Session #4 Straight To The Heart (4)
「わたし、ずうっと自由に憧れてました」
「は?」
優人は戸惑った。
自由? 一体何のことなのだろう――亜実自身のピアノのことなのか、それとも別のことなのか、優人には分からなかった。
「優人さんは、わたしみたいな型にはまった東高生が大嫌いだって聞きました。机にかじりついて勉強ばっかりやってる冷たいエリートで、面白くない人間だって思ってるんでしょう?」
優人は亜実の表情を見詰めた。唇を噛む彼女の表情から、緩やかな笑みが消えていた。
「誰から聞いたの? そんなこと?」
「合唱部の先輩から聞きました。優人さんのあの事件のことも……とにかく無愛想で、サックスばっか吹いてるらしい変なヤツだって、結構有名なんですね。わたしもいわれました。〝あんなのに寄ってくなんて、あんたも結構物好きね〟だって」
優人は笑いを噛み殺した。
千鶴の事故死とそれに伴う様々な揉め事が、優人自身の生き方、在り方に大きな影を落としていることは事実だった。でもそれは所詮優人と、彼の周りの一部の人々にとってのことに過ぎないから、自身が表立って声高にいうようなことはなかった。大体、たとえ叫んでも、その意味が分かる人が東高にいるとも思えなかった。
だから優人は、東高の中では無愛想を決め込んでいたつもりだったが、周囲の反応はむしろ逆だった。
その手合いの人種から話が漏れ、それが親戚、或いは子供の方に流れていく――結果、優人は〝変わり者〟として有名になっていた。そして、そんな自分の意識と、周囲の見方のギャップが、優人にはどうにも可笑しかった。
「わたし、小さい時から優等生でいることばかり強制されてきたような気がします。両親や学校の先生は勿論、クラスメート達からも、そんな風にいつも決めつけられていました」
亜実は優人に気を止めることなく、言葉を続けた。
「普通、反抗期っていうのがあるじゃないですか? でもそれさえ封じ込められるほど、わたしの両親は、特に父親は厳しい時は厳しかったです。あのパーティの後だって〝気にするな!〟って一喝されておしまいでした……東高に入ったことで、優等生っていうわたしのレッテルは決定的になっちゃいました……マイケル・フランクスを知ってからはピアノが全然面白くなくなりました。とにかく自分に貼られたレッテルと、貼ろうとする周りの人達と、それでも回りに愛想だけは振り撒き、嫌われないように嫌われないようにって無意識に世渡りしようとしている自分が嫌で嫌でたまらなかったです。そんな時、優人さん達と出逢いました」
優人は亜実の雄弁さに無言で対峙した。
「去年の夏、たまたま知り合いに〝ソリッド・スウィング・オーケストラ〟の夏の定演に誘われて、優人さん達のステージ観て、〝あ、マイケル・フランクスやる人なんて、他にいたんだなぁ〟って。あの日、慌てて家に帰って自分の五線譜のノート引っ張り出して、ピアノに向かって『ミスター・ブルー』を弾いてみたら、自分も一緒にステージでキーボード弾いてる気分になって……」
亜実は顔を上げ、ぺろっと舌を出した。その笑顔はただ無防備だったが、次の瞬間にはすっとそれが消えた。
「その時、初めて〝レッテルなんてっ!〟って思ったの。今まで隠れてやってたマイケル・フランクスのコピーも大っぴらにやるようになって、親とも少しは喧嘩できるようになった。〝いいでしょっ! 別にっ!〟って初めて反抗したの。とにかく今はバンドやりたいって、ただそれだけ」
話す間、亜実はずっと優人の目を見ていた。
彼女が呟いた時、優人は彼女の瞳の中に、初めて逢った時と同じ強さと真剣さを感じた。だが同時にまだ幼さの残る顔立ちに強いひたむきさを見せる目の前の少女に、ある種の痛々しさを感じずにはいられなかった。
ひたむきさの中に潜む危うさ、日々の生活の中で安穏と過ごしても構わない部分までそぎ落として生きているような、そんな危うさが見え隠れしていた。
あのまま生きていていたら、千鶴もこんな感じになっていたのかな――優人は思った。ただあの頃は、そんな危うさを感じるには、優人も千鶴もまだ幼かった。
「あれ、この曲……」
スツールの座り心地が急に悪くなった感じがした優人が、少し座り位置を直した時、店内に聴き慣れたメロディが流れた。
So empty like sky
Without any sun
Lotus Blossom, don't cry
You and I were meant to be one
And though we're apart
It won't be for long
I come to you
In my song
「知ってるんですか? この曲?」
「『ロータス・ブロッサム』だろ? これ歌ってるの、やっぱマイケル・フランクス?」
亜実と出逢って以降、優人も何枚かマイケル・フランクスのアルバムを聴くようになっていたから、歌声が流れればすぐに分かった。その歌は決して上手い方ではないが、とにかく声自体の個性が強烈で、一度耳にすればなかなか忘れられないものだ。
「そうですけど、何か?」
「詞がついてたんだ……いや、おれが知ってるのは、サンボーンのインストのやつだから」
「へぇ、そんなのあるんですか?」
優人が知っていた『ロータス・ブロッサム』はデイヴィッド・サンボーンのライヴアルバム〈ストレイト・トゥ・ザ・ハート〉に収められていたものだった。この頃、すでにフュージョンアルトのマエストロのように扱われていたサンボーンの〝泣きのアルト〟が堪能できるバラードの一つだ。
「今度聴かせてもらえます? それ?」
「いいよ」
優人は答えながら遙を探した。
遙はカウンターの奥にあるオーディオセットの前にいた。BGMをアルバム〈ワン・バット・ハビット〉に変えていた彼女は、優人と目が合うと右手の親指を立て、軽くウィンクした。優人は頭を掻いて苦笑した。
壁にかけてある時計は五時を指していた。優人と遙が視線を交わしたのを、亜実は全く気づかなかった。目を閉じて、一心に『ロータス・ブロッサム』のメロディに聴き入る亜実に向かって、優人はそろそろ〝サヴォイ〟を出ようと促した。
「うん」
亜実も優人に従った。この日は優人の奢りにしてアメリカンとホットココアの代金を遙に払い、〝サヴォイ〟を出てから二人は、亜実が通学に使う駅へ向かった。
優人は、赤面して嫌がる亜実をいいくるめ、後ろの荷台に彼女を乗せて自転車を走らせた。自転車を引いて歩きながらだと、どうしてもさっきの話の続きをしなければならないと思えた。彼にはこの時、その続きを聞くことがひどく苦痛に感じられた。
優人の頬に水滴が一粒当たった。
そしてすぐに滝のようなどしゃ降りに変わった。
〝サヴォイ〟を出た頃から空はどんよりと曇ってはいたが、駅に着くまでは大丈夫と踏んだ、優人の予測は裏切られた。後ろに亜実を乗せているから優人はそのまま駅まで突っ走るわけにも行かなかった。
雨宿りに入った場所は、駅のそばにある神社の倉庫だった。廂が割と大きいので何とか雨をしのげそうだった。
「あー。傘持ってこなかったの、失敗だったなあ」
優人がびしょ濡れになった髪の毛を掻き上げると、亜実は鞄の中からタオルを取り出し、服の上から拭き出した。そしてポニーテールに束ねた髪を解いた。
髪を解いた亜実の、ずいぶんと大人びた横顔を見ながら、優人は一つ大きなくしゃみをした。
「早く髪拭かないと風邪引きますよ」
亜実は優人にタオルを差し出した。
「いいの?」
「体育の授業がある時は、二枚持ってきてるの。これは今拭いたばかりだから」
「あ、ありがとう」
優人は、素っ気なくいうのが精一杯だった。タオルに顔を埋めると、そこから亜実の髪の香りがした。とても甘い香りに感じた。
しばらく二人は無言で、降り続く雨を見詰めた。
気まずい時間はゆっくりと流れてゆく。二人とも、適当な言葉を見つけられずにいた。
「優人さん」
亜実が口を開いた。
「わたしさっき、『リカード・ボサノヴァ』の話しましたけど……一つだけはっきり分かったことがあります」
「何だよ、それ」
「曲に罪はないってことです」
亜実は満面の笑みを浮かべた。本当に無防備な、無邪気な笑顔だった。
「そう……そりゃよかった」
タオルを返そうとした時、初めて出逢った時のように優人の手がひんやりとした亜実の手に触れた。
「優人さんの手は……とっても暖かいな……」
優人に構わず、亜実は彼の右腕にしがみつき、猫がじゃれるように頬を擦り寄せた。
「うーん、ぬくいぬくい。ごろごろ」
「突然何をいうかと思えば……」
優人は亜実をたしなめるように頭を撫でた。自然にそうなった。
「でも手が暖かい人は、心が冷たいって話を聞いたことあるよ」
「え? どうして」
「知らないよ。当たってるような気はしないでもないけどね」
「そうかな……」
亜実は優人の右腕にしがみついたまま、振り続ける雨を見詰めた。
亜実は自由に憧れていた、といった。
確かに彼女のような立場で生きてきた人から見たら、優人が自由に見えるかも知れない。
だが優人も多くのものを捨ててしまったような気がしていた。それは亜実が得たもののほとんどであり、またそれは近くの人を傷つけ、優人自身も辛い想いをしながら手放さざるを得なかったものだった。
「優人さんは冷たいの?」
「さあ……ね」
優人は一本煙草をくわえて火をつけた。
千鶴のことから、我儘で一人暮らしを始め、音楽浸りの日々を送っていた。でも知らないうちに人を傷つけていたかも知れず、またその結果で得たこの時の自由は、実は自由でも何でもなく、むしろ傷つけた分だけその人達の無言の声を背負ったのかも知れないとも思えた。
「これでも何とか懸命なつもりだけど、他人から見たらおれ、ひどく残酷なのかも……」
「それでもいいもん」
亜実が呟いた。
「残酷でも、優等生より、暖かい方が、いいもん……」
優人は亜実の横顔を見詰めた。彼女の頬を濡らしているのが、雨の雫の拭き忘れではないことがはっきりと見て取れた。
「わたしなんか……いるだけで、ダメかも知れないのに」
「何いってんだよ」
優人は亜実の肩を掴んだ。
「いわなくったって分かります! 優人さんのさっきの一瞬の目つき、あの時の男の子と同じです!」
「違う!」
まるで亜実に見透かされたようだった。狼狽を隠そうと、優人は声高に叫んだ。
「どうして……生まれて初めて男の人好きになっただけなのにぃ……最初からこんなに痛いなんてぇ」
亜実は濡れた頬を拭おうともせず、優人の方を振り向いてぽつりと呟いた。
「わたし、嫌われたくないです、優人さんに……」
優人はそれには答えなかった。代わりに亜実を優人の胸の中に引き寄せた。彼女は濡れた頬を優人の胸に押しつけた。
亜実は優人の顔を見上げた。そして大きな瞳を閉じた。
二人は唇を重ねた。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。




