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観測記録No.15「飢渇鮫《クレイヴ・シャーク》 ―地底湖の主―」

 飢渇追命(きかつついめい)

 飢渇鮫 クレイヴ・シャーク


 血のひとしずく 水脈を渡り

 渇きは遠き影をも餌と定む

 狭き流れを嫌わず 岩壁すら砕き進み

 逃げ場を崩し 舟を沈め

 ひとたび執せば 満ちることなく

 湖底の主は なお飢えて待つ

 ================================================ 


 デザグリース地方、アシェプト領。

 砂漠を貫いて流れるノイン大河から、西へ少し離れた村――ダラウ村。


 この数か月、村では不穏な噂が絶えなかった。

 隣町へ向かうために河を渡った者たちが、船ごと消えるのだ。


 ワニか。

 カバか。

 あるいは盗賊か、隣国ティエンムーの獣人による誘拐か。


 村人たちは様々な可能性を口にしたが、どれも決め手に欠けた。

 小舟ひとつならともかく、複数の人間ごと船の痕跡もほとんど残さず消える。

 監視所の多い流域で、船を奪って持ち去るのは現実的ではない。


 やがて、村では別の名が囁かれるようになった。

「ムゥハージームの仕業だ」

 砂猿、邪獣とも呼ばれる中型哺乳類。

 他種族の同型哺乳動物に対して、生態としての性的行動が見られる。

 それは繁殖を目的としたものではなく、本能的な快楽が高い知性と結び付いた結果である。

 四足歩行動物などを襲うことは極めて例外だが、同型哺乳動物である人間種も例外ではない。

 彼らは攫った人間を家族の中で最も低い地位の一員として位置づけ、迎え入れるのだ。

 だがそれでも、やはり彼らは陸の生き物である。

 船ごと消える説明にはなりにくい。



 結局、何もわからぬまま、数か月が過ぎた。

 その転機は、目撃証言だった。


「夕方、ノインを北へ走る大きな三角の影を見た。船じゃない。速すぎる」

「早朝、カバの叫び声がしたんだ。見たら、水に引き込まれて……水面が赤くなった」


 村長も、衛兵も、首をひねるしかなかった。

 七十年近く生きてきた村長ですら、そんな生き物は知らない。


 だが、海沿いの地域で任務経験のある衛兵の一人が、低い声で言った。

「……鮫、では?」

 その場の空気が変わった。

「河に鮫?」

「いや、淡水の鮫が居る話はある。だが、カバを引きずり込むだなんてそんな大きさは……」


 ざわめく衛兵たちを見て、村長はふと思い出した。

 代々の村長が記してきた古い日誌。戦や飢饉、獣害、河の変化――村に起きた出来事が細かく残されている。


 埃をかぶった帳面をめくり、村長はやがてある記述に目を止めた。

 そこにははっきりと書かれていた。

 血に飢え、死肉に執し、舟を沈める巨鮫。

 名を――クレイヴ・シャーク。


 百年以上前、ティエンムーとの戦でノイン大河が戦場となった折、河には多くの兵士の遺体が浮かんだ。

 ワニが群がる中、それを押し退けるようにして、海から巨大な鮫が遡上(そじょう)してきたという。

 それも一頭ではない。何頭もだ。


 戦時中は両軍関係なく被害を出し、終戦後の遺体回収にまで異様な執着を見せた。

 追い払っても、何度でも戻る。

 遺体の回収は困難を極め、それはワニの執着の比ではなかった。

 遺体が尽きるまで河を離れなかったが、やがて鮫たちは海へと帰ったのか、姿を見せなくなったのだという。


 日誌の端には、震える筆跡でこう記されていた。

「ワニの執着は腹のため。鮫の執着は渇きのため」



 その話をしている最中だった。

 村の外が騒がしくなり、衛兵たちが駆け出す。

 ほどなくして、一人の若い男が運び込まれた。


 二日前、隣町へ向かって行方不明になっていた青年だった。

 左腕が、肘から先ごと無かった。

 顔は砂と血で汚れ、目は焦点が合わず、唇は震えている。

 回復術師が止血し、衛兵が水を含ませる。

 青年は息を荒くしながら、途切れ途切れに語り始めた。


 河を渡っている最中、突然、船が強い力で横から押された。

 (かい)で漕いでも、向きを変えても、まるで何かに導かれるように同じ方向へ流されていく。

 飛び込むことはできなかった。

 ノイン大河のワニの恐怖を、誰もが知っていたからだ。


 やがて陽が陰り、空気が冷えた。

 頭上を岩が覆い、気づけば禁じられた北の洞窟へ入っていた。

 そこは内部が迷宮のように入り組み、村では「近づくな」と言い伝えられている場所だった。


 仲間たちは慌ててたいまつを灯し、「灯明(とうみょう)」の魔法を使った。

 湿った岩壁。狭く反響する水しぶきの音。暗闇の奥へ続く流れ。


 そして次の瞬間、船が跳ね上がった。

「滝だ!」

 誰かの叫びとともに、視界が反転する。

 彼らの乗った船は、洞窟内の落差へ吸い込まれ、地底湖へと落ちていた。


 水面に叩きつけられた青年は、沈みゆく船の灯明で灯された光で見たという。

 湖底に散らばる無数の骨。

 砕けた木片。

 沈んだ船の残骸。



 次の瞬間、灯りがひとつ消えた。

 またひとつ消えた。

 微かな魔法光のなか、仲間の一人に喰らいつく巨大な影が見えた。


「……鮫でした。大きな、大きな……」

 青年の声は、そこでひび割れた。


 あとは無我夢中だった。

 泳ぎ、岩にぶつかり、暗闇の中を手探りで這い上がった。

 そのとき、水際から何かが飛び出し、左腕に噛みついた。

 引きずり込まれそうになり、慌てて身をひねって逃れた結果、腕だけを失った。


 必死に走って、少し離れたところで一度振り返った。

 後ろでは、たいまつと灯明の光が次々と消え、叫び声だけが続いていた。

 青年は心の中で仲間たちに謝りながら、回復魔法を刻みつつ洞窟をさまよい、二日かけてようやく地上へ出たのだという。


 話を聞き終えた衛兵隊長は、青ざめたまま立ち上がった。

「ただちに本国へ報告します。監視と封鎖を強化し、調査の後、討伐作戦を組むべきです」


 村長は重くうなずいた。

 誰もが理解していた。

 これはワニでも、盗賊でも、ムゥハージームでもない。


 河を遡り、洞窟へ獲物を押し込み、地底湖へ落として喰らう。

 地形そのものを狩りに組み込む、巨大な捕食者。

 記録に残る名が、再び現れたのだ。


 飢渇鮫クレイヴ・シャーク

 

 その夜、村長は一人、古い日誌を閉じて長く息を吐いた。

 あの鮫は、百年前の戦のあと海へ帰らず、地底湖に住み着いた個体なのか。

 それとも近年、海から新たに遡上してきた別個体なのか。

 考えても、答えは出ない。


 ただひとつ、はっきりしていることがある。


 広い海では競合も多い。

 獲物も散る。

 だが狭い地底湖なら、自分が主になれる。

 流れ込む獲物を待ち、逃げ場を崩し、渇きを満たせる。


 この砂漠の地下に隠れた水域は、外の世界にとっては死地でも、あの怪物にとっては違う。


 そこはきっと、最も満ち足りた狩場。

 血の匂いが途切れぬ、暗く静かな楽園。


 ――飢渇鮫にとっての、文字通りの“オアシス”なのだ。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

次回も読んでいただけると、嬉しいです!

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