第9話「幻花の后《モス・エンプレス》 ―眠りを喰らう森―」
花は囁き、森は眠る。
粉は魂を撫で、意識は甘き檻に沈む。
獣も人も夢を抱いたまま繭へ還る。
その中心に座す影こそ、密林の女王――
眠りを統べる捕食者、モス・エンプレス。
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アムズマ地方・アメドア密林。
昼なお薄暗く、木々が寄り合い、空を覆い、
霧と湿気と花の香が絡みつく森。
この地帯には、長く続く道など存在しない。
踏み跡はすぐに植物に飲まれ、
方角は木々が迷路をつくり、
風さえ方向を変える。
それでも獣たちは生きている。
――今、逃げていた。
バクリーヤという草食獣の群れが、
悲鳴にも似た鳴き声をあげながら藪を裂く。
背中の斑紋が揺れ、蹄が泥に沈み、
湿った大気に白い息が散った。
後ろから追うのは、
緋毛の大型肉食獣ドレイクハウンド。
鹿のような身軽さと、虎のような瞬発。
静かな森に、獲物を追う興奮の唸りが響く。
逃げるバクリーヤ、
迫るドレイクハウンド。
そして、そのさらに後ろ――
茂みの影を滑る三つの人影。
「見たか? あれだ、あの牙のやつ!
帝国じゃ高値で売れるぞ!」
「逃さねえ。どっちも仕留めりゃ、
二重に儲かるって寸法だ!」
冒険者とも狩人ともつかない男たち。
彼らは金の匂いと肉の匂いを追い、
森の奥へ奥へと足を踏み入れていた。
だが――
彼らは境界線を越えた。
“戻れない場所”への一歩だった。
森の空気が、変わる。
甘く、濃く、胸の奥に沈む香りが漂う。
見慣れたはずの木洩れ陽が、
やけに揺れて見える。
「……おい、霧が濃くねぇか?」
「気にすんな、すぐ出口だろ」
出口など、この森に存在しない。
男たちは知らなかった。
ドレイクハウンドが急に速度を落とした。
獲物を前にして、立ち止まるなどあり得ない。
だが、彼の瞳はぼやけ、足がもつれ――
やがて、その場に崩れ落ちた。
「……? どうした?」
男のひとりが近づくと、
甘い霧がさらに濃くなった。
視界がぼやけ、
耳鳴りがして、
息が笑うように軽くなる。
「……なんだこれ……眠……」
言葉の続きを言う前に、
男はゆっくり膝を折り、
泥へ倒れた。
次の瞬間――
頭上から、ひらり、と落ちる影。
巨大な翅がそよぐ音。
淡い光粉が舞い、
花弁のように視界を覆う。
モス・エンプレス。
体長5メートル、
羽開長は15メートルにも及ぶ
この森の“幻花の女王”。
長い触角が空気を撫で、
紫金色の複眼が静かに揺れる。
その周囲には常に乳白色の花粉が渦巻き、
世界そのものが揺らいで見えた。
眠った草食獣へ――
翅の端が触れる。
次の瞬間、
半液状の糸が獲物を包む。
ゆっくり、ゆっくりと、
大きな繭へ形を変えていく。
肥えた獲物、
筋肉質な獲物、
温かな獲物。
捕らえられたバクリーヤは、
抵抗する間もなく繭に閉ざされる。
続けてドレイクハウンドも包まれた。
強靭な獣であろうと、
意識を奪われれば何一つできない。
そして――
倒れた人間たち。
「……う……?」
男のひとりがかすかに目を開けた。
だが、視界に映るのは光粉の花弁。
耳に届くのは甘い囁き。
本当は音すら存在しない。
花粉が生む幻覚だった。
「や……やめ……」
声にならない声を残して、
男もまた繭に包まれていく。
人間、肉食獣、草食獣。
捕食連鎖の段差は、
この空間では意味を持たない。
すべてが均しい“栄養”。
モス・エンプレスは繭を木々の高所へ運び、
その内部へ触角を触れさせた。
柔らかな振動が走り、
繭の内部から栄養が吸われていく。
苦しみは最小限。
意識は夢の奥で溺れたまま。
抵抗も叫びも、この森には不要。
やがて繭はわずかに萎み、
森の女王は静かに翅を揺らした。
次の獲物を求めて、
甘い霧を深部へ広げながら――。
密林の闇が再び静けさを取り戻す。
ただし、その静けさは
“生命の消失”によってもたらされたものだった。
この森で眠りに落ちたものが
再び目を覚ますことは――決してない。
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