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陸軍モノ

史実準拠のIF:1944年6月15日

作者: 仲村千夏
掲載日:2025/12/17

 六月に入ってから、空の色が変わったと、誰かが言った。

 それは気象の話ではなかった。


 洞海湾に面した防空指揮所で、その言葉を口にした下士官は、窓の外ではなく、机の上に広げられた図面を見ていた。九州北部、八幡。赤鉛筆で丸を付けられたその地点は、これまで何度も話題に上ってきた場所だ。


 「……高すぎるな」


 海軍砲術大尉、皆川は、低く呟いた。

 肩章に触れながら、視線は図面の横に記された数値に向けられている。


 ――高度一万メートル。


 「相変わらず、向こうは無茶を考えますね」


 応じたのは、陸軍高射砲部隊所属の大尉、橋留だった。

 言葉は穏やかだが、表情は真剣そのものだ。


 皆川と橋留は、陸海軍の違いを除けば、同じ畑の人間だった。砲術、弾道、信管。話題にするのは、いつも空をどう落とすかということだ。数年前、演習で顔を合わせて以来、必要以上に距離を置くこともなく、必要以上に踏み込むこともない。だが、互いに相手の腕だけは信頼していた。


 「中国内陸から、という話は?」


 橋留が、確認するように聞く。


 「成都方面。距離だけ聞けば正気じゃないが……」


 皆川はそこで言葉を切り、指先で図面を叩いた。


 「正気じゃない機体らしい」


 正式名称は知っている。B-29。だが、二人とも口にはしなかった。名前を出せば、曖昧だったものが、はっきりとした脅威になってしまう。


 情報は断片的だった。

 高高度。大型。航続距離が異常に長い。与圧式。

 どれも確証には乏しい。だが、砲を扱う者の勘が、同じ結論を指していた。


 ――来る。


 「迎撃戦闘機は、当てにしない方がいいでしょうね」


 橋留が言うと、皆川は即座に頷いた。


 「高度が合わん。数も足りん。期待するのは酷だ」


 残るのは、高射砲だけだった。


 「全国は守れません」


 橋留は淡々と述べる。その言い方に、感情は混じらない。


 「分かっている」


 皆川は、赤丸の八幡を指した。


 「だから、ここだ。一点集中。守れる場所だけ守る」


 陸と海。所属は違えど、その判断に迷いはなかった。日本全土を覆う防空網は幻想だ。ならば、せめて価値のある一点に、弾と砲を集めるしかない。


 会議が終わる頃、外では潮の匂いが濃くなっていた。洞海湾を渡る風が、夏の気配を運んでくる。


 「厄介な相手になりますね」


 橋留が、ふと笑うでもなく言った。


 「厄介で済めばいい」


 皆川はそう返したが、その声には冗談めいた響きはなかった。


 数日後、意見書は各所へ送られた。

 陸軍、海軍、工廠、製鉄所。

 高高度爆撃機の脅威、進入予想線、防空集中の必要性。


 大きな反応はない。

 だが、却下もされなかった。


 六月中旬。

 八幡沿岸に、松型駆逐艦が静かに姿を見せる。陸上では、十二糎級高射砲の据え付けが進み、射界の調整が続けられた。


 訓練は最小限だった。

 本番まで、無駄撃ちはできない。


 「来ますかね」


 橋留が、湾を見ながら言った。


 「来るさ」


 皆川は空を見上げる。


 「問題は、いつだ」


 空はまだ静かだった。

 だが、その静けさが、いつまで続くかを疑う者は、ここにはもういなかった。


 その日の朝、空は妙に澄んでいた。

 雲が高く、風は弱い。洞海湾の水面は穏やかで、製鉄所の煙だけが、いつも通りに空へ伸びている。


 皆川は、防空指揮所の外に立ち、無意識のうちに高度を測っていた。

 癖のようなものだ。砲術屋は、空を見ると距離を考える。


 「嫌な天気ですね」


 背後から声がした。橋留だった。

 陸軍の制服は、すでに汗で少し濃くなっている。


 「爆撃屋には、いい天気だ」


 皆川はそれだけ答えた。


 午前十時過ぎ。

 最初の報は、警戒網の末端からだった。


 ――不明機、多数。西方、高高度。


 電文は簡潔で、感情が入り込む余地はない。だが、その行間は十分だった。


 「来ましたか」


 橋留が言う。

 皆川は、ゆっくりと頷いた。


 「全砲、戦闘配置」


 号令が伝わる。

 沿岸に停泊する松型駆逐艦でも、同時に対空配置が取られていく。艦橋の上、甲板、砲側。人が動き、砲が空を向く。


 目標は、まだ見えない。

 だが、皆川の頭の中には、すでに白い点が浮かんでいた。


 高度一万。

 射程ぎりぎり。

 時間信管、設定最大。


 「信管、最大高度で統一。修正は私の指示を待て」


 「了解」


 応答は短い。

 余計な言葉は不要だった。


 しばらくして、空に異変が現れた。

 最初は、本当に小さな点だった。鳥か、気のせいか、その程度のものだ。だが、双眼鏡を通すと、それははっきりと形を持った。


 「……大きいな」


 誰かが呟いた。


 翼が長い。胴体も太い。

 これまで見てきたどの爆撃機とも違う。


 「噂通りだな」


 橋留が、低く言った。

 声には、驚きよりも納得が混じっている。


 編隊は崩れない。

 一定の間隔を保ち、淡々と進んでくる。


 「まだ撃つな」


 皆川は、双眼鏡から目を離さない。

 早撃ちは意味がない。届かない弾は、ただの音だ。


 距離が詰まる。

 高度は変わらない。


 「……今だ」


 その一言で、空が割れた。


 十二糎砲が一斉に吠える。

 衝撃が地面を震わせ、耳鳴りがすべての音を塗り潰す。


 白い破裂雲が、高空に咲いた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 やがて、それは帯になる。


 「修正、不要。このまま弾幕を張れ」


 皆川は、冷静に言った。

 狙って当てる戦いではない。進路を覆い、圧をかける。


 敵編隊の動きが、わずかに乱れた。

 高度を上げる機影。

 間隔を広げる機影。


 「効いてますね」


 橋留が言う。


 「ああ。落とせなくてもいい」


 皆川は、空を睨み続けた。


 「狂わせろ」


 再び、破裂。

 さらに、破裂。


 その時だった。


 編隊の一角で、白い閃光が弾けた。

 一瞬遅れて、黒煙が噴き上がる。


 「……当たった?」


 誰かの声が震える。


 皆川は双眼鏡を握り直し、焦点を合わせた。


 機体が傾く。

 高度を失う。

 煙が途切れない。


 「――続け」


 彼は、そう命じた。

 確認は後だ。今は、弾幕を切らすわけにはいかない。


 空では、なおも白い雲が咲き続けている。

 高すぎる場所で、静かに、しかし確実に、戦いは始まっていた。


 高度一万の空で、黒煙は消えなかった。


 皆川は双眼鏡を下ろさない。

 撃ち続ける砲の振動が、床越しに伝わってくる。だが、彼の意識はすでに一機の機影に集中していた。


 傾きが、戻らない。

 修正舵を打っている様子もない。


 「……落ちるな」


 誰に言うでもなく、皆川は呟いた。


 次の瞬間、機体の腹部で光が走った。

 爆発ではない。だが、内部で何かが耐えきれずに破断したのは、素人目にも分かった。


 高度を失い、機影はゆっくりと回転を始める。

 編隊から、はっきりと外れていく。


 「撃ち方、やめ!」


 皆川は叫んだ。


 砲声が止み、空に奇妙な静寂が訪れる。

 耳鳴りの向こうで、誰かが息を呑む音がした。


 落下は、長かった。

 高すぎる空からの墜落は、地上の時間感覚を狂わせる。


 やがて、機影は雲を突き抜け、洞海湾の向こうで、白い水柱を立てて消えた。


 「……確認」


 橋留が、抑えた声で言った。


 皆川は、はっきりと頷いた。


 「一機。確実だ」


 歓声は上がらなかった。

 誰も声を出さない。ただ、皆が同じ空を見ていた。


 だが、戦いは終わっていない。


 編隊は、そのまま進んでくる。

 爆弾倉が開き、銀色の影が、次々と切り離されていく。


 爆音。

 振動。

 製鉄所の一角から、土煙が上がる。


 「被害報告は後だ。今は――」


 皆川の言葉を遮るように、橋留が空を指した。


 「皆川さん、あれを」


 別の機影。

 墜落した機ほど派手ではない。だが、明らかに異常だった。


 片翼の内側から、断続的に煙が噴き出している。

 炎ではない。だが、あの色は良くない。


 「……重いな」


 皆川は、即座に理解した。

 飛べてはいるが、余裕がない。


 その機は、編隊に戻らなかった。

 単独で、高度を保ったまま、進路を外れる。


 「帰る気だ」


 橋留が言う。


 「帰れれば、だがな」


 皆川は、そう答えた。


 それ以上、二人にできることはなかった。

 高射砲は、届く範囲を過ぎている。戦闘機もいない。


 やがて、編隊は去っていった。

 空は再び静かになり、残ったのは、白い破裂雲の名残だけだ。


 午後。

 被害報告が集まり始める。


 製鉄所の損害は限定的。操業停止には至らない。

 皆川は、その報告に小さく息を吐いた。


 「落とせたのは、一機だけか」


 橋留が、確認するように言う。


 「確認できたのはな」


 皆川は、湾の向こうを見た。


 あの煙を引いて去った機体が、その後どうなったか。

 それを知る術は、地上にはない。


 だが、砲術屋としての勘が、答えを出していた。


 ――あれは、持たない。


 夕刻、公式発表用の戦果がまとめられる。

 撃墜一。

 損害多数、不詳。


 それで十分だった。

 それ以上を、証明する必要はない。


 空は、何事もなかったかのように、夕焼けに染まっていく。

 高すぎる場所で起きた戦いの全貌を、地上が知ることは、最後までなかった。


 翌朝、八幡の空は何事もなかったかのように澄んでいた。

 前日の爆音と振動が嘘だったかのように、製鉄所の煙突はいつも通りの煙を吐いている。


 皆川は、防空指揮所の一角で報告書に目を通していた。

 紙の上には、簡潔な数字と短い文章だけが並んでいる。


 ――敵大型爆撃機 撃墜一。

 ――他、損害を与えたるもの数機。


 それ以上は書かれていない。

 書けない、という方が正確だった。


 「妥当ですね」


 隣で、橋留が言った。

 声に不満はない。


 「確認できたのは、一機だけだ」


 皆川は、報告書から目を離さずに答えた。

 湾に落ちた機体。爆散もなく、乗員の行方も不明。だが、誰もが見た。あれは、落ちた。


 もう一機については、何も書かれていない。

 煙を引いて去った機体が、その後どうなったか。

 地上からは、分からない。


 「それでも、意味はあります」


 橋留は、静かに言った。


 「落とせる、という事実です」


 皆川は、その言葉にすぐには頷かなかった。

 砲術屋として、数字の裏にある現実を知っている。


 「落とせた、ではない」


 やや遅れて、彼は言った。


 「たまたま、落ちた」


 橋留は、苦笑する。


 「それでも、ゼロではない」


 その違いが、どれほど大きいか。

 二人とも、よく分かっていた。


 正午過ぎ、公式発表が出る。

 敵大型爆撃機一機撃墜。

 国民向けには、それで十分だった。


 一方、海の向こうでは、別の数字が整理されていた。


⸻


 作戦終了後の集計で、帰還機数が合わないことは、すぐに分かった。

 一機は、八幡上空で消息を絶った。

 もう一機は、帰路で連絡が途絶えている。


 原因の欄には、簡潔な言葉が並ぶ。


 ――対空砲火による損傷、のち喪失。

 ――戦闘損傷後の作戦行動不能。


 撃墜、という言葉は使われない。

 だが、損失は損失だ。


 参謀は、報告書に目を走らせ、短く評価を書き添える。


 「敵対空砲火は改善されつつある。

 しかし、作戦遂行に重大な支障なし」


 それで、この件は終わる。


⸻


 夕刻、洞海湾に陽が落ちる。

 赤く染まる水面を見ながら、皆川と橋留は、並んで立っていた。


 「次も、来ますかね」


 橋留が言う。


 「来るだろう」


 皆川は、即答した。


 「今度は、もっと多く」


 その言葉に、橋留は何も返さなかった。

 否定できる材料が、どこにもない。


 八幡は守られた。

 だが、日本全土が守られたわけではない。


 一機落としたという事実と、二機失われたという記録。

 そのどちらもが正しく、どちらもが不完全だった。


 空は、変わらず高い。

 その高さが、これから先、何度も人々を誤解させることを、まだ誰も知らない。


 ただ、皆川は思った。

 あの日、白い雲の中で起きた出来事は、序章に過ぎないのだと。


 次に来る時、同じやり方が通じるとは、限らない。


 洞海湾に夜が降りる。

 静けさの中で、高すぎる戦争は、確実に次の段階へ進んでいた。

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