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Session #4 Straight To The Heart (3)

 それは亜実が中学三年の夏前に起こった。

 一九八〇年代後半のバブル景気の影響で、特に首都圏、関西圏などの主要都市での土地再開発の活発さ加減が、様々な歪みを生んでいた。その影響が地方都市にも少しずつ及び始めていたが、亜実の話もそれに類するものだった。

 景気の盛り上がりを見込み、期待した亜実の父親は会社事業の中で積極的な土地再開発を展開していた。その中の一つが勝田駅の駅前再開発計画だった。

 当時、小さな低層建築が密集していた駅前の広い一区画の土地の再開発に着手したものだが、買収によって一部を確保したものの、法律に阻まれ、当初の計画では余り高い建物は建てられなかった。また主要な地権者も、立て替えられたビルの中に、等価交換によって生じる然るべきスペースを与えることで計画を進めていた。

 だが、その区画の半分近くの所有権を持っていた、ある製紙会社が、そこにビルを建て、工場以外の本社機能を移転したいと樋川建設に接触してきた。

 樋川建設にとっては、どのタイミングで話を持ち込もうかと考えていた矢先であり、願ってもないチャンスだった。

 共同ビルという形が取れれば駅前のその一区画を全面的に利用できる上、表の広い道路に面するようになるため、より高いビルが建てられる。製紙会社の方も余分なスペースは賃貸に出したいとしていた。そこの管理も任されれば新たな収入源になる。また樋川建設自体も本社機能の移転を考え始めた。

 だが、そのためには元の地権者を適当なところに立ち退かせなければならなかった。製紙会社側が彼等の復帰を拒んだからだ。

 亜実の父親は、より大きな利益に繋がる方を選んだ。

 二枚舌的な交渉を続け、一人、また一人と適当な代替物件への移転を承諾する中、ただ一軒、なかなか合意に達しない地権者がいた。

 彼はその場所で長い間雑貨店を営んでおり、簡単に代わりの物件が見つからなかった。

 激しい催促を受けていた樋川建設は、製紙会社向けのビルの建設を見切り発車的に始めてしまっていたため、建設と交渉の競争になった。

 そして間に合わなかった。

 帰る場所を奪われた雑貨店の主人は激怒した。ビルのロビーに座り込み、ここに住むと激しく抗議した。裁判になる目前まで来た。

「で、結局どうなったの?」

「示談が成立して、裁判には至らなかったそうです。もっとも父はほとんど仕事のことは話さないから、それ以上は分かりません」

 新たな場所への立ち退きが結局成立、かなりの示談金が出た。無論、樋川建設にとっては、それだけのお金を出してでも、共同ビル事業の方が得策だった。

「でも、人の気持ちって、そう簡単に整理がつくものじゃないじゃないですか?」

「どういうこと?」

「示談が成立した後なんですけど……」

 樋川建設と、その製紙会社の共同ビル事業を記念するパーティがあり、社長の一人娘ということで亜実も呼ばれた。

 会場は、そのビルの製紙会社側にあった催事場のスペースで、白のワンピースで着飾った亜実は、持ち込まれたアップライトピアノでショパンの曲を披露した。

 そしてパーティが終わった後だった。

「帰りの車に乗ろうとして外に出た時、一人の男の子がいたんです」

 小学校の低学年くらいに見えたその少年は、じっと亜実を見詰めていた。

「すごい目でこっちを睨んでいました」

「睨んでいた?」

「悲しさとか辛さより、怒りと恨みを溢れさせて、上目遣いで……後で訊いたらその子、その雑貨屋さんの息子さんだったそうです」

「……」

「きっと精一杯訴えてたんだって、思いました。〝ボクのうちを返せ!〟って……今でも忘れられません、あの目だけは」

 示談成立といっても、所詮は大人同士の話であり、年端もいかない子供にとっては、自分がそれまで生きていた安らぎの空間とその証しを理不尽に奪われるに等しい。

「結局、警備員さんに諭されて帰っていきましたけど……きっとあの子は、わたしがひたすら憎かったはずです。家を奪った敵だって」

 優人は返す言葉が見つからなかった。その時の少年の想いは、妹を失った時の自身と同じかも知れなかった。

「それからもう、分かんなくなっちゃって……帰りの車のカーステレオからいきなり『ザ・ギフト』が流れたんですよ、母が入れっ放しにしてたテープが残ってて」

「は?」

「慣れ親しんできたイーディ・ゴーメの歌声を、それ以来まともに聴けなくなりました。クラシックも聴けなくなりました」

 亜実は微かに声を震わせた。

 優人はどこに向けていいのか分からない、ひどいイラつきを感じ始めていた。それを抑えようと、新しい煙草をくわえて火をつけた。

「たかだか十年ほどだけど、自分が生きてきたその十数年って何だったのかって、結局、人の幸せ踏みつけて、自分はその上でのほほんとしてただけだったんじゃないかって……」

 それ以来、亜実は他人との距離を保って生きるようになった。

 親に逆らう勇気もない、周囲の友人達との関係を断ち切る度胸もない――何もできないのに、ただ自分が楽しい想いをすればその分誰かが辛い想いをするはずだという思い込みが支配するようになった。そしてそれは東高に入学してからも変わらなかった。

「そんな時でした。マイケル・フランクスの音楽と出遭ったのは……」

 それは東高に入学して三ヶ月ほど過ぎた、ちょうど梅雨の季節だった。

「ちょうど駅で電車待ってました。ベンチに座ってウォークマン聴いてました。人から薦められた〝デュラン・デュラン〟とか〝ワム!〟とか聴いてたんですけど飽きちゃって、ついていたFMラジオにたまたま切り替えたんです。その時、ちょうどNHKの番組でAOR特集をやっていて、かかってきたのが……」

「マイケル・フランクスだった」

「ほんと……びっくりしたんですよ、素直に」

 梅雨の季節の、地方都市の小さな無人駅。

 夕方の時間帯。

 行き交うのはほとんどが学生達。

 強い雨が降るだけで、他には別に取り立てて変わることのない、いつもの光景。

 高校生になってから始まった電車通学の、余りに見慣れた景色だったのに――。

「流れてきた途端に目の前の景色が全く違って見えたんです。それくらい、今まで聴いたことない音に思えたんですよ」

 この後、亜実は二ヶ月ほどでマイケル・フランクスのほとんどのアルバムを聴き込んだ。元々音楽に理解がある家庭だから、レコードが欲しいといえば、割と簡単に小遣いを出してくれた。そして聴き込んではまり込み、それこそ歌に酔ったのは、これが初めてだったかも知れない、といった。

「ジャズも、ボサノヴァも、マイケル・フランクスを通して知ったようなもんです。後はいろんな言葉ですね」

「言葉?」

「それこそ新しい曲を聴く度に、必ず聞いたことのない単語やフレーズが出てくるんですよ。何を語ってるのか知りたくて、何度も辞書引きましたよ」

 その詞の中にあったのは、子供騙しでない、真摯な歌だった。そこに身を置いている時、亜実は少なくとも現実の嫌な部分を忘れることができた。

「それに、やっぱり……AORっていうだけあって、何か大人だなぁって感じが心地いいんです」

 優人は苦笑した。それはジャズと対峙する時の優人自身の姿そのものだった。

「で、一番古いアルバムを聴き込んでいた時期に、ちょうど優人さんの夏のビッグバンドを見て……」

「それが『ミスター・ブルー』だったわけか……ま、その辺の事情はよく分かったよ。ただ、どうしても分からないことが一つ」

「何ですか?」

「『リカード・ボサノヴァ』だよ。そんな嫌な思い出が染みついているような曲を、何でバンドに持ってきたんだよ? なければないっていってくれて構わなかったのに」

「ああ、それですか……」

 優人が頭を掻きながら呆れたように訊ねると、亜実はバツ悪そうな表情を見せた。

「あの時は、正直確かに乗り気じゃなかったです。ただ唯一知っていたジャズに近い曲だから、つい口走っちゃった感じで……後で結構自己嫌悪だったんですよー」

 亜実はぺろっと舌を出した。

「それに、やっぱり半可通(ねんね)だなんて思われたくなかったし……」

「背伸び?」

「いけませんか?」

「いや……」

 不意に亜実が上目遣いで優人を睨んだ。たまらず優人は目を伏せた。

「でも、ライヴじゃいきなり曲を変えちゃったりして、その感覚にびっくりして、羨ましくなって、とにかくやってみようって思いました」

「果ては亜実ちゃんが一番乗ってた感じだったもんなー」

「あー、恥ずかしいですー」

 拓哉のフェアウェルセッションでの、最後の『リカード・ボサノヴァ』は、優人にとっても忘れられないものになっていた。その時の感触は勿論、ラインで録ったテープをたまに聴き返す時でさえ、自分がイメージする、最良のグルーヴが感じられた。

「でも、あの時の感覚は未だに忘れられません。すごく熱くなって、頭ボーッとして、気づいたらみんなが拍手してくれて……本当は、泣きそうだったんです、楽しくて嬉しくて」

 かつて自分が通った道だと優人は思った。亜実は間違いなく、ジャズという音楽が持つ、ルースなマジックにかかった。


執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。

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