Session #3 Recado Bossa Nove (The Gift) (3)
「もしもし」
家の近所の弁当屋の一番安い海苔弁当を買い、優人が夕食にしようとしていた時、めったに鳴らない黒電話のベルが鳴った。
昔ながらの黒電話は、両親が大阪に引っ越す際、優人のものとして移したものだった。
テープ録音式の留守番電話がようやく普及し始めていて、両親も引っ越しを機に自宅の方に留守電を入れることにした。結果、それまで使っていた黒電話が余ったが、別に留守電を入れる必要性を感じなかった優人は、そのままそれを使うことにした。そして彼が予想した通り、電話をかけてくるのは、両親や〝サヴォイ〟の仲間達のように優人の行動パターンを熟知している者ばかりだった。
「もしもし、小夜子だよ」
「いちいち名乗らなくても分かるよ」
「あ、何か残念そうな声出してる」
「何が?」
「亜実ちゃんじゃなくて悪かったね」
「やかましい」
受話器の奥から聞こえてきた小夜子の声に、優人は毒づいた。
六月に入り、制服が衣替えで一斉に夏服になり、梅雨に入って校庭の中庭に植えてある紫陽花の鮮やかさが映えるようになった。すでに中間テストも終わっていて、少しほっとした気分になっていた。
「ねえ優人。今からアタシの家に来てよ。話があるから」
「え? 今から?」
「だってまだ八時前だよ」
「別にいいけどさぁ、何なんだよ、話は。電話じゃだめなのか?」
「電話じゃ長くなりそうだから……家に来てからにしよ、話は。だめ?」
「分かったよ」
優人はうんざりした口調でいった。
「だけどちょっと時間くれないか? メシ食うところだったから」
「またインスタントラーメン?」
「一応ほか弁なんだが?」
「夕飯まだならこっちで準備するよ」
「せっかくだけど……遠慮しとく」
「いいよ。じゃ、後で」
電話を切ると、優人は軽くため息をつき、魚のフライを口にした。
優人の家から小夜子の家までは自転車で五分くらいかかる距離があった。
九時前に着いた優人は、小夜子の家の自転車置き場のスペースに自転車を置くと、玄関で呼び鈴を押した。
待っていると、男物の大きめのセーターを纏った小夜子が寝呆け眼を擦りながら直々に出迎えた。セーターの首周りが大きく、左肩が露出していた。
「ああ、上がれよ」
「寝てたのか?」
「だぁってェ、あんまりあんたの来るのが遅いからさぁ……」
「メシ食ってたんだからしょうがないだろ」
「あ、そうか」
「ひとり?」
「そっ。今夜はアタシ留守番なんだよ」
小夜子は頭を掻いた。ショートボブにしている彼女の髪も、テスト期間で会わない間に大分伸びていた。毛先が露出した肩に触れ、かなりうっとうしそうだった。
「亜実ちゃん元気してる?」
「学年違うんだから校舎も違うし、そうしょっちゅう会えるわけじゃないよ」
優人は毒づいた。
揃って町内会の役員をしている小夜子の両親は月に一回、会合で家を空けたが、この日はそれに当たっていた。
小夜子の父親は夏はウィンドサーフィン、冬はスキーに取り組む典型的なスポーツマンタイプの人だった。小夜子もその影響を受け、幼い頃からスポーツには何でも興味を持つ活発な女の子に育った。何度か彼女に引っ張られて近くの海までのジョギングに駆り出され、ついていけなかった優人はその度に泣かされ、怒鳴られていた。
「悪いけど先に部屋に入ってて。顔洗う」
「了解」
優人は階段を上がって小夜子の部屋に向かった。小夜子は玄関を上がってすぐ脇にある洗面台で顔を洗い始めた。
小夜子の部屋は、床だけは綺麗に掃除機がかかっていたが、お世辞にも片づいてるとはいい難かった。ドアの近くには色々なものが乱雑に積んであり、机の上とベッドの枕元には五線紙が散在していた。ほとんどが何かのソロをコピーしたフレーズの断片だった。
ドアのノブにピンクの洋服を着せるわけでもなく、ぬいぐるみが置いてあるわけでもない。とにかく優人がイメージする〝女の子〟の部屋の要素は皆無だ。壁に立てかけられた小夜子愛用の白いストラトキャスターが、そんな印象を増長した。
「おーい、優人、いるんだったら開けてぇ」
優人は小夜子の声に慌ててドアを開けた。
小夜子は右手にポットを、左手に紙袋を抱えていた。紙袋の上には、バターナイフが突っ込まれたブルーベリージャムの瓶があった。
「うーんと、確かまだあったよなぁ……」
ベッドの上に紙袋とポットを置くと、小夜子は机の横のカラーボックスに整理されたインスタントコーヒーの瓶、そしてカップとスプーンを二つずつ取り出した。優人はジャムの瓶を取って紙袋の中身を見た。中はクロワッサンで一杯だった。
「ゴハン食べたんだよね?」
二人分のコーヒーを手早く入れながら小夜子が訊ねた。
「一応。さっきいった通り」
「ま、いいや。気が向いたら摘んでよ、それ」
小夜子はクロワッサンの紙袋を指差しながら、湯気の立つコーヒーカップを差し出した。
「サンキュ」
優人はカップを受け取り、一口飲んだ。
「いただきまぁす」
小夜子はクロワッサンを一つ摘んで、ブルーベリージャムを塗って食べ始めた。ゆっくりとコーヒーで胃に流し込む。
「さて、さっさと聞かせてもらおうか」
「えっ、何をー?」
口を動かしながら小夜子はいった。優人は足元に置いてあったジャズギターの教則本をよけ、床に腰を落として胡坐をかいた。
「だから話だよ、話」
「待ってよォ。夕飯食べるくらいいいじゃん」
小夜子は二つ目のクロワッサンをくわえたまま、ベッドの枕元に設置された本棚の上に無造作に置いてある小型ラジカセのカセットホルダーを開けた。
「何聴こうかなァ……」
文庫本とカセットテープが混在する本棚の中を物色する小夜子は、ちょうど四つん這いの格好で優人に背を向けていた。
〝まただよ……〟
白い下着で包まれた小夜子のお尻が優人に迫った。
「あったあ、これよ、これ」
テープを入れ、プレイボタンを押した小夜子は前を向き、ベッドの上で立て膝で座った。優人の困惑など気にも留めていない。
微かに膝頭が開いた。
床に座る優人の視線が、小夜子の股間の辺りで止まった。
赤面し、目のやり場に困りつつも、小夜子のそこに視線が行ってしまう優人は、どこか後ろめたい想いに支配されているのを感じた。
「おい、優人。聴いてんのかよ」
小夜子が声を荒げた。優人は自分の昏い感情を見透かされたようでバツが悪く、音を聴いていられなかった。
「おい、小夜子」
「ん?」
「……見えるぞ」
「何がぁ?」
「足だッ、足ッ!」
「あ、これか」
間の抜けた小夜子の声に苛立った優人は叫んだ。
やっと分かった、という感じで小夜子は足を閉じ、陸上競技で鍛えた身体のバネで、ひょいっと起き上がると、立てかけてあったギターを抱え、流れていた曲に合わせてカッティングを始めた。もっともアンプに繋いでないから迫力はなかった。
「へえ、結構色気づいてんだね、優人も」
小夜子はギターをベッドに置き、優人のそばに近づいてからかった。
「何いってやがる」
優人は吐き捨てた。
「やっぱ……変わったね、優人は」
「何が?」
「前はそんなに怒りっぽくなかったような気がする」
「あんな目に遭えば、変わりもするさ」
小夜子の視線を感じた優人は目を外らせた。
「アタシは高校違うけどさ、中学の時の知り合いで東高に行った子って、今思えばつまんないヤツだったもンなァ、男も女も」
「そう?」
「陸上部から何人か入ったけど、三年になったら途端に目の色変わっちゃうんだよね、信じられないくらい。もう口利くのも嫌になっちゃう。きっと他人のことなんて構ってられなくなるんだろうなって」
「……」
「良和はああいう性格だもん、周りがどうなったって、やりたいようにやれるだろうけど、優人にとっちゃね……」
「何がいいたい?」
「他の連中が子供のままのとこが、あんたは大人だってこと」
「何だ、そりゃ」
「良和は他の連中が子供のとこも、あんたが子供のとこも、両方大人なんだろうね」
「さっぱり分からん」
「アタシもよく分かんなくなってきた」
「馬鹿」
優人は意味が分からないのがおかしくなった。つられて小夜子も笑い出した。
「ただね、さっきアタシ、〝他の連中が子供のとこがあんたは大人だ〟っていったけど、実はこれってマスターがいってたんだよ」
「マスターが?」
「うん」
確かに優人には級友達が幼く思える時があった。だが成績だけを取ってみれば明らかに優人より上を行く彼等の方が、学校の中では〝大人〟であるらしかった。
〝お前はもっと大人にならなきゃダメだ〟
教師に何度となくそういわれた。そしてそのたびに〝あんた達のいう通りに机にしがみつくのが大人のすることか?〟と聞きたくなる衝動に駆られた。そこにいるのは、音楽を通して外の世界を見たがっている自分だった。
「話ってのはさ……」
小夜子が本題に触れた。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。