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陸軍モノ

史実準拠のIF:1944年6月15日

作者: 仲村千夏

 六月に入ってから、空の色が変わったと、誰かが言った。

 それは気象の話ではなかった。


 洞海湾に面した防空指揮所で、その言葉を口にした下士官は、窓の外ではなく、机の上に広げられた図面を見ていた。九州北部、八幡。赤鉛筆で丸を付けられたその地点は、これまで何度も話題に上ってきた場所だ。


 「……高すぎるな」


 海軍砲術大尉、皆川は、低く呟いた。

 肩章に触れながら、視線は図面の横に記された数値に向けられている。


 ――高度一万メートル。


 「相変わらず、向こうは無茶を考えますね」


 応じたのは、陸軍高射砲部隊所属の大尉、橋留だった。

 言葉は穏やかだが、表情は真剣そのものだ。


 皆川と橋留は、陸海軍の違いを除けば、同じ畑の人間だった。砲術、弾道、信管。話題にするのは、いつも空をどう落とすかということだ。数年前、演習で顔を合わせて以来、必要以上に距離を置くこともなく、必要以上に踏み込むこともない。だが、互いに相手の腕だけは信頼していた。


 「中国内陸から、という話は?」


 橋留が、確認するように聞く。


 「成都方面。距離だけ聞けば正気じゃないが……」


 皆川はそこで言葉を切り、指先で図面を叩いた。


 「正気じゃない機体らしい」


 正式名称は知っている。B-29。だが、二人とも口にはしなかった。名前を出せば、曖昧だったものが、はっきりとした脅威になってしまう。


 情報は断片的だった。

 高高度。大型。航続距離が異常に長い。与圧式。

 どれも確証には乏しい。だが、砲を扱う者の勘が、同じ結論を指していた。


 ――来る。


 「迎撃戦闘機は、当てにしない方がいいでしょうね」


 橋留が言うと、皆川は即座に頷いた。


 「高度が合わん。数も足りん。期待するのは酷だ」


 残るのは、高射砲だけだった。


 「全国は守れません」


 橋留は淡々と述べる。その言い方に、感情は混じらない。


 「分かっている」


 皆川は、赤丸の八幡を指した。


 「だから、ここだ。一点集中。守れる場所だけ守る」


 陸と海。所属は違えど、その判断に迷いはなかった。日本全土を覆う防空網は幻想だ。ならば、せめて価値のある一点に、弾と砲を集めるしかない。


 会議が終わる頃、外では潮の匂いが濃くなっていた。洞海湾を渡る風が、夏の気配を運んでくる。


 「厄介な相手になりますね」


 橋留が、ふと笑うでもなく言った。


 「厄介で済めばいい」


 皆川はそう返したが、その声には冗談めいた響きはなかった。


 数日後、意見書は各所へ送られた。

 陸軍、海軍、工廠、製鉄所。

 高高度爆撃機の脅威、進入予想線、防空集中の必要性。


 大きな反応はない。

 だが、却下もされなかった。


 六月中旬。

 八幡沿岸に、松型駆逐艦が静かに姿を見せる。陸上では、十二糎級高射砲の据え付けが進み、射界の調整が続けられた。


 訓練は最小限だった。

 本番まで、無駄撃ちはできない。


 「来ますかね」


 橋留が、湾を見ながら言った。


 「来るさ」


 皆川は空を見上げる。


 「問題は、いつだ」


 空はまだ静かだった。

 だが、その静けさが、いつまで続くかを疑う者は、ここにはもういなかった。


 その日の朝、空は妙に澄んでいた。

 雲が高く、風は弱い。洞海湾の水面は穏やかで、製鉄所の煙だけが、いつも通りに空へ伸びている。


 皆川は、防空指揮所の外に立ち、無意識のうちに高度を測っていた。

 癖のようなものだ。砲術屋は、空を見ると距離を考える。


 「嫌な天気ですね」


 背後から声がした。橋留だった。

 陸軍の制服は、すでに汗で少し濃くなっている。


 「爆撃屋には、いい天気だ」


 皆川はそれだけ答えた。


 午前十時過ぎ。

 最初の報は、警戒網の末端からだった。


 ――不明機、多数。西方、高高度。


 電文は簡潔で、感情が入り込む余地はない。だが、その行間は十分だった。


 「来ましたか」


 橋留が言う。

 皆川は、ゆっくりと頷いた。


 「全砲、戦闘配置」


 号令が伝わる。

 沿岸に停泊する松型駆逐艦でも、同時に対空配置が取られていく。艦橋の上、甲板、砲側。人が動き、砲が空を向く。


 目標は、まだ見えない。

 だが、皆川の頭の中には、すでに白い点が浮かんでいた。


 高度一万。

 射程ぎりぎり。

 時間信管、設定最大。


 「信管、最大高度で統一。修正は私の指示を待て」


 「了解」


 応答は短い。

 余計な言葉は不要だった。


 しばらくして、空に異変が現れた。

 最初は、本当に小さな点だった。鳥か、気のせいか、その程度のものだ。だが、双眼鏡を通すと、それははっきりと形を持った。


 「……大きいな」


 誰かが呟いた。


 翼が長い。胴体も太い。

 これまで見てきたどの爆撃機とも違う。


 「噂通りだな」


 橋留が、低く言った。

 声には、驚きよりも納得が混じっている。


 編隊は崩れない。

 一定の間隔を保ち、淡々と進んでくる。


 「まだ撃つな」


 皆川は、双眼鏡から目を離さない。

 早撃ちは意味がない。届かない弾は、ただの音だ。


 距離が詰まる。

 高度は変わらない。


 「……今だ」


 その一言で、空が割れた。


 十二糎砲が一斉に吠える。

 衝撃が地面を震わせ、耳鳴りがすべての音を塗り潰す。


 白い破裂雲が、高空に咲いた。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 やがて、それは帯になる。


 「修正、不要。このまま弾幕を張れ」


 皆川は、冷静に言った。

 狙って当てる戦いではない。進路を覆い、圧をかける。


 敵編隊の動きが、わずかに乱れた。

 高度を上げる機影。

 間隔を広げる機影。


 「効いてますね」


 橋留が言う。


 「ああ。落とせなくてもいい」


 皆川は、空を睨み続けた。


 「狂わせろ」


 再び、破裂。

 さらに、破裂。


 その時だった。


 編隊の一角で、白い閃光が弾けた。

 一瞬遅れて、黒煙が噴き上がる。


 「……当たった?」


 誰かの声が震える。


 皆川は双眼鏡を握り直し、焦点を合わせた。


 機体が傾く。

 高度を失う。

 煙が途切れない。


 「――続け」


 彼は、そう命じた。

 確認は後だ。今は、弾幕を切らすわけにはいかない。


 空では、なおも白い雲が咲き続けている。

 高すぎる場所で、静かに、しかし確実に、戦いは始まっていた。


 高度一万の空で、黒煙は消えなかった。


 皆川は双眼鏡を下ろさない。

 撃ち続ける砲の振動が、床越しに伝わってくる。だが、彼の意識はすでに一機の機影に集中していた。


 傾きが、戻らない。

 修正舵を打っている様子もない。


 「……落ちるな」


 誰に言うでもなく、皆川は呟いた。


 次の瞬間、機体の腹部で光が走った。

 爆発ではない。だが、内部で何かが耐えきれずに破断したのは、素人目にも分かった。


 高度を失い、機影はゆっくりと回転を始める。

 編隊から、はっきりと外れていく。


 「撃ち方、やめ!」


 皆川は叫んだ。


 砲声が止み、空に奇妙な静寂が訪れる。

 耳鳴りの向こうで、誰かが息を呑む音がした。


 落下は、長かった。

 高すぎる空からの墜落は、地上の時間感覚を狂わせる。


 やがて、機影は雲を突き抜け、洞海湾の向こうで、白い水柱を立てて消えた。


 「……確認」


 橋留が、抑えた声で言った。


 皆川は、はっきりと頷いた。


 「一機。確実だ」


 歓声は上がらなかった。

 誰も声を出さない。ただ、皆が同じ空を見ていた。


 だが、戦いは終わっていない。


 編隊は、そのまま進んでくる。

 爆弾倉が開き、銀色の影が、次々と切り離されていく。


 爆音。

 振動。

 製鉄所の一角から、土煙が上がる。


 「被害報告は後だ。今は――」


 皆川の言葉を遮るように、橋留が空を指した。


 「皆川さん、あれを」


 別の機影。

 墜落した機ほど派手ではない。だが、明らかに異常だった。


 片翼の内側から、断続的に煙が噴き出している。

 炎ではない。だが、あの色は良くない。


 「……重いな」


 皆川は、即座に理解した。

 飛べてはいるが、余裕がない。


 その機は、編隊に戻らなかった。

 単独で、高度を保ったまま、進路を外れる。


 「帰る気だ」


 橋留が言う。


 「帰れれば、だがな」


 皆川は、そう答えた。


 それ以上、二人にできることはなかった。

 高射砲は、届く範囲を過ぎている。戦闘機もいない。


 やがて、編隊は去っていった。

 空は再び静かになり、残ったのは、白い破裂雲の名残だけだ。


 午後。

 被害報告が集まり始める。


 製鉄所の損害は限定的。操業停止には至らない。

 皆川は、その報告に小さく息を吐いた。


 「落とせたのは、一機だけか」


 橋留が、確認するように言う。


 「確認できたのはな」


 皆川は、湾の向こうを見た。


 あの煙を引いて去った機体が、その後どうなったか。

 それを知る術は、地上にはない。


 だが、砲術屋としての勘が、答えを出していた。


 ――あれは、持たない。


 夕刻、公式発表用の戦果がまとめられる。

 撃墜一。

 損害多数、不詳。


 それで十分だった。

 それ以上を、証明する必要はない。


 空は、何事もなかったかのように、夕焼けに染まっていく。

 高すぎる場所で起きた戦いの全貌を、地上が知ることは、最後までなかった。


 翌朝、八幡の空は何事もなかったかのように澄んでいた。

 前日の爆音と振動が嘘だったかのように、製鉄所の煙突はいつも通りの煙を吐いている。


 皆川は、防空指揮所の一角で報告書に目を通していた。

 紙の上には、簡潔な数字と短い文章だけが並んでいる。


 ――敵大型爆撃機 撃墜一。

 ――他、損害を与えたるもの数機。


 それ以上は書かれていない。

 書けない、という方が正確だった。


 「妥当ですね」


 隣で、橋留が言った。

 声に不満はない。


 「確認できたのは、一機だけだ」


 皆川は、報告書から目を離さずに答えた。

 湾に落ちた機体。爆散もなく、乗員の行方も不明。だが、誰もが見た。あれは、落ちた。


 もう一機については、何も書かれていない。

 煙を引いて去った機体が、その後どうなったか。

 地上からは、分からない。


 「それでも、意味はあります」


 橋留は、静かに言った。


 「落とせる、という事実です」


 皆川は、その言葉にすぐには頷かなかった。

 砲術屋として、数字の裏にある現実を知っている。


 「落とせた、ではない」


 やや遅れて、彼は言った。


 「たまたま、落ちた」


 橋留は、苦笑する。


 「それでも、ゼロではない」


 その違いが、どれほど大きいか。

 二人とも、よく分かっていた。


 正午過ぎ、公式発表が出る。

 敵大型爆撃機一機撃墜。

 国民向けには、それで十分だった。


 一方、海の向こうでは、別の数字が整理されていた。



 作戦終了後の集計で、帰還機数が合わないことは、すぐに分かった。

 一機は、八幡上空で消息を絶った。

 もう一機は、帰路で連絡が途絶えている。


 原因の欄には、簡潔な言葉が並ぶ。


 ――対空砲火による損傷、のち喪失。

 ――戦闘損傷後の作戦行動不能。


 撃墜、という言葉は使われない。

 だが、損失は損失だ。


 参謀は、報告書に目を走らせ、短く評価を書き添える。


 「敵対空砲火は改善されつつある。

 しかし、作戦遂行に重大な支障なし」


 それで、この件は終わる。



 夕刻、洞海湾に陽が落ちる。

 赤く染まる水面を見ながら、皆川と橋留は、並んで立っていた。


 「次も、来ますかね」


 橋留が言う。


 「来るだろう」


 皆川は、即答した。


 「今度は、もっと多く」


 その言葉に、橋留は何も返さなかった。

 否定できる材料が、どこにもない。


 八幡は守られた。

 だが、日本全土が守られたわけではない。


 一機落としたという事実と、二機失われたという記録。

 そのどちらもが正しく、どちらもが不完全だった。


 空は、変わらず高い。

 その高さが、これから先、何度も人々を誤解させることを、まだ誰も知らない。


 ただ、皆川は思った。

 あの日、白い雲の中で起きた出来事は、序章に過ぎないのだと。


 次に来る時、同じやり方が通じるとは、限らない。


 洞海湾に夜が降りる。

 静けさの中で、高すぎる戦争は、確実に次の段階へ進んでいた。

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