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観測記録No.13「暴風の爪《テンペスト・ホーク》 ―翼が呼ぶ暴風域―」

 高空の覇者

 嵐鷹 テンペスト・ホーク


 高みは境界。越えた瞬間、空が牙を剥く。

 鳴けば風は渦を巻き、雨は体温を奪い、翼は“落下”を命令する。

 狩りではない——侵入への裁き。

 嵐の前に、命は等しく軽い。

 ================================================ 


 アルセィーマ地方、ビスト地区。

 潮の匂いが白い岩肌に染み、海風が絶えず砂を撫でる海岸に、ひとつの気球が横たわっていた。布は新しく、籠も金具も輝いている。

 空へ伸びるロープが、これから始まる旅の期待を形にしていた。


 名乗りを上げたのは六名。

 裕福な資産家とその娘。アムズマ地方から来た冒険家。護衛として雇われた魔術師が二名。そして操縦士。

 魔法を使わずに空を行く——それは、魔法の才能に恵まれない者にとっては夢であり、才能に恵まれた者にとっても、別の種類の浪漫だった。


 出発前、年老いた生物学者が何度も忠告していた。

 モルデ山脈の上空を通るな、と。

 理由はひとつ。嵐と共に現れる巨大な鷹の伝承だ。


「……頼む。そこは避けた方がいい。私ですら一度も見たことがない。だが、見たという者がいる以上、空の上には“縄張り”がある」

 学者は、気球の籠に積まれた荷を指し示しながら言った。

「海岸沿いに回れば、山脈を迂回できる。安全な航路はあるんだ」


 だが資産家は鼻で笑う。

「そのために護衛の魔術師を雇っているのだ」

 娘も頬を赤らめ、目を輝かせた。

「伝説の鷹が見られるなんて、ロマンチックじゃない?」


 魔術師の一人が肩をすくめる。

「嵐だろうが獣だろうが、対処は可能です。ご心配なく」

 学者は言い返したかった。魔法が万能なら、伝承は伝承で終わっている、と。

 だが彼は喉の奥で言葉を飲み込み、ただ最後にこう告げた。

「……生きて帰ってくれ。空は人間の味方じゃない」



 気球は、拍手と羨望と不安の視線の中で浮かび上がった。

 海岸が縮み、波が線になり、町が玩具のように見える。

 視界いっぱいに広がる世界に、六名の呼吸は軽くなる。


 資産家の娘が籠の縁から身を乗り出し、両手を広げた。

「……わぁ。空って、こんなに広いのね」

 資産家が満足げに笑う。

「どうだ。金は夢を掴むために使うものだろう」

 操縦士は風を読みながら、誇らしげに言った。

「高度は順調です。海風も味方していますよ」


 やがて海の青が遠ざかり、山の輪郭が近づいた。

 雲の影が山肌を流れ、峰は刃のように空を裂く。

 モルデ山脈——空の道を志す者にとって、越えたくなる境界。


 その頃、気球の周囲を小型の翼竜と中型の鳥類が横切った。

 だが彼らの飛び方は優雅ではない。

 ひとつの方向へ、揃って、急いでいる。鳴き声が鋭く、羽ばたきが荒い。


 アムズマの冒険家だけが眉をひそめた。

「……おかしい。あいつら、逃げてる」

 彼は操縦士へ声を投げる。

「進路を変えた方がいい。山脈は避けよう」


 しかし資産家がすぐに遮った。

「こんな雄大な景色、二度とは見られないぞ」

 冒険家を値踏みするように見て、鼻で笑う。

「冒険に慣れていると言うから雇ってやったのに、冒険家とは思えん小心者だ」


 娘も無邪気に笑い、鳥に向かって手を振った。

「まぁ! 鳥さんがこんなに近くに……。こんにちはって言ってるのかしら?」

 資産家が声を上げて笑う。

「はは、お前とお話したいのかもな」

 魔術師たちも軽く笑った。

「空は穏やかですよ。怯える必要はありません」

 冒険家だけが、鳥の消える方角を見つめ続けた。


 空は、返事をするように暗くなった。

 昼前だというのに、光が落ちる。

 雨が叩きつけ、風が急に冷たくなる。

 さっきまでの鳥も翼竜も、ひとつ残らず消えていた。


 娘が肩をすくめ、濡れた髪を払う。

「パパ、寒いわ〜」

 資産家が苛立って怒鳴る。

「おい、お前ら! 魔法で何とかしろ!」

 魔術師が手をかざし、温風と簡易結界を張る。

「一時的に温めます。ですが、風が……強すぎる」



 その瞬間だった。


 けたたましい鳴き声が、空気そのものを震わせた。

 娘が小さく悲鳴を上げ、耳を塞ぐ。

「きゃっ……雷!?」

 冒険家は歯を食いしばる。

「違う……あれは“声”だ」


 操縦士が叫んだ。

「あ、あれを見ろ!」

 山の方角から、影が来る。

 雲の裂け目を滑るように、巨大な鳥影が近づく。

 翼が広がるたび、雲が剥がれ、雨の筋が曲がる。

 青黒い羽が空を塞ぎ、視界に“昼ではない夜”を落とした。


「……うそ。あれ……鳥?」

 娘の声が震える。

 魔術師の一人が言葉を失った。

「サイズが……常識外だ」


 資産家が顔を歪め、叫ぶ。

「う、撃ち落とせ! あれを近づけるな!」


 魔術師が攻撃魔法を放つ。

 だが接近は一瞬だった。

 魔法を難なく躱した巨翼が気球の脇を掠めた刹那、空気がねじれ、風が爆発した。


 風は止まらない。

 渦になる。竜巻のように巻き上がり、気球の布を裂き、ロープを引きちぎり、籠ごと持ち上げた。

 世界が回転し、上下が溶ける。


「いやぁぁぁっ!」

 娘の叫びが裂け、籠の縁から身体が宙へ放り出された。

 冒険家は反射で腕を伸ばし、彼女を抱き込む。

「掴まれ! 離すな!」


 積んでいた脱出用の小型気球は、渦風に飲まれ、紙屑のように消える。

 操縦士が必死に叫ぶ。

「制御できない! 風が……風が命令してるみたいだ!」


 娘は涙で顔を濡らしながら、空を探した。

「パパが……! パパが!」

 その視線の先で、資産家が上空へ持ち上げられていた。

 巨大な嘴が彼を咥える。まるで、空が人間を回収するように。


「や、やめろ! 私は——」

 言葉は風に切り裂かれ、消えた。


 巨大な影は、落ちていく二人を追わない。

 興味がないのか。あるいは——これは“狩り”ではないのか。

 ただ、侵入者を空から排除し、境界を守るだけ。


 冒険家は装備のグライダーを展開し、必死に“落下の向き”だけでも制御しようとする。

 雨が視界を奪い、風が身体を殴る。

 娘が嗚咽混じりに、繰り返す。

「パパ……パパ……!」



 後日、ディエレント帝国軍が救助隊を組織し、二人は保護された。

 冒険家は救助までの間、食料をかき集めていたため、資産家の娘も無事だった。

 だが娘は父の最期が頭から離れず、笑い方を忘れたようだった。


 さらに後日。

 魔術師二名が、それぞれ別の地区の療養所と魔術師ギルドを訪れていた。

 軽くない傷。骨折と凍傷、魔力枯渇による衰弱。

 資産家と操縦士は戻らなかった。


 そして四名の証言が揃った時、ようやく伝承は“記録”となった。

「嵐と共に現れる巨大な鷹」は実在する。

 空の境界に縄張りを持ち、侵入者を嵐で裁く。

 それは捕食者である以前に、上空圏の法そのものだ。


 こうして——

 かつて伝え話の陰に隠れていた存在は、正式に超獣登録された。


 嵐鷹 テンペスト・ホーク。

 その名は、空へ憧れる者たちの胸に、ひとつの戒めとして残る。


「空は、自由ではない」

 自由に見えるだけで、そこには主がいるのだ。

ここまでお読みいただきありがとうございました!

次回も読んでいただけると嬉しいです!

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