第5話「地を揺らす影《デスホーン》 ―怒りの大地―」
大地を貫く憤角
デスホーン
沈黙は警告、歩みは宣告。
怒りは雷より速く、風より重い。
踏み荒らすのではなく――ただ、存在する。
その一歩に地は震え、命は道を譲る。
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デザグリース地方、リヴァディ草原。
乾季の終わり、空は薄い灰に曇り、陽は丸い鉄片のように鈍く光る。
風は遠雷の匂いを含み、草の穂先は揃って同じ方角へ傾いていた。
大地が低く鳴る。
百も二百もある影が、筋となって地平から押し寄せる。
ヌーの群れ、シマウマの群れ、インパラの群れ。
足音は波、砂塵は霞。
だが、その流れはある一点で必ず割れ、広がり、また合わさる。
そこに、黒い岩のようなものが佇んでいるからだ。
岩ではない。獣だった。
背は乾いた泥と古傷で地図のように裂け、肩は山の根のように盛り上がる。
額から伸びる角は、黒曜石に似た鈍い光を帯び、根元に無数の擦り跡が刻まれている。
デスホーン――開拓者たちが“土地の呪い”と呼ぶ、草原の単独者。
彼は動かない。
ただ、草を食む。
それでも、群れは道を譲る。
斜行し、弧を描き、彼の周囲に空白を残す。
誰も近づかない。近づけない。
彼はこの草原で、群れの外側に立つ「境界」そのものだった。
上空を旋回するのはスカイクロウ。
乾いた羽音が陽炎のように揺れ、黒い影が地面に楔を打つ。
影は“通り道”を描き、草の海に一筋の暗い帯が取り残される。
その帯の中央を、デスホーンがゆっくり進む。
午後、異質な音が草原に混ざった。
金属の擦れる音、誰かの掛け声、杭を打つ打音。
人間だった。
四台の荷車。十人ほどの開拓者が、ここに水路を引き、畑を拓くための測量を始めていた。
若い測量士が杭を握り、陽に眩しそうに笑う。
「この土、締まってる。川も近いし、いい村になるぞ!」
年配の開拓者が眉を顰める。
「ここは……獣道じゃないのか。踏み跡が深い」
「群れの通り道は動くさ。杭で誘導すりゃ避ける」
言葉は軽く、金属音は大地に深く刺さる。
その瞬間、風が止まった。
鳥の声が消え、空気が硬くなる。
遠くの砂塵が立ち上り、真っ直ぐこちらへ伸びてくる。
誰かが顔を上げた。
黒い巨体が、揺れる地平線から切り取られて現れた。
デスホーン。
彼は杭と人間と荷馬と、積み上げられた木材と、打ち捨てられた草の根を、ひとつに束ねるように見た。
音はない。
ただ、歩みが近づく。
一歩ごとに地が低く鳴り、胸の骨に響く。
馬が耳を伏せ、荷車が軋み、道具がひとつ、またひとつ、土に落ちた。
老人が叫ぶ。
「退け! 道を明けろ!」
若い測量士は笑って恐怖を追い払おうとする。
「大丈夫だ、脅せば逃げる。音で牽制して――」
乾いた銃声が、草原に浮いた。
鉛の粒が巨獣の肩に当たり、薄く皮を掠める。
次の瞬間、空気が爆ぜた。
デスホーンが吼えた。
音というより、圧。
胸骨を内側から押し返す衝撃が、群れの遠吠えのように地中を走る。
角がわずかに角度を変え、巨体が風を裂いた。
突進。
世界が狭くなる。
視界の中央に角の黒が広がり、周囲の色が薄れる。
荷車が弾け、車輪が空へ舞い、束ねた木材が針の雨になって落ちる。
若い測量士は、身を投げ出すように地へ伏せ、突風に転がされた。
馬は脚で空を掻き、革と木の匂いが裂けて、土が飛沫になる。
角は人間に触れなかった。
デスホーンは、荷車と杭と地面を貫き、支点ごとえぐり取っただけだ。
だが足下で地が泣き、身体は勝手に理解する。
――次は自分だ、と。
彼はもう一度、短く鼻を鳴らした。
怒りの尾だけが残り、すぐ消える。
デスホーンは横に退く群れのように荷馬を迂回し、杭の列を真っ直ぐ踏み潰しながら進んだ。
杭は乾いた音で折れ、測量縄は宙でほどけ、風に絡まって消える。
開拓者たちは動けなかった。
誰も殺されてはいない。
だが、胸の奥のどこかに古い記憶が触れる。
焚き火の赤ではない、稲妻の白でもない、土の黒。
その黒が「ここはお前たちの場所ではない」と言った。
夕陽が雲の縁を赤く焼き、影が長く伸びる。
砂塵の帷が下りる中、デスホーンは歩みを緩めない。
ヌーの群れが彼の背後で形を変え、広い半円で遠巻きに見送る。
シマウマの群れは斜めに走り、音もなく渡る川のように彼の通り道を避ける。
誰も彼の後ろを追わない。
誰も彼の前に回り込まない。
上空のスカイクロウが、再び輪を描く。
影が草の海に線を引き、その線は杭の列と交差して消える。
草の穂がぱたぱたと倒れ、すぐ起き上がる。
残るのは、折れた木と、壊れた荷車と、踏み潰された測量図――そして、人間たちの沈黙だけ。
やがて遠雷が近づき、風が戻る。
草の穂先が揃って揺れ、押し黙っていた虫の声が夜の底からにじみ出す。
開拓者たちは、荷をまとめた。
言い争いはなかった。
誰も「去ろう」と言わず、誰も「残ろう」とも言わなかった。
彼らはただ、壊れたものを片付け、折れた杭を土に埋め、馬の鼻先を撫で、東の空を見た。
夜明け、彼らは出発した。
同じ道を辿りながら、少しだけ迂回して。
振り返れば、草原はすでに彼らの痕跡を飲み込んでいた。
折れた車輪の跡も、足跡も、砂塵に消える。
ただ一つ、杭の立っていた場所に、巨大な角が地を穿った溝が残っていた。
雨が降れば、それも消えるだろう。
数日後、移動中の群れがその跡を横切る。
ヌーは匂いを嗅ぎ、頭を振って通り過ぎた。
シマウマは子を内側に寄せ、速度を緩めず駆けた。
スカイクロウは溝をひとつの文字のように俯瞰し、風に乗って去った。
誰も立ち止まらない。
立ち止まる理由も、言葉もない。
「怒りに理由はなく、破壊に悪意はない。
ただ、この地は彼のものであり、
それを理解できぬ者が、恐怖と呼ぶだけだ。」
デスホーンは今日も歩く。
群れには加わらず、水場へも群れとは違う刻で向かい、風下を選んで眠る。
季節が巡れば、角の根元に新しい擦り傷が増え、背の裂け目は砂で目詰まり、古い泥は陽に白む。
それでも彼の歩幅は変わらず、道はいつも彼の前に割れていく。
彼は殺さない。
必要がないからだ。
この草原において、殺すことと支配することは、同じ場所にはいない。
彼は在るだけで、十分に示す。
ここが境界であり、ここが彼の道であり、ここで生きるものが守るべき間合いであることを。
遠雷がさらに近づき、風が土の匂いを濃くする。
草原は雨を待ち、群れは風を読み、空は重さを増す。
デスホーンは角をわずかに傾け、前脚で地を押した。
地は低く応え、彼はまた一歩、前へ出る。
彼が通り過ぎたあと、草は起き上がり、虫が鳴き、空は薄明るくなる。
そして誰もが、同じ結論に辿り着く。
――ここは彼の通り道。
――我らは、その外側で生きる。
大地は、今日も脈打っている。
巨獣の足跡に合わせて。
そして、その足跡こそが、この草原に刻まれた“掟”だった。
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