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Session #5 Love Ballade (4)

「どうもすいませんでした」

「あ……お帰り」

 突然聞こえた亜実の声で、優人は浅い眠りから覚め、跳ね起きた。場違いな返事をしたと思った。

 風呂から上がった亜実は、長い黒髪をドライヤーで乾かしてから部屋に戻ってきた。トレーナーの袖を捲り、うなじの後ろで簡単に髪を束ねていた。トレーナーの裾は亜実の膝頭の少し上ほどまであった。彼女が歩くと、まるでトレーナーが歩いているうようだった。

「そうだ、亜実。夕べのこと、覚えてないんだろ」

「え?」

 亜実は再びベッドに座り、優人の方を見た。

「うん、覚えてない……」

「知りたい?」

「何かとってもひどいことしたような……」

「実はさ……」

 優人は亜実に、前夜の彼女の狂態をかいつまんで説明した。

「えーっ! わたしそんなことしたの?」

 そう叫び、亜実は顔を真っ赤にしてしばらく黙り込んだ。

「まあ、飲み慣れないうちはそういうこともあるさ……コーヒー、インスタントしかないけど、いい?」

「はい」

 優人は笑って立ち上がり、そのままキッチンに行った。

 食器棚からマグカップを二つ取り出してから、やかんに水を入れ、コンロに乗せて点火した。インスタントコーヒーの粉をカップに注ぎ、残っていたチョコレートの小皿に乗せた頃、湯が沸いた。マグカップに湯を注ぎ、チョコレートの小皿と一緒にトレイに乗せた。

「ねぇ、優人さんはピアノも弾くの?」

「あ、ああそれね」

 トレイを持って部屋に戻った優人に亜実が、角にあった電子ピアノを指差した。

「妹が残してったものなんだけどね、実は」

「妹……さん?」

「あんまり気にしなくていいよ。結構重宝してるし、コイツには」

 優人は努めて明るく応えた。気にし過ぎるのか、千鶴の話になるとはっきりと暗い翳が亜実の表情に差し込む。

 ベッドの反対側、玄関を開ければすぐに目につく位置に置かれた電子ピアノは、ほんの一時期、千鶴がピアノを弾きたがった際、両親が悩んだ末に買ったものだ。優人が楽しそうにサックスをやっているのが羨ましかったらしく、〝わたしはピアノ弾きたい!〟といい出した。

 結局は電子ピアノだけが残された。

 処分しようとした両親を説得し、優人は自分で使うことにした。楽曲をコピーしたり、渡された譜面をさらったりする際に必要になってくると思えたことが、そうした一番の要因だが、千鶴の思い出の一品が失われることに微かな抵抗があったことも嘘ではなかった。現に、この電子ピアノは、千鶴の最も大きな形見となった。

「ねえ、優人さん」

 亜実が訊ねた。

「ん?」

 優人は新しく煙草に火をつけて一息吸うと、吸差しを灰皿の角に置いた

「煙草って……美味しいの?」

「ん……どうなんだろう……」

 優人の曖昧な返事を無視し、亜実は優人の吸差しを引ったくった。もどかしい手つきで摘み、意を決してフィルターをくわえた。

「ごほっ、ごほっ……」

「ほらあ、慣れないことするから……」

 煙を一気に吸い込んだ亜実は激しく咳き込んだ。優人は亜実の背中をさすりながら、彼女から取り上げた吸差しを灰皿に押し込んだ。

「優人さんは小夜子さんのこと、どう思ってるの?」

「は?」

 涙目のまま、亜実は優人に鋭い視線を向けた。潤んだ瞳が強く扇情的で、優人は再び股間が熱くなるのを感じた。

「何がいいたいのさ」

「答えてよ」

「前にもいったろ。幼なじみだって」

 優人は溜息まじりで答えた。だが亜実の追求は衰えなかった。

「でも、優人さんがそうだとしても小夜子さんはどうかな」

「どうして?」

「人って、あんまり近過ぎると、互いに相手がどんなに大切かが見えなくなることがあるから」

「似たようなこと、夕べ良和にもいわれた」

「そうなの?」

「うん」

「ふーん、そう……」

 亜実は大きく深呼吸し、目頭を手の甲で拭った。

「わたし、小夜子さんみたいに綺麗じゃないから」

「どうして?」

「だって背は低いし、鼻は潰れてるし、でぶで、足は太くて短いし、胸はないし……」

「でも……」

「それに優人さんと一緒にいた時間は、絶対に小夜子さんにはかなわないから……」

 亜実は不貞腐れ口調で呟いた。

「ごめん。顔洗わせて」

「うん。キッチンで、いい?」

「いいよ」

 亜実はベッドから立ち上がり、キッチンに入っていった。

〝泣いてんのかな……〟

 優人はぼんやりと考えながら、窓の外に煙草の煙を吐き出した。差し込む夏の強い日差しに紫煙はすぐに溶け込み、消えた。

 窓から見える夏の空には、入道雲があった。夏らしい夏だった。そしてこの頃、〝無責任な明るさ〟が最も表出するのも夏だった。

 優人はそんな〝無責任な明るさ〟に組するつもりはなかったし、また組するような縁もなかった。ただこの時、夏の青空を眺めながら、ほんの一瞬、無責任でない、純粋な〝明るさ〟のみの部分に触れられるかも知れないと感じた。

「優人さん、ありがと」

 亜実が部屋に戻ってきた。少し目が赤くなっていたが、優人は何もいわなかった。

「そういえば、今何時ですか?」

 亜実の何気ない問いかけを計ったように、彼女のお腹から空腹を知らせる音が響いた。

「何だ、お腹減ったの?」

「う、うん……」

 余程恥ずかしかったらしく、亜実はすぐまた真っ赤になった。

 もうすぐ午後一時になろうとしていた。

「お昼食べに行こうか? 近くにそば屋があるんだけど、行く?」

「うん、行く」

「じゃあ、着替えておいでよ。待ってるから」

「それじゃあ、わたしそのまま帰ります」

「いいよ」

 優人の返事を受けて亜実は、引っかけてあったセーラー服を取った。優人は煙草とライターをジーンズのポケットに押し込むと、押し入れの中から白地に黒のストライプの入ったコットンシャツを一枚引っ張り出し、部屋の外へ出た。

 Tシャツの上からコットンシャツを着込み、煙草を一本吸い終えた頃、セーラー服に着替え終わった亜実が部屋から出てきた。髪も来た時と同じようにポニーテールに束ねていた。優人は今朝、彼女が起きた時と同じように頭を撫でた。

「行こうか?」

「うん」

 デイパックを背負った亜実は大きく優人に頷いた。

 テニスシューズを引っかけて先に階段を降りた優人は、白いコンバースの紐を縛る亜実を待った。

 二人で揃って部屋を後にした。

 目的のそば屋は、近くの交差点を渡って、歩いてすぐの場所にあった。

 優人の地元のそばは、他の一般的なものとは少し違っていて、玄そばのまま製粉するため、麺が少々色黒になる。また三段の丸い漆器にそばを盛り、好みの量の薬味とそばつゆをかけて食べる割子そばという食べ方も特徴だった。

 店に入り、二人は入口近くの一角の席に陣取った。すぐに水の入ったグラスとお絞りが運ばれ、優人は割子そばを二人前注文した。

「ねえ、亜実」

「ん?」

「もしかして家に帰ったら、親と戦争?」

 水を一口含んでから、優人はお絞りで手を拭く亜実に訊ねた。

 初めての外泊、しかも一人暮らしの男の家にとなれば、いろいろとあるのではと、優人は勝手に想像していた。

「ん……言い訳の方は遙さんに協力してもらえないかって考えてるんですけど……」

「なるほどね」

 優人は笑った。遙の部屋に一泊させてもらったことにし、更には、万一〝サヴォイ〟に苦情が行った際に備えて遙と口裏合わせをすれば、という内容だった。

「ただね……ちょっと拍子抜けしてるところもあるんですよ」

「え?」

「二年になってから、もっと厳しくなるのかなって思ってたんだけど、何か逆に喜ばれちゃってるみたいで」

「何だよ? それ?」

「何か、大人し過ぎるのが逆に心配だったらしくて……意外なんですけど」

「……」

「もっとも、母親って変なところで大らかだし、父親なんか今はもう次の仕事が忙しくて、あんまりわたしなんかに構ってられないって感じですね」

 夏休み前には、初めて親と喧嘩した時のことを話してたのに、今度は大らかというか、ずぼらというか……優人も拍子抜けした。

「ただ、父の仕事が……」

 亜実は言葉を詰まらせた。前夜の話は彼女に重くのしかかっていた。

「それはもう、マスターを信じよう。今は」

 優人の言葉に、亜実は大きく頷いた。

 やがて注文した割子そばが運ばれてきた。優人は自分の分を引き寄せ、まず一段目に箸をつけた。

「あー、そばつゆ飛んじゃったぁ」

「……うそ」

 二段目を食べ終えて水を飲んでいた時、亜実が叫んだ。彼女はすでに三段目まで全て平らげていた。

 夏用の白いセーラー服にそばつゆの滴を飛ばした亜実は、慌ててお絞りを袖に押しつけ、赤黒い頑固な染みと格闘し始めた。その光景を優人は微笑ましい想いの中で眺めた。

「しょうがないけど、クリーニングに出そう」

 諦めてお絞りをテーブルに置いた瞬間、また亜実のお腹が鳴った。耐え切れず、優人は吹き出した。

「足りないの?」

 優人の質問に、亜実はまた顔を赤くし、無言で頷いた。

「よかったら、これ食べる? 箸は全然つけてないから」

「いいの?」

「いいよ。どうぞ」

「うん、じゃあ食べる」

 優人は破顔した亜実に自分の三段目を差し出した。彼女はそれを大事そうに受け取ると、箸をつけた。

 嬉しそうにそばを啜る亜実の横顔に、優人は過剰なほどの無邪気さと無防備さを感じた。

 そしてこの時、優人は間違いなく、純粋な〝明るさ〟の中にいた。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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