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Session #1 Isn't She Lovely (1)

 一九八七年、四月。

 地元民が敬意と親しみをもって〝東高(とうこう)〟と呼ぶ県立東勝田(ひがしかんだ)高校。各務優人(かがみまさと)が初めてその正門をくぐって以来三度目――高校三年の春だった。

 この日は入学式を終えた新一年生が初めて登校する日だった。

 東高の正門前には緩やかな坂があり、その両脇に桜の木が十数本植えてあった。入学式当日の午後まで降った雨のせいで、咲き乱れていた桜はすっかり散っていた。雨に濡れた花びらが坂を覆い、淡い色に染めた。

 この桜の花道で、この年も各部活動の壮絶な新入生勧誘合戦が繰り広げられていた。新入生は、各部の勧誘のビラの洗礼を受ける。

 優人は白いフライトケースを抱え、正門前でぼんやりとその光景を眺めていた。

 ケースの中には彼の楽器、セルマー・マークⅦ・アルトサックスが入っていた。小学四年の時、吹奏楽の課外クラブに入ったのを機に両親が新品で買ってくれた。後続モデルのスーパーアクション80(エイティ)が登場する二年前のことだ。

 絶大な信頼を誇る前モデルのマークⅥと、後続の80(エイティ)に挟まれ、マークⅦの評判は現在でも決していいものではない。

 もっとも、この頃の優人には余り関係なく、八年近く吹いてすっかりなじんでしまい、ケースのベルトを通して優人の肩に伝わってくる楽器の重みは、むしろ心地よかった。

 その一方で優人は、将来の母校となる東高、更には自分の故郷であるはずのこの街に対し、ネガティヴな感情しか持てなくなっていた。

 目に映るもの、身体に触れるもの全てに、どうしようもなく自分自身を逆撫でされているような気持ちになる時期でもあった。

 だが時期の問題として割り切れるほど、優人は身の処し方に通じていなかった。

「よくやるよ……」

 優人は口の中で小さく呟き、鼻で笑った。

 昼飯一緒に食おう、という約束の時間はとうに過ぎていた。そろそろ苛立ってきた頃、一人の男が勧誘合戦の人混みの中から優人の方に歩いてきた。

「優人ォ。悪い、悪い」

「バーロー、いつまで待たせんだよ、良和。こっちは昼飯まだなんだぞ」

 優人の不平に、坂中良和(さかなかよしかず)は頭を掻きながら詫びた。

「だって俺、一応美術部だからさ、勧誘手伝わないわけにはいかないんだよ」

 良和は〝サヴォイズ・ギャング〟のベーシストであり、またアクリルのイラストが好きで、美術部にも在籍していた。

「今日の昼飯、お前の奢り?」

「学食のAランチで勘弁して……」

「いいよ。それで手を打つよ」

 そういい合って二人は学食へ足を運んだ。

 土曜日も二時を回ったからか、学食はガラガラで、幾つかの女の子のグループがあるだけだった。自動販売機の紙コップのコーヒーを飲みながら、自分達の話題で盛り上がっていた。

 優人達はセルフサービスのカウンターでAランチを注文、御飯、味噌汁、おかず、御新香を受け取ってトレイに乗せ、入口から見て一番奥の窓側の席に向かい合って座った。

 食べながら二人は少しずつ喋り始めた。

「優人、今日はこれから暇か?」

 良和はメンチカツを頬張りながら優人に訊ねた。

「ん、まあ、一応空いてるよ」

「ならこれからお前の家に行ってもいいか? ちょっと話がある」

「話ィ? 何だよ、急に改まって……ここじゃダメなのか?」

「バンドのミーティングってことで小夜子と裕孝も呼んでるんだよ、実は」

「お前、よくも勝手に……」

「どうもここじゃ落ち着かなくてなア」

 ぬけぬけと答える良和に、優人は軽い溜息をついた。

「結構大事な話のつもりなんだがなぁ」

「わーった。わーった」

 優人は良和の言葉を遮って面倒臭そうにいった。

「じゃあ、決まりだ。さっさと食っちまってお前んとこ行こうぜ」

 それからしばらく、二人は食べることに集中した。空腹だった優人は、味つけの薄いメンチカツとコロッケを中心に据えたAランチの量に一通りの満足感を覚えた。

 お茶を飲み、そろそろ行こうかと席を立った時だった。

〝あ……〟

 偶然動いた優人の視線の先に、ある少女だけのグループがあった。

 更にその中の一人――ちょうど横顔を見せていた一人の少女に優人は釘づけになった。

千鶴(ちづる)?〟

 すでにこの世にはいない妹の横顔が不意に優人の脳裏をよぎった。やがてその面影が重なり、微かに狼狽した彼は、その少女の横顔を思わず覗き込んだ。

 少女は〝美しい〟というより〝可愛い〟という方が適切だった。

 艶やかな長い黒髪、透き通るような白い肌、大きくて澄んだ黒い瞳――同じ年頃の他の少女に比べ、幾らか成熟の遅れた、まだ幼さを残しているように優人には思えた。そしてその印象は、突然彼の前から姿を消し、大きな影を落とした妹の姿に再び重なった。

 少女が優人に視線を向けた。

 それは穏やかだが、見る者を捉えて離さない強さと真剣さがあった。

 次の瞬間、少女は視線を落とした。俯いて、少し照れたような表情を見せ、気づかれないように再び女の子達の話の中へ入っていった。

「優人、何やってんだ、お前?」

「あ、いや……」

 優人は生返事をした。すると良和は少女達のグループに気づき、ニヤリと笑った。

「ストイックなヤツだと思ってたのに、結構やることやってるんだなあ、お前」

「止めろ」

 優人は毒づいたが、良和は優人と少女の視線のやり取りに全く気づかなかった。

 優人達はそのままカウンターに行ってお金を払い、学食を出た。

 出る直前に優人はもう一度、少女の顔を見ようとした。だが出口からのアングルの中に彼女の顔を捉えることはできなかった。

〝生き写しって……〟

 優人はその少女に対する思いを持て余しつつ、家に向かった。


「おい、いつまで待たせんだよ」

「そぉよ、もう汗でベタベタ。優人、シャワー借りるかんね」

 二人で自転車を走らせて、優人の家に着いたのは、三時半だった。

 先客が二人、玄関の前で待っていた。

 栗色のショートボブで少々ボーイッシュな、ギターの織部小夜子(おりべさよこ)と、綺麗な、流れるような長い黒髪をうなじの辺りで括り、一見女性的な雰囲気を醸し出す、ドラムの安斎裕孝(あんざいひろたか)。それぞれが私立勝北(しょうほく)女子高校(通称北女(きたじょ)〟)と、県立西勝田(にしかんだ)高校(通称〝西高(にしこう)〟)の制服姿だが、スカートとパンツの違いがなければ、恐らく性別を間違えられただろう。

 中学入学と同時に出逢って以来のつき合いとなるバンド〝サヴォイズ・ギャング〟の四人は、玄関から家に入ることなく、脇の階段から二階に上がった。

 小さな工務店の事務所も兼ねていた優人の家は、一階が事務所、二階に家族の自宅があった。また二階にはそれとは別に、若い事務員の社宅として八帖ほどの広さのワンルームマンションが一部屋併設されていた。将来を見据えてのことだったが、皮肉にもその最初の住人が優人になった。

 そしてこの時点で一階は完全に閉鎖されていたし、二階の自宅も、主に仏壇のある部屋を掃除するため、大体二週間に一回くらい、大阪にいる父親か母親が来て一緒に足を踏み入れる程度になっていた。

 部屋の前で立ち止まり、優人はドアノブの鍵穴にキーを差し込んだ。回すと、がちゃんという音と共にロックが解除された。

 部屋そのものは、作りが少々変則的で、玄関から見て反対側の奥にユニットバスと小さなキッチンがあるというものだった。

「ふーん。最近アタシが来てない割には部屋の中、結構まともじゃん」

「大きなお世話だ、ったく」

「大体あんたの部屋の掃除って、すっごく疲れんのよねえ」

「別に誰も掃除してくれって頼んでねえよ」

「あ、そう。知らないよ、そんなこといって。いつだったか部屋掃除してさ、ほんっとに疲れたもん。畳が見えないんだから」

「うるせえなあ、もう」

 優人と小夜子はいい合いを始めた。

「まあ、いっか……優人、シャワー借りるよ。もうすぐウチの高校でさ、クラス対抗の陸上大会があるの。で、選手に選ばれちゃった。全く、中学の時陸上部だったなんていうんじゃなかったな」

「お前、足速かったからな」

 ブレザーを脱ぎ、胸のリボンを外しながらいう小夜子に裕孝が声をかける。

「いまだにウチの陸上部から声がかかるからやんなっちゃう。こっちはもう走るつもりなんてないのにさ」

「分かったから、早くシャワー浴びてこいよ」

「ごめんね、じゃ……優人、覗くなよ」

「ばーか。お前の裸覗くほど、まだ男の株、落しちゃいねえよ」

 優人がいった瞬間、小夜子は腕時計を投げつけ、カーテンの奥に消えた。

 居間として使っている空間とユニットバスの出入口の手前がグレーのカーテンで仕切られていた。〝これじゃお風呂入る時に着替えられないよ〟と小夜子が家で余っていたカーテンを勝手に持ち込んでいた。

「優人、今年はウチの学園祭に出ないか?」

「えっ?」

 優人は良和に聞き返しながら、肩にかけていたフライトケースを降ろし、窓の下に立てかけた。

「だから、今年は東高の学園祭に出てみようっていったんだよ」

「嫌だね」

 優人は一言だけ、ボソッといった。

 東高に対する優人のネガティヴな感情は良和だけでなく、裕孝も小夜子もよく知っているはずなのに、良和がなぜそんなことをいうのか、優人は不思議がった。

「やっぱりそういうと思ったよ」

 良和は鞄の中からカセットテープを一本取り出し、ローテーブルの上に置いた。

「まぁ、ひどいもんだったからな、お前の場合……高校に入っていきなりあんな目に遭ったんじゃ、おれだって耐えられるか……」

 裕孝は長い髪を掻き上げ、やにわに髪を一つに束ねた。

 裕孝は、背はそんなに高くはないが、整った女性っぽい顔立ちは美形タイプで、中学時代から女の子によくもてたし、女絡みの話は優人達三人の中で一番多かった。更に西高に入学した頃から髪を伸ばし始めたため、ルックスの女性っぽさに磨きがかかった。

 西高は卒業後すぐに就職する生徒の方が多く、対企業のことを考えた生徒指導は伝統的にかなり厳しかった。裕孝も、その長い髪のため、教師達との摩擦があるだろうということは優人にも容易に想像できた。

「何も知らないんだよ、東高(ウチ)の優等生どもは。勉強勉強ってがなり立てる教師がしっかりかぶせるブラインドのせいでさ……あれ以来、連中はおれの存在にもブラインドしちまってるみたいだけど、別に構やしないさ。馬鹿どもがおれを黙殺するなら、おれも馬鹿どもを黙殺する。それだけの話」

 両親の大阪行きを拒否した、この年の一月に始まった、一人暮らしも、四ヶ月目に入った。そしてそのいきさつを思い出す度に、優人の胸に鈍い痛みが走った。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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