、小夜子も例外ではなかった。
実は今週末、反対運動を盛り上げるためのイベントをやるのよ――店の女将が、久し振りに一人で顔を見せた小夜子に切り出した。
十代町一丁目再開発計画に対する反対運動が本格化していた。
一丁目に建てられた建物は、その大半が店舗併設型の低層住宅だった。この場所で生まれ育った人も多い。〝サヴォイ〟が入居している四階建ての雑居ビルが最も高い建造物で、唯一の例外といえた。
すでに数世帯が立ち退きに応じ、空き家が生じていた。
相続税の問題など、それぞれの事情があるため、一概に彼等を責められなかったが、一丁目の住民に漠然とした不安を広げるには充分だった。
そこに駅前再開発の際の騙し討ちのような交渉や営業の方法が悪評となって伝わり、住民は樋川建設への態度を硬化させた。
甘味処の主人は、反対運動の組織委員長でもあり、女将もまた運動を手伝っていた。
イベントは、〝サヴォイ〟が含まれる番地の一角の小さな公園で開く、と女将はいった。反対運動の署名を集めるのが目的で、客寄せのために露店を開いたりもするが、他に何か目玉になる企画が欲しいところだった。
そこで小夜子が〝サヴォイズ・ギャング〟のストリートパフォーマンスを提案した。
「アタシも手伝いたいよ、反対運動」
熱意を持った小夜子の言葉に打たれた女将から主人にすぐ話が通り、決行が決まった。
〝サヴォイ〟のスタジオでの練習後に階下で話を聞き、良和、裕孝はすぐに賛成、遙は微笑んで見せた。
再開発計画が発覚した時、動揺する優人達を〝大人の話だ、俺の店をどうするかは俺が決める〟と一喝したマスターは、賛成も反対もしなかった。
「俺のやり方への口出しは許さん。だがお前等自身が決めてやることには反対しないし口出しもしない」
マスターはそれだけいった。
「でもなあ……」
ただ優人は困惑した。
「あ……そうか、ヤバいかも……」
良和は口ごもり、舌を出した。
そこにいた全員が、彼の困惑の原因を理解した。やがて全員の視線が亜実に向かった。
「あ……あの……」
亜実は肩を縮め、下を向いた。
樋川建設の身内である自分が、その会社に反対する人々の運動に客寄せ役として参加できるのか――あの日以降、常に亜実の心を苛んできた葛藤だった。
「亜実ちゃんは無理しなくていいんだよ。立場ってものもあるんだから」
裕孝が助け舟を出した。
「少なくともおれは演奏する機会と、それを見てくれる人を集められる場所があればそれでいいって感じだから。良和は?」
「ま、オレも似たようなもんだね、単純だから。わはは」
話を振られた良和が豪快に笑った。
「はあ……」
頭を掻きながら、優人は小夜子を見た。彼女は不満そうに軽く口を尖らせていた。
「どうすんだよ、優人。やるのか? やるんなら四人? 五人?」
良和が優人に迫った。
意を決し、優人が亜実に問いただそうとした時、彼女が口を開いた。
「やるよ、わたしも」
「亜実……?」
当惑する優人に、亜実は背筋をぴんと伸ばし、優人の目を見ていった。
「わたしも〝サヴォイズ・ギャング〟のメンバーでしょ? 一緒に演奏したいよ」
「いいのか?」
亜実は、優人の念押しに深く頷いた。
「じゃあ、みんなでやろう、週末は」
優人の言葉で〝サヴォイズ・ギャング〟の、反対運動のイベントへの参加が決まった。
ただ、きっかけとなった小夜子はこの日、最後まで不機嫌な表情を隠さなかった。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。