Session #3 Recado Bossa Nove (The Gift) (2)
「は?」
耳元で呟かれた優人の言葉に対し、亜実は心底〝意味不明〟という表情を作った。
「せっかく『イズント・シー・ラブリー』も練習してきたんだけど……もっと亜実ちゃんが慣れ親しんだやつにしよう」
『イズント・シー・ラブリー』を、この日のステージの最後に、ということで六人で練習していたが、今一つ乗り切らない感じがあり、優人は初披露に不安を抱いていた。
「でも、でも、でも……」
またもや亜実は慌て出した。
「そんな、急にいわれても……」
「大丈夫だよ。あれ以来、いつも練習前にセッションしてるじゃないか」
すがるような目で見つめる亜実の頭を優人は軽く撫でた。
初練習以来、優人達は練習前に必ず『リカード・ボサノヴァ』をセッションするようになった。亜実のこともあったが、何よりトライしてみた時の意外な好感触が忘れられなかったことの方が大きかった。
「いつもいい感じじゃないか、ピアノ」
「でも……」
「大丈夫、任せな」
優人は亜実の肩を叩いた。譜面を拾い終えた亜実がぎこちないままピアノの前に座る。
優人はステージの中央に立ってメンバーの方を向いた。まず裕孝の方に手を出してカウントを出そうとするのを制し、自分を指差すポーズを取った。〝曲目変更、おれに一任〟を意味した。
サックス用のマイクとの角度に注意しながら、亜実に向かって音を投げるように、優人は『リカード・ボサノヴァ』のメロディをおもむろに吹き始めた。亜実以外のメンバー全員が微笑んだ。
最初に入ってきたのは裕孝だった。『ミ・アモーレ』との差をつけるため、オーソドックスなサンバを刻み始め、そこに良和と小夜子がそれぞれの音を重ねてきた。
優人はBメロ手前で、亜実に向かって大きくアルトのベルを振った。
「GO!」
背後にいた拓哉に軽く肩を叩かれ、亜実は一瞬、身体を強張らせた後、おもむろにBメロを弾き始めた。
「YEAH!」
客席から歓声が上がった。小さな身体から想像できないようなヴァイヴレーションをピアノから繰り出し、かつ大きくそのメロディを歌っていた。
いける――優人は確信した。
最初のテーマ演奏を終えた後、優人は亜実を指差してステージの横に引っ込んだ。
相変わらず表情は強張ったままだが、覚悟は決めたらしく、亜実がソロを取り始めた。
最初の音を聴いて、優人は思わず口元を緩めた。
目を閉じ、モニタースピーカーから返ってくるメンバーの音を必死で追いつつ、亜実は自身の紡ぎたい音を模索していた。それまでの練習では着いていくだけで精一杯だった彼女が、初めてのライヴステージで自己主張を始めていた。
バッキングのヴォルテージが下がっている中、亜実は思いつく限りの早いパッセージを繰り出した。
いち早く良和が気づいて時折トリッキーなフレーズを織り交ぜると、今度は裕孝がスネアで2拍4拍の明確なバックビートを叩き始めた。
軽快なリズムに乗ってソロを取る亜実のフレーズの中には光る何かがあった。少し前ノリの硬いタッチでプレイする彼女は、すでに自分の選んだ音を紡ぎ出していた。
優人は亜実に対する評価を改めた。
クラッシックピアノばかりやっていたという目前の少女は、僅か一ヶ月ほどでしかない優人達との交流の中で、新たなセンスを身につけていた。
フレーズが奔流となって溢れた。
サスティンペダルを踏みっ放しのまま、激しく鍵盤を叩き続ける亜実の姿に客席から大歓声が飛んだ。
小夜子はいつの間にか弾くのを止めていた。余りに激しいピアノのため、変にギターを入れると邪魔になると判断したらしかった。
拓哉に至っては早々とステージを降り、カウンターに戻ってグラスを傾け、遙と談笑している。
優人は、亜実のソロに乗せられてグルーヴする良和と裕孝を聴きながら、自身の選択に間違いがなかったことを確信した。
亜実のアイコンタクトを受け、小夜子のギターソロが始まり、やがて優人の番が来た。
優人は亜実に食らった爽快なショックから、妙な闘志に駆られた。
ペンタトニックスケール一発で、黒人サックス奏者っぽいフレーズで迫った。
もっともっと乗せてやりたい! と優人は力一杯吹いた。
優人のブロウに応えるように亜実、小夜子、良和、裕孝が優人を乗せようとして煽る。それにまた優人が応える……その繰り返しが演奏のヴォルテージをどんどん上げてゆく。
勢いは止まらなかった。
優人はサックスのベルをマイクから外して合図を送った。
一旦クールダウンさせるような良和の渋めのベースソロの後、裕孝を交えての4バースが始まった。優人、小夜子、亜実が、裕孝と4小節ずつ交互にフレーズを交換し合うもので、最後の盛り上がりの瞬間だ。
強く激しいグルーヴの中、裕孝は三人からフレーズの波状攻撃を受けた。だが決して負けてはいない。フロントの優人達を煽るような激しさを見せたかと思えば、彼等の挑発をかわして一瞬の静寂を演出して見せたりした。
これ見よがしのスネアロールを繰り出し、顎でしゃくった裕孝を確かめ、優人はメンバーに自分の頭を軽く叩いて見せた。
アタマに返る――後テーマに行くという意味だ。
再び『リカード・ボサノヴァ』のメロディを吹いた。
客席から拍手と歓声が起こった。
ステージにも客席にも余熱が残っていた。優人は激しさのままメロディを吹いた。極限まで上がったボルテージは下がらない。いい感じだった。
五人の熱気を抱え込み、『リカード・ボサノヴァ』はエンディングを迎えた。
一瞬の静寂の後、総立ちになった観客から大きな歓声が放たれ、しばらく拍手が鳴り止まなかった。
「ふう……ん?」
びしょ濡れになったアルトのベルを下に向け、溜まった唾液を流し出してから大きく肩で息をした後、優人は亜実に向き直った。
「ふわっ、ふわっ……」
笑い泣きとでもいうような表情を作って顔を紅潮させ、肩を極端に揺らしながら、亜実は奇声を発していた。音の奔流に圧倒され、しかしその中に身を置けたことへの高揚感から、呆然としているようだった。
「亜実ちゃん、どうしたの?」
優人は亜実の顔を覗くようにして声をかけた。
「あっ、あの、なんか、すごくて……」
「亜実ちゃんすごいよ。まさかあそこまでやってくれるとは思わなかったよ」
割って入った良和の言葉に、裕孝と小夜子が続いた。
「亜実ちゃんにすっかり乗せられてしまったな、やっぱ」
「今まで猫かぶってたってのがよーく分かったわ、全く……でも最高!」
「いや、あの……そんな……」
オーバーな調子で徹底的に持ち上げられ、再び顔を真っ赤にして俯いてしまった亜実はやっとそれだけいった。
ほのぼのした、温かい雰囲気がステージの上に溢れていた。
この時、優人達は一曲を五人で作り上げられたという、音楽を、バンドをやる者にしか分からない、心地よい充実感に包まれた。長い間〝サヴォイズ・ギャング〟を続けていたが、こんな感触はそうあるものではなかった。
この感触を求めてバンドでサックスを吹く姿こそ真の自分だと、優人は思ってきた。
もし、これを取り上げる脅威になるなら、当時の優人の最低限の身分――一介の高校生という身分を保証しているに過ぎない、東高も捨てる覚悟もできているつもりだった。この時の優人にとって、〝サヴォイズ・ギャング〟の仲間達が自身の高校生活の全てだった。
「結局、最後は出る幕なくなっちまったのね、おいら」
琥珀色に染まったグラスを片手に、拓哉がステージ上がってきた。バーボンを一気に飲み干すとMC用のマイクを取り上げ、穏やかに話し始めた。
「じゃあ最後に、コイツら紹介します」
すでに楽器を外し、ステージの最前列に並んで待っていた優人達を、拓哉は順番に紹介していった。丁寧に、深々と頭を下げる亜実に、一段と大きな声援が飛んだのはいうまでもなかった。
「はーい、じゃ、みんな一列に並んだよねー」
恒例の〝スクエア・ジャンプ〟の真似は、初めて〝サヴォイ〟でライヴをやった時、小夜子がいい出して始まった。
この年に『トゥルース』という、一九八〇年代後半の日本のフュージョンシーン最大のヒット曲を生み出したバンド、〝ザ・スクエア〟がコンサートなどで最後にメンバー全員が一列に並んでジャンプするのが、一部のファンの間では〝スクエア・ジャンプ〟と呼ばれてなじみとなっていた。
フュージョン志向も強い小夜子にとっては、〝ザ・スクエア〟の安藤まさひろも好きなギタリストの一人だった。プレイの手本にするのが最初なのは勿論だが、憧れが純化しがちなこの年代の若者なら、他のところも真似したくなるものだ。ちょうどアルトサックス奏者のデイヴィッド・サンボーンが右手に腕時計をしているのをテレビで見て以来、優人の腕時計の日焼け跡が右手首に移ったのと同じだ。
最初は照れくさそうにやっていた〝スクエア・ジャンプ〟も、やがては最後にこれがないと落ち着かないようになっていた。
「いいかい、いちにの、さん、で飛ぶんだよ」
「え? わたしもですか?」
優人にいわれ、亜実は自分を指差した。
「大丈夫? できる?」
「何とか……」
「無理して目一杯飛ばなくてもいいからね」
「はい」
「せーの、いち……」
小夜子が声をかけた。みんなが一斉に軽く身体を沈めた。
「にの、さん!」
六人が一気に飛び跳ねた。
その瞬間、客席を挟んで反対側にあるカウンターで、遙のカメラのフラッシュが光った。
遙は大学入学と同時に趣味で写真を始めた。この頃には結構な腕前になっていて、優人達もよく、ライブ中などに被写体になった。デジタルカメラもカメラつき携帯電話もない時代だから、かなり苦労して一眼レフのフィルム式カメラを中古で手に入れ、愛用した。
「やん!」
「おっと」
着地の瞬間、浮き上がるスカートの裾を押さえようとした亜実が足をもつれさせてバランスを失い、優人の方に倒れこんできた。一瞬、優人の胸に顔を埋めた亜実は、またも顔を真っ赤にして慌てて離れた。優人は頭を掻くしかなかった。
声援がなかなか止まらなかった。
コツコツとやってきたことが、いつの間にかすっかり定着していたことを、優人は実感した。
拓哉が去り、いよいよ優人達五人だけでやっていくことになった。
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。