第4話「神を喰らう湖《リヴァイト・フィッシュ》 ―雷鳴の底―」
深淵を呼ぶ雷
リヴァイト・フィッシュ
嵐の夜、湖は息をする。
水底より昇る蒼光は、祈りにも似た誘い。
近づくものすべてを、光と共に呑み、焼き尽くす。
神を見た者はなく――ただ、閃光の中に還るのみ。
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アムズマ地方。アメドア密林のさらに奥、木々のざわめきさえ遠のく場所に、その湖はある。
少数部族アメドの者たちはそこを「セアナ」と呼ぶ。
言葉の意味は、静かなる息。
昼は霧に覆われ、夜は闇に沈む。
そして嵐の夜だけ、その沈黙は形を変える。
その日も雨期の嵐が近づいていた。
空は鉛色に垂れ、湿った風が森を重く撫でる。
アメドの集落に、四人の冒険者が現れた。
粗末な地図を広げ、胸を張って名乗る。
「魔物退治の凄腕パーティー、紅牙だ。
この“神域の獣”とやら、確かめに来た。」
長身の男が笑う。盾と両刃剣を負った彼がリーダー。
もう一人の男は弓使い。
女が二人。軽装の剣士と術士。
装備は整い、態度は傲慢だった。
アメドの長老ヌアは首を振る。
「セアナは神の息。
嵐の夜、そこへ行ってはならぬ。
獣ではない。祈りの場だ。」
「神だろうが獣だろうが、首を取れば名になる。」
リーダーは笑い飛ばす。
「危険なのはありがたい話だ。安全な依頼じゃ名声はつかめない。」
部族の若者たちは必死に止めた。
罰当たりだと、死ぬと。
だが、彼らの言葉は“臆病”としか受け取られない。
その夜。雷鳴が森を震わせた。
雨は横殴りで降り、木々は唸り、空は黒一色に塗りつぶされる。
アメドの者たちは火を消し、祈りを捧げながら小屋に籠った。
《紅牙》qはこっそり抜け出す。
部族の案内役を騙し、いつの間にか見失わせ、密林の闇を進む。
雷が一度、二度と鳴り、風に押されるようにして湖へ出た。
そこに広がっていたのは、ただの暗黒だった。
「……なんも見えねえな」
弓使いが舌打ちする。
波も立たず、月もなく、湖は墨を流したように静まり返っている。
「ほら見ろよ、“神域”ってのもハッタリか。」
リーダーが笑い、足元の石を蹴って湖へ放り込む。
水音さえ、小さく飲み込まれた。
術士の女が眉をひそめる。
「ねえ……なんか、空気がおかしくない?」
その時だった。
湖の底で、光が灯る。
最初は、深いところに沈んだ蛍火のような蒼。
それがゆっくりと広がり、絡み合い、うねり始める。
巨大な輪郭が、湖の底いっぱいに描かれていく。
「……見たか? やっぱり何かいる。」
リーダーが息を呑む。
女剣士が、一歩だけ前へ。
雨宿りをしていた水鳥たちが、湖へ向かう。
嵐を避けて林に潜んでいた小獣たちも、足を引きずるように岸辺へ出る。
シカが一頭、水を求めて歩み寄る。
蒼い光は、彼らを迎えるように揺れた。
「あれ……綺麗。ね、ちょっと近くで──」
軽装の女剣士が、仲間の制止より早く足を進めた。
膝まで水に浸かった、その瞬間。
世界が白く爆ぜた。
光と音が同時に落ちる。
視界は真白に焼かれ、鼓膜に痛みが走る。
水面から青白い雷が走り、水鳥が空中で燃え、魚が腹を上にして浮く。
女の体が跳ね上がり、そのまま黒く沈んだ。
「──ッ!?」
術士が悲鳴をあげるより早く、もう一度、湖の底が光った。
だが今度は違う。
光は一点に集まり、何かが浮上してくる。
湖面が盛り上がり、闇が割れる。
現れたのは、岩かと見紛うほど巨大な頭部。
全身を覆う鱗が雷光を反射し、ひげのような触手が水を切る。
巨大な目は閉じられたまま、ただ口だけがゆっくりと開いた。
洞窟の入口のようなそれの前で、風向きが変わる。
空気が引かれていく。
「来るな、下がれ!」
弓使いが叫ぶ。
だがもう遅い。
吸引が始まった。
風が逆巻き、雨が斜めに引き寄せられ、足元の水が裂けて湖の中心へ流れ込む。
鎧を着たリーダーの体が、地面から浮き上がる。
術士が彼の腕を掴むが、その体ごと引きずられた。
「離せ! お前まで──」
言葉は最後まで続かない。
軽い体の術士が先に、巨大な口の闇へと飲まれる。
弓使いは必死に木の根を掴むが、ずるずると引き剥がされる。
彼の手袋が破れ、指が泥を掻く。足が浮く。
叫びは雷鳴にかき消された。
リーダーは地面に剣を突き立て、自分を繋ぎ止める。
腕が軋み、刃が軋む。
湖の中心で、蒼い光が脈打つ。
目が合った気がした。
それが錯覚だと分かっていても、もう遅い。
剣が、へし折れた。
男の体が宙に舞い、次の瞬間には闇の中だった。
大口はゆっくりと閉じられる。
吸引が止み、嵐だけが残る。
湖面は何事もなかったかのように、黒く戻った。
深淵の内側で、リヴァイト・フィッシュは放電する。
口内に取り込まれた魚も、鳥も、獣も、冒険者も。
すべてが、青白い閃光に灼かれていく。
それは怒りではない。
効率の良い捕食行動にすぎない。
夜が明ける頃、雨は弱まり、霧が湖面を覆っていた。
アメド族の若者たちが、長老と共にセアナへ向かう。
岸辺には焦げた羽根が散り、折れた矢、割れた金具の破片が泥に沈んでいた。
人の姿はない。
ヌアはそれを見て、目を閉じる。
「……愚かな子らよ。」
怒りはなかった。
あるのは、薄い哀れみと、深い畏れだけ。
彼は湖に向かって膝をつき、静かに祈る。
アメドの言葉で、昔からそうしてきたように。
『セアナよ、眠りたまえ。
その雷は森を守り、愚かなる者をのみ裁かんことを。』
若者たちは無言で頭を垂れる。
昨夜、遠くから見えた閃光と、聞いた悲鳴を思い出す。
助けに行けなかったことを悔やみながら、しかし足が動かなかった理由も知っている。
彼らは知っているのだ。
あれは“助ける”“戦う”といった言葉の届かぬ領域に棲むものだと。
湖面の下で、微かに蒼い光が揺れた。
それは感謝でも、警告でもない。
ただ、そこに在る生命の証。
「人はそれを“神”と呼ぶ。
しかしセアナの主にとって、人も獣も同じ獲物にすぎない。
恐れる者が祈りを生み、祈らぬ者が喰われる。
それが、この神域に課せられた、ごく単純な理である。」
長老たちは背を向け、森へ戻る。
誰も湖を振り返らない。
嵐の去った空に、遠く小さな雷鳴が一つだけ響いた。
セアナは静かに息を潜める。
次の嵐の夜まで、その深淵に牙と光を隠しながら。
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