第7話「氷嵐の視座《フロスト・ワイバーン》 ―白き熱源狩り―」
凍冴の暴翼
フロスト・ワイバーン
山は眠らず、嵐は眼をもつ。
蒼き鱗は風を捩り、吐息は血の鼓動さえ凍らす。
熱は獲物の名――名づけられた者から順に、静かに砕け散る。
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ユーレイドレシア地方・ラマース山脈。
晩冬の終わり、雪解けはまだ遠い。
山腹を撫でる風は針のように細く、やがて群青の空を裂いて吹雪へ変わる。
岩稜の影が伸び、白の世界に濃い切れ目を落としていた。
ギルド依頼を終えた四人の冒険者が、下山路を探していた。
若い剣士ロック、炎の術士ミレイ、灯明を操る学匠リュス、弓手のサーシャ。
彼らは狩り果たした魔物の角を麻袋に収め、吹き荒ぶ雪の筋から顔を逸らしながら歩く。
「視界が……もたない」
リュスが灯りの魔法を絞り、揺れる光輪を足元に落とす。
「どこか、凌げる穴を」
ミレイが赤く凍えた指先をこすり、息に火花の気配をまぶす。
やがて、雪庇の裂け目の奥に、黒い空洞が口を開けていた。
風の通りが良い、浅い洞。
壁面には煤と煤の間に古い爪痕が刻まれている。
「入るぞ、いっとき温まる」
ロックの声で、四人は身を滑り込ませた。
火。
ミレイが掌で小さな炎を立てる。
炎は風に揉まれ、泣くように揺れる。
だが、凍えた指先には十分だった。
氷柱から滴れる水が、明滅に合わせて鈍く光る。
袋から干し肉を分け、息を静め、雪音に耳を澄ませる。
その時、外の風に“別の音”が混じった。
生臭い血の匂いが流れ込み、洞の奥から低い擦れ声が響く。
先に帰ってきたのは、主のほうだった。
雪を押し分けて現れたのは、灰青色の巨躯。
背に氷塊のような瘤をもち、膂力で岩を砕く腕をもつ――フロスト・トロール。
片手で仕留めたイノシシを引きずりながら、黄色い眼を洞の中へと差し込む。
「……ここ、やつの巣だ」
サーシャが舌打ちする間もなく、トロールの喉が逆立つ。
歯の奥から漏れる笑いと怒りの混じった声。
岩床にイノシシを放り、こん棒を引き抜き、天井に叩きつけた。
落ちた氷片が火を揺らし、四人の影を壁に泳がせる。
「外へ!」
ロックが袋を肩に背負い直し、入口へ身を切る。
四人は吹雪へ躍り出、雪原に半円の陣を取った。
トロールが巨体をねじ込む。
ロックが間合いを詰め、サーシャが脚の筋を狙う矢を二本、続けざまに撃つ。
ミレイの掌に炎が灯り、リュスが灯明の輪を広げて足場を刻む。
炎。
それはこの地のトロールの弱点であるはずだった。
だが、山が吠え、風が燃えた。
吹雪は炎を平たく伸ばし、巻き上げ、白の渦で掻き消す。
火花は雪粒に呑まれ、じゅ、と短い嘶きを残して死ぬ。
「火力が……足りない」
ミレイが唇を噛む。
トロールが雪に踏み込んで突進し、ロックが剣で肩口を切り上げる。
血が蒸気になって上がり、匂いが山風に乗った。
その瞬間だった。
山が、別の声を帯びた。
空を裂く咆哮。
一段と強くなった横殴りの風が、雪の壁をまとめて運んでくる。
白の膜の向こう、空に巨大な影が輪を描いた。
リュスが灯明を持ち上げ、魔法の光度を上げる。
吹雪の布が脇へ裂け、その隙間に“それ”が姿を見せた。
青白い鱗。
氷片を鏤めた翼。
細長い顎に、短い角。
フロスト・ワイバーン。
その瞳孔は針のように細まり、四人を――いや、四つの「熱」を正確にとらえる。
熱は、獲物の名だ。
地鳴りに似た翼音が一拍遅れて届く。
白い尾が雪を掬い、風そのものが刃に変わった。
先に動いたのはトロールだった。
自分の巣の前、自分の獲物に割り込んだ外敵を許さぬように、こん棒を肩に担ぎ、跳躍する。
こん棒が振り下ろされ、鈍い衝撃が空気を叩く。
だが、ワイバーンの鱗は氷板より硬い。
打撃は弾かれ、逆に衝撃がトロールの腕を折った。
次の瞬間、顎が閃き、トロールの肩に喰い込む。
振られた首の遠心力で、巨体は雪庇を突き破って転がり、白の斜面に点のように消えた。
隙――のように見えた時間。
ミレイが炎を束ねて放ち、ロックが腰を低くして突っ込む。
サーシャが翼の腱を狙って矢を走らせ、リュスが灯明で二人の足元を支える。
だが、吹雪は彼らの友ではなかった。
炎は届く前にすり切れ、矢は風に攫われる。
ロックの間合いに尾が走り、叩きつけられた衝撃が胸骨を揺らす。
剣が落ちる。膝が雪に沈む。
視界の端で、青白い顎がわずかに開いた。
冷気。
それは息というには濃すぎ、刃というには静かすぎた。
吐息は霧となり、瞬きの間に結晶へ変わる。
ロックの肩に、胸に、頬に、白が走る。
彼はまだ立っていた。
だが、次の瞬間には動かなくなっていた。
その姿勢のまま、氷像へ変わる。
「ロック!」
ミレイの呼び声が割れる。
ワイバーンの瞳孔が、別の熱へ滑る。
選ばれる――その感覚が背骨を凍らせるより速く、三人の脚は自分から動いた。
理ではない。反射でもない。
ただ、熱であることから逃げるために。
崖を背に左へ、吹きだまりを蹴って右へ、各々が別の白へ身を投じる。
ミレイの炎は自分の頬を焼くほど近くで灯り、リュスの灯明は足裏の凹凸だけを照らし、サーシャの弓は凍りついて弦が鳴らない。
雪面が崩れ、膝まで沈む。
振り返れば、青白い影がふたたび空を切り、翼で吹雪を抱き込んで巻き上げる。
追わない。
急がない。
ただ、熱の残滓を測っている――そんな目だった。
ロックの氷像が、風に鳴る。
薄い氷の層が音もなく剥がれ、白い粉となって飛び散った。
その向こう、ワイバーンは静かに首を傾ける。
熱源は削れた。
山嵐は、また一枚、自分の翼へ戻る。
三人は、もう振り返ることができなかった。
山を下る道は雪に消え、崖縁は風に消え、足場は“次の一歩”の形にしか存在しない。
サーシャの肩が外れかけ、リュスの灯が何度も消え、ミレイの炎が最後にはただの体温に見えるほど弱くなった。
それでも、彼らは下った。
下る以外に、生き残る方法を知らないからだ。
嵐が和らいだ頃、山は最初から静かだったように見えた。
洞の前には、砕けたイノシシの骨だけが散り、こん棒の破片が雪に埋もれている。
氷像の欠片は、どこからどこまでが誰であったか分からない。
フロスト・トロールの転げ落ちた斜面には、血の筋が細く伸び、下の樹間で途切れていた。
空。
蒼い鱗の影が一度だけ山稜を渡り、やがて雲へ消える。
それは巡回でも、見せつけでもない。
山そのものの呼吸のような、当たり前の往来。
――熱が減った。
それだけが、この飛竜にとっての意味だった。
「山は怒らない。
ただ、熱を数え、余分を冷ます。
祈りは風に凍り、勇は尾で折れる。
それでも人はまた登り、山はまた凍らす」
ラマースは白を深め、夜の青を濃くする。
どこかで雪が崩れ、どこかで獣が足を取られ、どこかで小さな焚き火が生まれ、消える。
フロスト・ワイバーンは、ただその上を旋回し、時々、息を吐く。
凍てつく吐息は、熱の名札を剥がし、山を元の温度へ戻す。
翌朝、三つの足跡が別々の谷へ消えているのが見つかるだろう。
彼らは語るはずだ――
炎は吹雪に負けること、灯りは風に折れること、そして、
美しいものほど、容赦がないということを。
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