Session #3 Recado Bossa Nove (The Gift) (1)
「小夜子上がれ」
拓哉、良和、裕孝のピアノトリオで『サヴォイでストンプ』『枯葉』『Cジャム・ブルース』の三曲を小粋に決めた後、拓哉が小夜子を促した。
客を入れて演奏する時はいつも、拓哉はそれらしい服装を心がけていた。細身のネクタイを締めて、ワイシャツの袖をアーム・バンドで止め、サスペンダーつきのスラックスをはくといった、この頃目立っていたレトロがかったファッションが、男性としてはやや小柄な拓哉には妙に似合っていた。
「オーラァイ……」
白い長袖のオープンシャツに淡いピンクのスリムジーンズ、腰に緑のサマーセーターを巻き、素足に白いテニスシューズという、極めて軽い出で立ちの小夜子がステージに上がってギターを手にする頃合いを見計り、裕孝が16ビートの、フュージョンライクなサンバのリズムを刻み始めた。そこに良和と拓哉が手拍子を重ね、客席を煽る。
良和は白い無地のTシャツにオーソドックスなブルージーンズと、典型的なアメリカン・ロックを思わせるスタイルだった。これ以上はないほどのシンプルな格好でステージを動き回り、客を乗せていくのも、ライヴでの彼の役割の一つだった。
やがてギターをセットし終えた小夜子がステージのフロントに出て更に客を挑発した。このイントロのパターンから次に来る曲も客は分かっていた。期待に満ちた空間で歓声が上がった。この日のセッションが、この店で数ヶ月、看板ピアニストとして頑張ってきた青年のラストステージだと、客の全てが知っていることもあった。
拓哉の名古屋行きも目前に迫っていた。引っ越し準備などの時間を考えると「五十嵐拓哉フィーチャリング〝サヴォイズ・ギャング〟」と銘打ったセッションをやれるのは、五月の連休期間の、この日しかなかった。
拓哉がイントロを繰り出し、小夜子がオーヴァードライヴのかかったリードギターで『ミ・アモーレ』のメロディを奏で始めた。
中森明菜が歌手として『ミ・アモーレ』を発表したのが一九八五年。作曲者はラテンフュージョンの大御所的ピアニストの松岡直也である。
後に松岡直也は自分のリーダーアルバムで『ミ・アモーレ』をカヴァーした。拓哉が〝これやるぞ〟とテープに録って持ってきたのは、和田アキラのギターがフィーチュアされたインストゥルメンタルのものだった。これをギターを入れた四人でやるといわれた時、〝ガチガチのジャズピアニスト〟という拓哉のイメージが優人の中で氷解し、初めて真に打ち解けられたような気がした。
この曲では優人の出番はないが、練習に顔を出すことに咎めが入るわけではなく、シェイカーを振ったりして遊ばせてもらった。また、元が中森明菜の歌だから、当然〝小夜子歌えー!〟という話にもなったが、〝それだけは絶対に嫌!〟と断固拒否された。
ルースな4ビートのリズムから、軽快なサンバのリズムに変わったステージのムードを楽しみながら、優人は煙草をくゆらせ、烏龍茶のグラスに口をつけた。
優人は、ステージ衣装として用意したグレーのジャップスーツを着込んでいた。高校入学の時、入学祝いに何が欲しいと両親にいわれ、古着屋で買ってもらったものだ。いつかはステージ衣装が欲しいな、と思ってねだったものだが、珍しいものを欲しがるのね、と母親に笑われたのを思い出していた。
千鶴を失って以降、すっかり隠れてしまった優しい笑顔だった。
〝まだ八ヶ月ほどしか経ってないんだな、あれから……〟
この時、優人はもう何年も前のように思える出来事に想いを馳せながら、すっかりなじんだジャンプスーツの着心地を確かめた。肌触りもよい、ゆったりした感触は、ステージでの演奏を伸び伸びとさせてくれそうに感じていた。
ステージの向かって右側の最前列のテーブルで、優人と亜実は出番を待っていた。
拓哉のセッションは曲によってメンバーを入れ替え、様々な形で演奏するのが特徴で、優人にもこの後、これまでのように何度かの出番が用意されていた。一方の亜実は、この日初めて客を前にしたステージに立つことになっていた。
「……」
亜実は俯き、強張った顔で参加する曲の譜面を見つめていた。余裕のなさの表れだった。
「あ……」
優人が、テーブルに広げられた譜面を黙って取り上げると、亜実は呆けたような声を上げ、優人の顔を見つめた。
「あんまりこんなモンにばかりこだわってると楽しくなれないよ」
「でも……」
「ま、気持ちは分からんでもないけど、適当にね」
「はい」
優人から返された譜面を丁寧に受け取ると、亜実は再び俯いて譜面とにらめっこを始めた。その思い詰めた表情が彼女の真剣さゆえだと分かるだけに、優人は微笑ましく感じた。
一方、淡いブルーのワンピースという、この時の彼女の服装が違和感を生み出していた。ピアノの発表会に臨む女の子といった雰囲気で、無遠慮な紫煙が立ち込める夜のジャズクラブの空気感とは相容れないものがあった。ただ亜実からすれば、正装に近いものを選んだつもりだったのだろう。
〝ま、いいか……〟
優人は一旦ステージに目を移した。
『ミ・アモーレ』の演奏に合わせ、客が勝手に歌っていた。ほとんどの人が歌詞を知っていた。この曲をやる時の盛り上がりのパターンだった。
元曲の形以上にギターを前面に出すアレンジで、メロディからソロパフォーマンスに至るまで、正に〝小夜子出ずっぱり〟な感じだった。彼女の生き生きとした表情が、〝この曲アタシが主役っ!〟と雄弁に語っていた。
打ち解けてからの、優人達の目に映る拓哉の音楽性は、まるで軟体動物だった。この日のセッションでも、冒頭の三曲でジャズの王道的スタンダードナンバーを聴かせてから、ラテンフュージョンで趣向を変えるようなことを自然にやってしまう。
他にもジョン・コルトレーンの『インプレッションズ』のような強烈なモーダルナンバーをやらせたかと思えば(ちなみにこの年はコルトレーンの没後二〇周年で、ジャズ界では様々な記念イベントが行なわれていた)次に〝映画音楽だ〟といって出された譜面が映画「犬神家の一族」のオープニングテーマだったりした。
「昔見た日本映画だよ。印象に残ったんで譜面に起こしてみたんだ」
そういって拓哉は笑ってみせた。実際、五人で演奏したらオーソドックスなジャズワルツになり、〝サヴォイズ・ギャング〟の十八番になった。
ステージでは『ミ・アモーレ』が終わり、ジェローム・カーンの『オール・ザ・シングス・ユー・アー』が始まっていた。数多くの名演が残る、ジャズスタンダードの一つだ。
当初は、どこかおっかなびっくりだった小夜子のジャズギタープレイも、大分様になってきていた。
「よし、出番だ」
『オール・ザ・シングス・ユー・アー』のエンディングを聴きながら優人は席を立ち、サックスを抱えた。
「いえーい」
一旦ステージを降りる小夜子とハイタッチを交わした優人はそのままステージ中央に立ち、拓哉が出すAの音でチューニングを済ませ、フロントマイクの位置を調整してからドラムの裕孝に〝OK〟の合図を送った。
ワンホーン・カルテットで、オリヴァー・ネルソンの『ストールン・モーメンツ』とチャーリー・パーカーの『コンファメーション』の演奏を、バラードの『ラウンド・ミッドナイト』と『レフト・アローン』を挟んでジャズらしく飛ばしていくと、客席から大きな歓声が上がった。
『ラウンド・ミッドナイト』と『レフト・アローン』は、いずれも八〇年代後半に公開されたジャズ映画の主題歌だ。特に『ラウンド・ミッドナイト』は映画のタイトルにも同じ名前を冠し、テナーサックス奏者のデクスター・ゴードンを俳優として起用し、更に演奏シーンにハービー・ハンコックやジョン・マクラフリン、ウェイン・ショーターといった大物ジャズミュージシャンを登場させたのが話題となった。
ライヴをすれば客からのリクエストも多くなっていたが、この日のようにオーソドックスにやる時もあれば、リズムをボサノヴァにしてみたり、小夜子や良和のヴォーカルを立ててみたりなど、趣向を凝らしていた。
裕孝の長いドラムソロをフィーチュアし、ソニー・ロリンズの『ストロード・ロード』のエンディングが決まった。白いスタンドカラーのシャツを汗まみれにしながらの熱演に、客席から大きな歓声が上がった。それを受けた裕孝が立ち上がり、ヘヴィメタルのドラマーのように指先で器用にスティックを回してみせると、今度は大きな笑いが起こった。
観客が一気に熱くなったところで再び小夜子がステージに上がり、五人でしっとりと『犬神家の一族~愛のバラード』を演奏した後は一気にフュージョンナンバーを畳みかけた。
渡辺貞夫の『ホーム・ミーティング』に始まり、マーカス・ミラーがデイヴィッド・サンボーンのために書いた『ラン・フォー・カヴァー』、〝ザ・スクエア〟(現在の〝T‐スクエア〟)の『リッキン・イット』にスティーヴィー・ワンダーの『アイ・ウィッシュ』と続けた。
特に小夜子が持ち込んだ『アイ・ウィッシュ』は、拓哉がオリジナルよりもリズムを強調した形にアレンジし直してあり、また歌い上げるようなメロディが、ライヴではラストかアンコール用の演奏として大いに受けた。
ファンキーチューンを連発し、店内が一気にダンスフロアへと変貌したところで、拓哉がマイクに向かって喋り出した。
「実はおれ、今日限りでこのバンド、クビになるんですよ」
すでに分かっていたことでありながら、客席がざわめき出した。
月一回のライヴの顔となっている拓哉の演奏を楽しみにやってくる常連組も目立ち始めていた。どうやら内輪のいざこざと思われたらしかった。
「あのー、今のは笑って欲しいトコロなんですが……」
慌てて拓哉がいい直した。
「一部の人はもう知ってるんだろうけど、もうすぐ名古屋に移住します。そこを拠点にいろいろやってみようと思ってますんで」
そこで拍手が起こった。〝がんばれよー〟という声が飛んだ。
「で、これからはあそこに座って小さくなってる女の子がここに座ります。今日は最後に、彼女も一緒にセッションしますんで、迎えてあげて下さい……亜実ちゃん、おいで」
拓哉に促され、亜実はすっと立ち上がり、ステージに向かった。
〝ありゃぁ……こりゃ、ヤバいかも……〟
口元を強張らせ、俯き加減で歩いてくる亜実の姿を見て、優人は嫌な予感を覚えた。
亜実は極度の緊張状態に陥っていた。彼女の性格が、〝自分が入って一人追い出される〟という意味の言葉を冗談ではなく、逆に真に受けさせ、更に自身を強張らせていた。
「あ……」
ステージと客席の間の段差に足を取られ、亜実が優人の目の前で倒れ込んだ。
「おっと」
優人はサックスを素早く左手に持ち直し、右腕で亜実の小さな身体を受け止めた。彼女が抱えていた譜面の束がフロアに散ったのは初めて出逢った時と同じだ。
「ごっ、ごめんなさい」
亜実は慌てて譜面を拾い始めた。
〝そんな、オーバーな……〟
すぐにも泣き出しそうな少女の横顔を見て、優人は覚悟を決めた。
「曲目変更。『リカード・ボサノヴァ』で行く」
執筆に際しての参考文献・資料等につきましては、連載完結後に表示致します。御了承下さい。