Session #4 Straight To The Heart (2)
「亜実ちゃん、悪いけどあたしの方が一歩進んでるぞ」
「え、何がですか?」
遙は亜実の問いには答えず、従業員用のロッカールームに一旦入り、何かを抱えて出てきた。
「あ、CD!」
「どーだぁ」
はしゃぐ亜実に、遙は得意気に〈カメラ・ネヴァー・ライズ〉のCDを見せつけた。
「何、遙さん、CDのデッキ買ったの?」
「違う違う、これからはCD買ってここでテープにダビングしてもらった方がいいかなって思ってね」
遙はカウンターの奥に設置されたオーディオセットを指差して微笑んだ。
一九八二年に初めて民生用と業務用のCDプレイヤーが登場して五年が過ぎていた。すでにCDのシェアはLPレコードやカセットテープを上回っていた。新作アルバムはCD、LP、テープを同時に発売した上で、CDにボーナストラックを収めてお買い得感を煽るのが普通になっていたし、また旧作のCD化も着々と進みつつあった
マスターが〝サヴォイ〟のオーディオセットにCDを導入したのはこの二年前、DX‐7購入と同時だった。その後しばらくはレコード、テープ、そしてCDと、どれでも流せるシステムを維持していた。
優人もCDプレイヤーを欲しいなと思いつつも、レコードとテープの〝資産〟が余りに多かった上、高校生の一人暮らしという身分でもあったから、アナログプレイヤーを中心としたシステムのミニコンポを愛用していた。
「亜実ちゃん、かけようか? CDで」
「じゃ、最初から」
「OK」
遙は残ったビールをグラスに注ぎ、一口飲んでからオーディオセットに〈カメラ・ネヴァー・ライズ〉のCDをセットした。
一曲目の『フェイス・トゥ・フェイス』が流れ出した。ニューヨークフレイヴァーに溢れた、心地よいファンクサウンドだ。
「そういうさ、古い旧家だとやっぱり大切にされるのは長男坊なの。あたしは二番目でしかも女の子でしょ。なんかいい加減に扱われてた気がする」
遙が身の上話に戻ってきた。彼女の目の周りが微かに赤くなっていた。
「別に非行に走ったとかさ、そういうのはなかったけど、結構両親には反発したな」
「ふーん、そうなんだ」
「だから地元の国立大の足切りに引っかかるからって、受けさせてもらえなかったのはすっごく悔しかった。兄貴に負けるもんかって、非行に走る代わりに机に向かってたとこあったからさ。今思えば馬鹿馬鹿しい話だけどね」
「……」
「そんな気持ちでこっちに来たもんだから、上手くいくはずないよね。おまけに周りのみんな、結構イージーだし。資格でも取ろうかと思って教職課程受けたけど、止めた。結局大学は一ヶ月で飽きちゃった」
優人が遙の身の上話をきちんと聞いたのはこの時が初めてだった。
彼女は余り深刻な調子にならない。時には微笑みながら楽しげに、だが淡々と語る。だからこそ、その切実さが伝わることがある。
自分なりに意地を張り、誇りを持って臨み、結局は現実に弾かれる――笑っている遙の横顔が、優人には切なかった。
一方、亜実は黙って話を聞いていた。品行方正、成績優秀で通っていた彼女がこういう話を耳にすること自体、ある意味皮肉だった。
「そんな時にこの店知って、まさクン見て、ほんと驚いたわよ。なんか高校の時の自分見てるみたいでね」
「おれが?」
「うん、今時流行んないよ、まさクンみたいな男の子って」
「い、いわれなくたって……」
優人はむくれた。
「まさクンだけじゃない。さよちゃんも、よしクンも、ひろクンも、マスターも、みんなそう。斜に構えてるようで結構真剣だったりして、可愛いんだ。みんな」
「あのねえ……」
「だからあたし、君等に出逢えて本当によかったと思ってるんだよ。もう一度ここでやり直せるかなって、真剣に思い始めたんだから」
「わたしは違うんですか? 遙さん」
不意に亜実が顔を上げて呟いた。
「え? どうしたの?」
「さっき、わたしの名前だけなかったから……」
「あ、ごめんね、別に意味はないよ。昔話だったから……気を悪くしたならゴメンね」
「いえ……」
亜実は再び俯き、言葉を絶った。
「遙さんって、年は二一なんだっけ? 今」
優人は話題を変えようとした。
「ブーッ。来年の三月までは二〇だよ。よりにもよって年度末に親が生んでくれるから」
「すごいね。二〇でそんな風に考えられるなんて」
「そうかな?」
「おれ一八になったばかりだけど、二〇になった時、遙さんみたいに毅然としていられるかなぁ……」
優人の声のトーンが落ちていった。自分の存在の小ささを感じていた。
「気にすることないわよ。ただね、自分の気持ちに正直に歩けたら、一番いいじゃない?」
遙の表情に爽やかさが戻った時、スピーカーからタイトルチューンの『カメラ・ネヴァー・ライズ』が流れ始めた。
「あ、あたしこれ好きなんだ」
「もう聴いたんですか? 遙さん」
亜実が顔を上げた。
「ん……あたしが写真やってるのはもう知ってるでしょ? 五月の五十嵐くんのフェアウェルセッションでも……ね?」
カメラを構えるポーズを作った遙に、亜実は大きく頷いた。
「最近思ったけど……写真ってさ、自分がいいなって思った一瞬を切り取ることで成り立つ芸術なんだよね。考えてみれば面白いよね」
「……」
亜実はきょとんとしていたが、優人は分かるような気がしていた。ジャズのインプロヴィゼーションだって、自分の想いの一瞬を音にするのだから。
「もうしばらく、写真取らせてくれるよね?」
「何を今更……やだなんていうわけないよ」
「それだけじゃない、君等の高校生活の残り、あたしが記録係になったげる」
「……遙さんも流行らない人だね」
「お互い様でしょ、それは」
遙はカウンターに頬杖をつき、悪態をつく優人を嬉しそうに見詰めた。普段から少し垂れ気味の彼女の目尻が、より一層下がった。穏やかさの中に真剣さを覗かせる彼女の笑顔だった。
「だからね、あたしの前ではありのままの、いい表情してね」
「でもどんな顔してりゃいいのさ?」
「そうだ、この前のライヴの〝スクエア・ジャンプ〟の写真あるよ。見せようか?」
「えーっ、遙さん止めてー。恥ずかしいですー」
亜実が慌ててカウンターに身を乗り出した。着地に失敗して転びかけたことを相当に気にしていた。
「大丈夫、今日はまだ持ってきてないからさ」
いい合って、三人はひとしきり笑った。
「さて、ちょっと厨房で仕事残ってるから……ゆっくりしてっていいよ。おかわり欲しかったら声かけてくれれば」
「うん、ありがと」
優人が手を上げると、遙は厨房に消え、洗い物と、ピザ生地の仕込みを始めた。
「で、何だい? 話って」
優人は吸っていた煙草の煙を吐き切って、アメリカンをもう一口啜り、カップを手に持ったまま聞いた。
「これから後、曲は何やるんですか?」
「どうしたの? 急に?」
「だって早く決めとかないと学園祭なんて、あっという間ですよ」
「まあ、そりゃそうだけど……」
東高の学園祭は二学期に入ってすぐ、九月の前半に行なわれていた。
これ以前はもっと遅かったが、国公立大学の共通一次試験――現在の大学入試センター試験――が始まって以来、学期が始まって間もなくで、なかなか落ち着かない時期に行なうようになった。進学指導を考えた学校側が、面倒は早く片づけたい一心の処置だったが、生徒会執行部と学園祭実行委員会は毎年、開催を控えた夏休みは気が気でなかった。
ただ優人としては、新生〝サヴォイズ・ギャング〟を夏休みが終わるまでに仕上げたいということだけだった。
「あと、わたしどうしてもやってみたい曲があって……」
「へえ、何?」
「もうすぐ流れてくるかな……あ、これです」
亜実は天井のスピーカーを指差すポーズを取った。
By day
He's a grease monkey it's true
A slave
Fix your transmission like new
Change oil
Rotate your tires of course
He toils
Under the Flying Red Horse
「これ……かい?」
「『ドクター・サックス』って曲なんですけど……」
「へぇ」
優人は煙草を右手の人差し指と中指の間に挟み、頬杖をついたまま生返事をした。
強烈なファンクビートにマイケル・フランクスのクールなヴォーカルが乗り、そこに過激なテナーサックスが絡んでいた。
「これは……マイケル・ブレッカーだね?」
「やっぱり、分かりますか?」
「遙さんがよく騒いでるからちょっとは知ってたけどさ……ブレッカーがこんなことやってるんだ」
一九七〇年代後半、ニューヨークのフュージョンシーンの席巻し、八〇年代にジャズ・サキソフォニストとしての地位を確立したマイケル・ブレッカーにはもう一つ、スタジオシーンでのファーストコールサキソフォニストとしての顔があった。ジャズ、フュージョンにとどまらず、ポップス界でも圧倒的な存在感を見せつけていた彼のプレイは多くのアルバムで聴くことができる。中には彼自身のリーダー作より売れたポップス系のアルバムのクレジットに彼の名前を見つけられることもあるほどだ。
At night he's Doctor Sax
He's Mister Tener Virtuoso
He plays to rhythm tracks on tape
No one like Doctor Sax
Not even Trane or Bird could blow so
The girls have heart attacks, they say
He'll put it all on a wax one day
「あの、できればラップとBメロの歌詞だけは残すみたいにしてできないかなぁって……」
「ふーん……ちょっとレコード貸して」
「あ、はい」
亜実が用意していた〈カメラ・ネヴァー・ライズ〉のレコードを優人は手にして、中から歌詞カードを引き出し、その詞と対訳を見比べた。
「何か……すげー詞だな、これ」
優人は思わず呟いた。
「これ初めて聴いた時、すぐに優人さんのことが浮かんだんですけど……」
「何だよ、そりゃ」
「だって、〝昼間は奴隷のように働いて、夜はサックス吹いて〟って歌ですよ」
「おれは昼間働いてないぜ」
「でも昼間は奴隷みたいってのは……」
「何が何の奴隷だって?」
「ご、ごめんなさい……悪気はないつもりです……」
押し殺した優人の言葉に、亜実は肩を縮め、泣き出しそうな声で謝った。
「ごめん、こっちこそ悪気はないんだ」
優人は頭を掻いた。
正直この時、詞の中で描かれている〝ドクター・サックス〟なる人物に、優人は幾らかのシンパシーを感じていた。ただ奴隷という言葉に彼が反応したのも、自分の意志を持っているようで、本当はどこかで何かに引っ張られるように生きているこの頃の彼自身が、それこそ何かの奴隷のように思える瞬間があり、亜実の言葉にそれを刺激されたからだ。
「まあ、選曲については今度のミーティングで考えよう……でも本当に好きなんだな、マイケル・フランクスが。何でまた?」
「ん……」
亜実は一瞬、考え込むような表情を見せた。
「優人さんだったら聞いてくれるのかな……」
「何を?」
優人は吸い終えた煙草を灰皿に押し込んだ。
「聞いてもらいたい話があります。今までこんなこと誰にも話したことなかったです」
「亜実ちゃん……」
「いいですか?」
いつになく真剣な亜実の瞳に、優人は黙って頷いた。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。