第6話「砂に口開く《サンドワーム》 ―砂の神の使い―」
砂海を穿つ神脈
サンドワーム
砂に眠る喉は音を食い、影はなく、足音だけが獲物の名。
地は裂けず、ただ沈む。叫びは砂に呑まれ、跡は風が消す。
見えぬ口ほど神に近い――それが砂の掟。
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デザグリース地方、アシェプト領ハーグ近郊。
灼けた丘陵の向こうにも砂、さらにその先にも砂。
昼は白い刃のように光り、夜は冷たい鉄のように沈む。
この地では、頻りな地鳴りが起きることがある。
その砂原を、数十人の旅団が歩いていた。
ユーレイドレシアの小国から流れてきた難民で、女も子も老人も混じる。
安い船で海を渡り、ようやく陸に上がった彼らは、南にあるという受け入れ国を目指していた。
飲み水は少なく、皮袋は薄くなり、乾いた唇に塩の味がする。
夜通し歩くのは、獣や盗賊を避けるため。
だが、この地方で夜の静けさは安全を意味しない。
砂は立て続けに低く鳴っていた。
足裏の下で、微かな鼓動のように。
旅団は最初、恐れ、次に慣れ、やがて気にしないふりを覚えた。
「地震さ」
「砂が動く土地なんだ」
外から来た者には、それで説明がついた。
縁の欠けた月が沈みかけた頃、誰かが指差した。
「……水だ」
遠目にも黒く沈んだ小さな輪。オアシスだった。
干からびた喉が一斉に鳴り、足取りが速くなる。
地鳴りは続いていた。
それでも、彼らの耳はもう、希望の音しか拾わなかった。
オアシスの周囲は不自然なほど静かだった。
腹を空かせたハイエナも、夜目の利く盗賊もいない。
岸辺の棕櫚は風に揺れるだけで、鳥影すらない。
「神の慈悲だ」
誰かがそう言い、皮袋を振り上げた。
砂が、ひと呼吸ぶん、深く鳴った。
最初の違和に気づいたのは、幼い少年だった。
砂の表面が、肌に触れる布のように細かく波打っている。
足を乗せた場所だけ、沈む。
次の一歩で、また別の場所が沈む。
まるで地面全体が、遠い太鼓に合わせて柔らかく震えていた。
「聞こえるかい?」
少年は母の袖を引いた。
「なにが」
「下で、誰かが――」
その時、砂漠に夜が降りた。
否、太陽が消えたのだ。
旅団の頭上に、影が落ちた。
影の正体は、砂中から躍り出た山のような躯。
数十メートルに及ぶ円筒状の体躯が、砂を撒き散らしながら空に躍り、空の白を丸ごと遮った。
口が開いた。
円環の縁には無数の逆棘。
喉の奥で湿り気のない風が回転し、砂が轟と吠えた。
巨体はすぐに沈み、砂は元の平らさを取り戻す――ように見えた。
旅団は散り、叫び、互いを呼び、走り出した。
だが、すでに遅い。
彼らの立つ一帯を囲むように、砂が同心円状に噴き上がる。
丸く、輪を描いて。
細かい粒子が光を弾き、円の外側でだけ風が流れる。
円の内側は、静かに、確実に、傾き始めた。
蟻地獄。
砂の表面は足場の形を保たず、踏み込むほどに崩れていく。
外へ向かって走る足は、砂に取られて前へ出ない。
誰かが倒れ、誰かが手を伸ばし、誰かが砂を掴む。
掴んだ砂は指の間から溢れ、指ごと沈む。
叫びはすぐに喉に帰り、砂埃に引き裂かれる。
中心に、口が待っていた。
先ほど空を遮ったのと同じ口。
それは砂の下で円環を閉じたり開いたりしながら、落ちてくるものを受け止め、飲み込む準備を終えていた。
逆棘が、触れたものを奥へ奥へと送り込む。
噛み砕きはしない。
消化という名の夜へ、ただ流し込む。
外縁にいた数人は辛うじて滑り落ちず、膝と肘で這い出ようとした。
砂の斜面は崩れ、体が横滑りする。
誰かが縄を放り、誰かがそれに掴まる。
縄は擦れ、熱を持ち、砂に埋もれかける。
その時、地鳴りがひときわ大きく鳴り、砂の斜面全体が一枚の布のようにすべり落ちた。
円環の喉が淡く収縮し、暗い中心がひとつ息を吸う。
沈む。
声も、荷も、名も、祈りも。
砂はすぐに平らになった。
風が吹き、細かな波紋が昨日から続いていたかのように広がってゆく。
旅団の足跡は、縁に引きずられ、消えた。
皮袋のひとつが転がって、口を開けたまま乾いている。
その傍らには、砂で磨かれた小さな銅の飾りがひとつ、陽に鈍く光っていた。
――砂漠は何事もなかったかのようだった。
この地方の者は知っている。
地鳴りが続く季節があること。
鳥がオアシスに降りない夜があること。
砂丘の稜線に、均等な間隔の緩い波が並ぶ朝があること。
それらはすべて、砂の下の“巡回”の印だ、と。
サンドワームは獰猛ではない。
怒らない。待つだけだ。
地中を進みながら音波で世界を撫で、地表の振動を読む。
群れの足並み、荷車の軋み、皮袋が互いに触れる硬い音――
それらは、砂の下の口にとって“名前”と同じ意味を持つ。
呼ばれた名は応じねばならない。
砂の喉は、名を呑み込んで静けさを取り戻す。
アシェプトの王都から出た商隊は、季節によって隊列を変える。
砂に歌わせない踏み方を知るからだ。
地元の騎手は、蹄鉄に布を巻き、駱駝には砂の歌を短く切る歩幅を教える。
幼子でも、地鳴りの種類を聞き分ける耳を持つ。
「深い音は、遠い。浅い音は、近い。
早い音は、こっちへ向かう。遅い音は、去ってゆく」
それを知らなかったのは、外から来た人々だけだった。
夜、砂漠の温度が急降下する頃、砂の下の喉はまた巡回を始める。
人の歌ではない、砂の歌が続く。
耳を地につければ、聞こえるかもしれない。
海の波にも似た、深く反復する律動が。
それは祈りではないが、祈りの形をしている。
長く、静かで、確かな、生き物の呼吸。
「祈る者が砂を踏み、砂は祈りを知らない。
まず音が名を付け、次に口がそれを消す。
それが、砂の神域に課されたごく単純な理である」
風が起き、砂の肌理を均す。
朝になれば、昨夜の出来事を示す記号はどこにも残らない。
ただ、目に見えない“空白”だけが、砂の下に広がっている。
そこは満たされ、やがてまた空になる。
砂は動き、世界は続いていく。
――呼吸のように。
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