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Session #5 Love Ballade (1)

「いえーい!」

 店内のスピーカーから『ウォッチング・ザ・リヴァー・フロウ』が流れると、良和がまず奇声を上げた。

 前日の夜にFMでオンエアされたジャズフェスティバルの〝ライヴ・アンダー・ザ・スカイ87〟初日の模様を録音したもので、一九八〇年代のドラマー達に多大な影響を与えたスティーヴ・ガッド率いる〝ザ・ガッドギャング〟の演奏だった。

 ガッドと、ベースのエディ・ゴメスのコンビによるリズムセクションが繰り出す強烈なグルーヴは、カウンターのすぐ横のテーブルに陣取った優人達の腰を無遠慮に直撃した。

 夏休みに入ってからの最初の土曜日。この日の夜の〝サヴォイ〟でのミーティング――実態はコンパ――は優人達の恒例だ。マスターはさりげなく、店のドアに〝本日休業〟の看板をかけた。

 優人達の他に最初は千鶴がいた。やがて遙と拓哉が加わった後に千鶴の姿が消えた。そしてこの年は拓哉が〝卒業〟し、変わって亜実の姿があった。

「こーんな感じかねぇ」

「いえーい!」

 すでにビールからバーボンウイスキーのロックに変わっていた良和が、ほろ酔い加減のままステージに駆け上がり、ベースアンプの前でウッドベースを弾く真似を始めると、今度は亜実と遙が同時に歓声を上げた。

 グルーヴとアルコールに酔った。

 良和のおどけ方はいうまでもなく、裕孝はガッドのジャストなドラミングに身を任せ、亜実は〝リチャード・ティーのピアノだー〟と大はしゃぎし、優人もロニー・キューバーの、野太いが理知的なバリトンサックスのサウンドに心躍らされていた。

 ただ小夜子だけが他のメンバーから微妙な距離を取っていた。時折、笑顔を見せてはいるが、どこか冷めた眼差しを投げかけていた。

 コーネル・デュプリーのシンプルでブルージーなギタープレイは小夜子のお気に入りの一つだったし、大体にこういう場では真っ先にはしゃぐところがあったから、優人は不思議に思った。

 バドワイザーの缶を空け、静かにカウンターの奥に消えた彼女の後姿が、その時の優人には少し猫背気味に見えた。


 一九八〇年代のこの時期、ジャズ好きにとっての夏の風物詩の一つにジャズフェスティヴァルがあった。

 時代がバブル景気という、大きな経済的繁栄に着実に向かう中、様々なジャンルにおいて海外のアーティストが大挙して日本にやってきたが、それはジャズミュージシャンも例外ではなかった。

 それに呼応するかのように、日本の夏に無数のジャズフェスティヴァルが乱立した。海外の伝統あるジャズフェスの名をを冠するものもあれば、避暑地が町興しの一環として始めたものまで様々だった。〝八月にはアメリカからジャズミュージシャンがいなくなる〟とまでいわれたほどだ。

 ジャズ雑誌のライヴインフォメーション欄の告知がジャズフェス関係で埋まり、FMやテレビでその模様がオンエアされるなど、この頃の優人にとっては間違いなく夏の風物詩だった。

 特に〝ライヴ・アンダー・ザ・スカイ〟は毎年七月末の、それも夏休みに入ってすぐの時期に開催されていたので、一学期の終業式が終わり、そのライヴをFMでエアチェックし、〝夏休みになったんだ〟と実感するのが、優人の中で定着していた。

 それは一九八七年も変わらなかった。


「あれ、亜実ちゃん何してんの?」

 良和が声をかけた。

 〝お手洗いに〟といって席を外した亜実だったが、優人がふと気づくと、ステージの向かって左側奥のトイレからテーブルまで戻ってくることなく、ピアノの前で佇んでいた。

 口元に穏やかな笑みを浮かべ、閉じられたピアノの蓋をいとおしむように指を這わせていた。

「亜実ちゃん、何ならやろうか、セッション」

 物静かに飲んでいた裕孝がスティックケースを抱えて立ち上がった。

「え、でも……」

「いいじゃんいいじゃん……そうだ、トリオやろうぜ、ピアノトリオ」

 戸惑いを見せる亜実に良和が畳みかけた。すでにソフトケースからベースとシールドをを引き出していた。

「五十嵐さんいなくなってしばらくやってないよな、そういや」

 ドラムセットに着いた裕孝は、イスの高さやスネアの調整を始めた。

「それじゃ、せっかくだから……」

 亜実はそういって、一度テーブルの前に戻った。そして自分が飲みかけていたバドワイザーの缶を手にすると、優人の目の前に残っていたまだ開けていないバドワイザーに手を伸ばし、取ろうとして手を止めた。

「あの……」

「いいよ、持っていって」

 上目使いで、探るように見詰める亜実に、優人は笑って缶を押し出した。亜実は破顔し、缶を二本胸に抱え、ピアノに向かった。

「亜実ちゃん、譜面は?」

「いらないですよー」

 ピアノの蓋を開け、横に置かれたモニタースピーカーの上にバドワイザーの缶を一度置き、飲みかけの方を一気に飲み干すと、亜実は大きな声で笑って答えた。〝亜実は譜面にかじりつき〟のイメージが定着していたから、優人は意外な感じがした。

 また亜実もアルコールを口にしながらピアノを弾くなど、数ヶ月前までは考えられなかったに違いなかった。未知の空間での体験が、彼女の中に変化をもたらしていた。

 亜実は楽しげな、そして子供じみた得意げな表情を見せつつ、もったいぶった様子でピアノの鍵盤に両手を乗せた。

「あれ?」

 亜実の指から繰り出された、何度も聴きなじんだ3拍子のフレーズに、優人は思わず声を上げた。

 かつては拓哉の指先から繰り出されていたその音に、意図を悟った裕孝が声を上げて笑うと、高く鋭い音で指笛を一発鳴らし、そのフレーズに合わせてブラシでシンバルを撫で始めた。良和もピアノの方に視線をやり、亜実からのキューを待った。

 フレーズがイントロを導き、やがて『犬神家の一族~愛のバラード』のメロディが紡がれると、ドラムとベースがすっと入った。

 亜実は顔を上げ、身体を左右に揺らしながら、以前なら想像できないような、しっかりとしたタッチで弾いていた。ただ拓哉にはなかった、女性らしい繊細さも滲ませていた。

 テーマの演奏が終わり、ソロに入ると裕孝がブラシからスティックに持ち替え、ライドシンバルでリズムをはっきりさせ、良和もそれに合わせてしっかりとビートを刻み出した。

「いつの間に覚えたんだろ?」

「きっと練習したのよ、見えないところで」

「簡単な曲じゃないはずなんだけどな……」

 優人は遙と言葉を交わした。

 譜面抜きでセッションに臨むのに『犬神家~』を選んだのは、亜実なりの背伸びだった。

 ここ数ヶ月で亜実自身の興味の幅は確実に広がったが、彼女にとって決して聞き慣れていない曲を弾きこなそうとすることが、純粋に高みに行こうと挑む姿を伝えた。溢れるグルーヴに乗って広がる亜実のソロパフォーマンスはメロディックで、優しさに満ちていた。

 顔を上げ、良和と裕孝にアイコンタクトしながら時折挑発するようなフレーズを仕掛け、それをブレイクで返されると、亜実は満面の笑みを浮かべて応えた。その姿はセッションリーダーそのものだった。

 ベースにソロが渡った。良和もまた余りトリッキーな真似を控え、新たなメロディを紡ぐようなソロを展開した。亜実は左手で時折バッキングしながら、右手でバドワイザーの缶を口元に運んだ。

 良和がソロを終えると、最後の見せ場となる4バースで亜実は裕孝と熱いバトルを繰り広げた。時に火花が散るようなフレーズの押収を見せたかと思えば、逆に互いにすかし合ったりするのが絶妙で、優人と遙は思わず歓声を上げていた。

 やがて曲は再びテーマに戻り、静かにエンディングを迎えた。最後の一音を繰り出した亜実は、その余韻が消えると頭を上げ、満面の笑みを浮かべた。

 その後、しばらくトリオでの演奏が続いた。その全ての曲が、亜実が弾く適当なフレーズをイントロにして自然に繋がるもので、譜面を一切使うことがなかった。

「うん、やるねぇ」

 思わず優人は呟いていた。ジャズらしくなってきたと、素直に感じていた。

「ごめんなさい、何か酔っ払っちゃったみたいで……」

 少々甘えた声で呟きながら、亜実は優人の隣に戻ってきた。顔をほんのり桜色に染め、優人の肩にもたれかかってきた。

 飲めるようになったといっても、まだまだ慣れてないのに、無理して優人達のペースに合わせようとしていた。激しい演奏もまた、酔いを回すのに拍車をかけていた。

 優人はぐったりとした亜実の頭を抱き、ポニーテールに括られた彼女の長い髪をいじりながら答えた。後で思えば、ずいぶんと薄ら寒い光景かも知れなかった。

「無理するから……」

「ん、ふう……」

「ま、ゆっくり休みな」

 亜実は自分の頬を優人の肩に擦り寄せた。

「優人、そこにあるフライドチキン取ってよ」

 小夜子が優人の近くの皿に盛りつけてあったフライドチキンを箸で指しながらいった。相当酒が入った彼女の表情は憮然としていて、赤く染まった顔の中の目が据わっていた。

「自分で取れよ。取れない距離じゃないだろ」

「取れないから頼んでるんだよー」

「動けないの分かってんだろ?」

「ケチ!」

 小夜子はヒステリックに声を荒げた。物静かに飲んでいた彼女の突然の変貌だった。いいながら優人は亜実を肩から引き離した。

「よせよ、二人とも」

 裕孝が二人の間に割って入った。

 膨れっ面のまま、小夜子は手近にあったミックスナッツを鷲掴みにし、口の中に放り込んだ。そして空になった自分のグラスに氷を叩き込み、バーボンを溢れるほど注ぐと、ロックのまま一気にあおった。

 雰囲気が暗転した。

 優人はグラスに半分ほど残っていた水割りを一気に飲んだ。

 渇きは癒されなかった。


 あの雨の日以来、優人と亜実は急速にお互いの距離を縮めていた。

 堰を切ったようにお互いのことを語り合い始めた。背伸びをする亜実がいて、その視線の先に優人がいた。優人もまた、彼女を受け止められるだけの人間になりたいと願った。

 互いの想いが共鳴していく中、優人は周囲の視線も気にしなくなっていた。以前には亜実と校内を歩く時に感じていた気恥ずかしさがなくなっていた。

 東高で、二人の仲は半ば公然となっていた。〝もう寝たのかよ〟といった露骨な嫌味をいう者も出てきたが、自分に微かな自信を抱き始めた優人はそれを無視した。

 それまでの優人は、ある特定の女の子とつき合った経験はなかった。別に硬派を気取っているわけでもないのに完全な軟派にもなり切れない、真に優柔不断だった。女の子とつき合い方も知らなかったといっていい。

 だが、冷たいエリートだと思っていたら、実は情熱的で、しかも極端な脆さも見せる亜実は、何だか自分の中の欠けた部分を補完してくれるように思えた。

 彼にとっても初恋だった。

 メンバー全員の期末テスト終了を待ってすぐにミーティングを開いた。亜実は練習の場でマイケル・フランクスの『ドクター・サックス』をやりたいといった。

 すぐに曲目と曲順が決まった。

 『リカード・ボサノヴァ』でスタートさせ、チャーリー・パーカーの『コンファメーション』、マーカス・ミラーの『ラン・フォー・カヴァー』、そして『犬神家の一族~愛のバラード』から『ドクター・サックス』、そして『ミスター・ブルー』でクローズする。

 結局、『アイ・ウィッシュ』や『リッキン・イット』など、小夜子の愛奏曲を外す形になった。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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