Session #5 Love Ballade (3)
すぐにタクシーは拾えた。
だが明らかに高校生、しかも優人の胸のシャツの校章と、亜実のセーラー服のデザインで、明らかに東高の生徒だと分かる二人に対し、タクシーの運転手は、車を走らせている間中ずっとルームミラー越しに嫌らしい視線を投げかけていた。
二〇分ほどでタクシーは優人の家に着いた。優人はメーターを覗いて料金を確認し、遙から借りた五千円札を無言で運転手に差し出した。運転手は面倒臭そうに釣銭を計算して優人に渡した。
「どうもすいませんでした」
亜実を抱えて車外に出て、優人は運転手に一礼した。運転手からの返事は聞こえず、代わりにドアの閉まる音が響いた。
「ちっ」
タクシーが走り去った後、無愛想な運転手に軽く舌打ちし、優人はよろめく亜実を担ぐようにして階段を上がった。やっと部屋の前に着くと、優人はポケットから鍵を取り出し、玄関のドアを開けた。
優人は亜実の靴を脱がせ、荷物を取り敢えず全て玄関の脇に降ろし、彼女を担ぎ上げ、自分のベッドに寝かせようとした。
「う……」
「ち……ちょっと待って!」
亜実は口を押さえて呻き始めた。優人はベッドに向かっていたのを慌てて進路を変え、トイレに向かった。
優人はユニットバスのドアを開けて亜実を床に降ろし、便器の蓋を開け、そこで吐くように促しながら背中をさすってやった。
「う……うぐっ……」
くぐもった声の後、亜実の口からポンプのように吐寫物が吹き出した。
嘔吐は五分ほど続いた。
胃の内容物が出尽くしたと思えた頃、優人はキッチンでコップに水を汲み、亜実にうがいをさせようとした。力なくコップを掴む彼女の手に自分の手を添えてコップを便器に落とさないように注意しながら彼女の口に水を含ませた。
口に水を含み、吐き出すという行為を数回繰り返した後、肩で息をしていた亜実はうなだれたまま、また泣き出した。彼女の顔は鼻水と涎と涙で忽ちぐしょぐしょになった。
〝何か台なしだな……〟
不遜な想いのまま、優人は一緒に用意した洗いざらしのタオルで亜実の顔を拭いてやり、彼女を抱き上げてベッドまで運んで寝かせ、タオルケットをかけた。
すぐに亜実は小さな寝息を立て始めた。
急に疲れが優人の両肩にのしかかってきた。シャワーを浴びようと、優人は亜実の寝息をもう一度確認してから着替えを持ってユニットバスに向かった。
まずトイレの水を流した。床に吐寫物がこぼれることはなかったが、アルコールと酸の混ざったすえた匂いはどうしようもなかった。優人は換気扇を回してから服を脱ぎ、冷水のシャワーを頭から浴びた。
優人の脳裏に、亜実と小夜子の表情が張りついて離れなかった。
唇の箸に赤い線をつけたまま、優人を睨みつける小夜子と、泥酔して優人にすがりつく亜実――それを振り払いたい一心で優人は冷水を浴び続けた。
浴び終えてシャワーの水を止めてもユニットバス全体にこもった匂いは消えなかった。優人はユニットバスを出て身体を拭き、青のトランクスパンツと無地の白いTシャツを身につけ、スウェットパンツを履いた。濡れた髪の毛をバスタオルで拭いながら優人は冷蔵庫から缶入りのスポーツドリンクを取り出し、プルトップを引き抜いて飲み始めた。
優人は自分のベッドに戻り、寝かしつけた亜実の横顔を覗いてみた。彼女は、あれだけ大騒ぎしたとは思えない、あどけない寝顔を見せていた。
ふと優人は、亜実の下半身に目が行った。
捲れ上がった亜実のスカートから、やや太めの太股が剥き出しになっていた。目のやり場に困りながら、優人は彼女を起こさないように注意してタオルケットを足元までずらしてやった。
ただその寝顔は優人を少し安心させた。
優人は押し入れから毛布を取り出し、ベッドと反対側の壁にもたれかかり、スポーツドリンクを飲み干してから毛布にくるまった。
横のオーディオセットを見た。差しっ放しのヘッドフォンを耳にかけ、電源をオンにし、入れっ放しになっていたカセットテープを回してみた。
〝スティーヴィー……小夜子のテープだ……〟
流れてきたのは、スティーヴィー・ワンダーの『アイ・ウィッシュ』だった。小夜子が作ったベストセレクションだ。
千鶴のお気に入りの曲が『イズント・シー・ラヴリー』だったが、小夜子の場合は『アイ・ウィッシュ』だった。
ライヴで取り上げていたが、『イズント・シー・ラヴリー』と同様、基本的にはインストゥルメンタルでカヴァーしていたこともあり、歌詞をまともに耳にするのは久し振りだった。
I wish those days could come back once more
Why did those days ever have to go?
I wish those days could come back once more
Why did those days ever have to go?
'Cause I loved them so
もう一度あの日に帰りたい、何故あの頃が永遠に続かないのだろう、こんなにあの頃が好きなのに――意味深な想いに包まれ、優人はなかなか解放された気分になれなかった。
〝全く……〟
電源を落として床に転がり、優人は頭から毛布をかぶった。
翌朝、先に目が覚めたのは優人だった。
時計の針はもう一一時を回っていた。
「ん……あ……」
毛布を剥ぎ取って上体を起こし、優人は伸びを打った。
「あ、亜実は……?」
ベッドのすぐ横で寝ていた優人は、そのまま枕元を覗き込んだ。
「うん……」
ちょうどカーテンの隙間から差し込む陽光が亜実の目元に当たっていた。放っておいてもそろそろ目を覚ましそうだった。
「ふう、ふあ……いっ! いったぁいっ!」
亜実は甘えた声を上げてゆっくりと起き上がろうとした直後、頭を抱えて叫び、ベッドに倒れ込んだ。
「おはよう。目が覚めた?」
優人はベッドに横たわる亜実に声をかけた。亜実は原因不明の頭痛に苦しみながら半身を起こした。
「あの、優人さん……ここどこなんですか?」
「昨日、何があったか覚えてる?」
亜実は優人の質問に、きょとんとした表情を見せ、昨日の出来事を記憶の中に辿り始めた。
「えーっと、〝サヴォイズ・ギャング〟の練習の後にコンパやって……あ……」
一瞬、亜実の表情は沈んだ。優人と小夜子の喧嘩を思い出していた。
「いいよ、そんな。その辺の話は後でゆっくり話そう」
亜実の恐縮し切った声と表情に、優人はできるだけ明るく答え、彼女の頭を軽く撫でた。
「それより、何なら風呂使う? タオルは新しいのちゃんと用意するから」
この時、優人は亜実が汗と吐瀉物が混ざったような異臭を発しているのを感じていた。別にまみれているわけではなかったが、残っている昨夜の余波は、彼女自身に気づかれないうちに消しておきた方がいいと思った。
「はい、すいません……」
背中を丸める亜実の前を横切り、優人はユニットバスに向かった。昨夜の騒ぎの痕跡が残ってないのを確かめ、蛇口を捻ってバスタブに湯を張った。
湯が張るまでの時間を潰すため、優人は一旦亜実の待つ部屋に戻り、ベッドのそばにあるミニコンポの電源を入れた後、デイヴィッド・サンボーンの〈ストレイト・トウ・ザ・ハート〉のLPを取り出し、ターンテーブルに乗せた。
目を細め、溝の位置を確かめてレコード針を落とし、カバーを閉じた。
「あ、これって」
サンボーンのアルトサックスがメロディを紡ぎ始めたところで、亜実も曲が『ロータス・ブロッサム』だと気づいた。
「分かる? こっちがオリジナルなんだよ」
以前に〝サヴォイ〟で亜実に話した通り、優人はサンボーンの『ロータス・ブロッサム』を聴かせた。
〈ストレイト・トウ・ザ・ハート〉はライヴ盤だから、より生々しい音が表出する。ちなみにサンボーンの方が世に出たのは先になり、マイケル・フランクスが後で詞をつけた。
「優人さんって、サンボーン好きなんでしたっけ?」
「そうだな……好きだね、こういう黒い音」
「マイケル・フランクスの曲でワンショットソロ吹いてるのは何度も聴いたけど……何か切ないなぁ、この音」
亜実はポニーテールの髪を解き、ベッドの上で俯いたまま、じっと聴き入っていた。出された音を何でも吸収しようとする、彼女の真摯な姿だった。
「あ、あの!」
『ロータス・ブロッサム』が終わって『ワン・ハンドレッド・ウェイズ』のイントロが始まった頃、亜実がいきなり上体を起こし、急にもじもじして、優人に訊ねた。
「無理かも知れないけど……着替え何とかなりませんか?」
「え?」
「正直、セーラー服のままっての、辛くて……なければ我慢するから……」
「ちょ、ちょっと待ってね。ええっと……」
優人は慌てて押し入れの中を物色しだが、女物の服なんてあるわけがなかった。仕方なく押し入れに頭を突っ込んで更に引っ掻き回し、奥の方からやっと出てきた洗いざらしのグレーのトレーナーを亜実に投げて渡した。トレーナーは、ぼんやりしていた亜実の顔に覆いかぶさった。
「それ、おれが着ても結構大きいから、亜実なら充分下まで隠れると思うんだけど。それからこれ貸してあげるからセーラー服、そこのフックに引っかけときな」
優人はハンガーを二つ亜実に手渡した。
「あ、あのう……じゃあ……ちょっと向こう向いて貰えます?」
「分かったよ。じゃ、ちょっと風呂見てくる。沸いたら教えるから、待ってて……」
もじもじしている亜実の言葉の意味を、やっと理解した優人は着替える時間を与えるため、ユニットバスに向かった。
程よく湯のたまったバスタブの蛇口を閉め、優人は洗面台の鏡を軽く拭いた後、時間潰しに歯を磨き始めた。どうにも落ち着かない。
「亜実、入るよ。いい?」
口をすすぎ、冷たい水で顔を何度も洗った後、優人は亜実に声をかけた。
「はあい」
亜実の声で、優人はカーテンを開けた。
グレーのトレーナーを身につけ、亜実はベッドに腰を降ろしていた。フックに引っかけられた二つのハンガーには、それぞれセーラー服とスカートがきちんとかけられ、ベッドの骨組みのパイプにはソックスと鮮やかなオレンジ色のTシャツがかけられていた。
亜実のそばに立ったので、上から身下ろすことになった優人の目に、彼女の胸元がかすめた。優人が着てもやや大きめのトレーナーだから、亜実だとどうしても胸の奥が覗けてしまう。
微かに見えた亜実の淡いピンク色の小さな乳首に、優人は一瞬たじろいだ。
「どうしたの、優人さん?」
亜実は大きな瞳を優人に向けた。
「あ、あのさ、風呂、いつでも入れるよ。どうする?」
優人は動揺を隠そうと視線を外し、素っ気なくいった。
「あのう、じゃあすいませんけど、ちょっと借りますね」
「どうぞ」
優人は押し入れから引っ張り出した新品のタオルを二枚、亜実に手渡した。
「熱かったら水で埋めて調整すればいいから」
「はい」
亜実は返事をして、優人の前を横切ってカーテンを開け、ユニットバスに向かった。しばらくして、ドアを閉める音に続き、微かな水音が聞こえてきた。
優人は起き上がって窓際のハンガーにかけていたジーンズを取り、履いていたスウェットパンツを代わりにかけ、ジーンズに履き替えると、そのままベッドに大の字に寝転がり、頭の下で手を組んだ。
頬を横に向けた時、布団に温もりを感じた。
そこに、ついさっきまで亜実が座っていたと分かると、湯船につかる亜実の裸が想像された。
股間が熱くなるのを感じた優人は狼狽して飛び起きた。
「参ったな……」
呟いて優人はローテーブルに置いてあった煙草とライターに手を伸ばし、一本に火をつけた。
思い切り肺に煙を吸い込んだ優人は激しく咳き込んだ。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。