第10話「霧幻の刃《ミラージュ・デア》 ―誘われた学者たち―」
霧幻の刃
ミラージュ・デア
森は夢を映し、霧は真実を隠す。
訪れる者は幻に触れ、幻に惑い、
気づけば帰り道さえ霞む。
刃と化す角が閃くとき、
獲物は“自ら歩く保存食”へと変わる。
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ユーレイドレシア地方の森深部。
日差しが枝葉に砕かれ、地面までは届かない。
地図にも載らぬ“霧の帯”が森を包み、外界とは隔絶された静謐が支配している。
この地には、古代より噂だけが残っていた。
――霧から生まれ、幻を歩く鹿がいる。
学者たちは、それを“伝承上の獣”と見なしてきた。
しかし近年、王侯の狩猟隊が霧の森で失踪する事件が続き、改めて調査が行われることとなった。
霧生態学者のアルヴィン、獣類研究者ミルダ、野外観察専門家ローレンの三名は、最新の魔導観測器と記録端末を抱えて森の奥へ足を踏み入れた。
「……ここ、変だな。音が少なすぎる」
ローレンが呟く。
鳥の声も、虫の羽音も、遠吠えすらない。
ただ、霧がゆらりと揺れ、鼻をかすめるのは湿った草と冷えた土の匂い。
その静謐を破ったのは、“鹿”だった。
大きい。
並のシカの倍はある。
体躯は淡い青灰色で、霧の中では輪郭が揺れて見えた。
「……記録開始します。あれは……新種? 大型草食獣……」
ミルダが興奮気味に囁く。
そのとき――
森の奥から低い唸り声が聞こえた。
ヴァルグの群れ。
十頭ほどが縦に広がり、静かに、しかし確実に“鹿”を包囲している。
続いて、もうひとつの影。
刃のように尖った牙を持つ痩身の虎――シャープタイガー。
「……まずいぞ。あの鹿、狙われてる」
「どうする? 助けるか?」
「いや……観察優先だ。
弱者と強者の連鎖を見届けるんだ」
彼らは自然主義者だった。
弱肉強食は観察対象であって介入すべきではない。
だが、自然は彼らの常識とは異なる形をしていた。
ヴァルグが動いた。
一斉に飛びかかるべく、一歩前へ踏み出す――
その瞬間、全頭が固まった。
動かない。
まるで何かに魅入られたように、その瞳が虚空を見つめている。
「……なんだ……?」
アルヴィンが双眼鏡を覗いた。
次の瞬間、霧がひときわ濃くなり、“鹿”の角がゆらりと形を変えた。
枝分かれしていた角がねじれ、曲刀のような刃へと変質する。
表面が金属光を帯び、霧がその刃にまとわりつく。
「……あれは……? 幻影誘導……角の変質……?」
言葉の途中で、鹿が動いた。
霧を裂く速度。
視界から消えたと思った瞬間、
ヴァルグの一頭の喉が裂けた。
血が噴き、獣の身体が地面へ崩れ落ちる。
しかしそれは“始まり”にすぎなかった。
鹿の角の先端――
短い枝角が、弾けるように飛んだ。
霧を切り裂く、白銀の閃光。
それは弾丸のように正確に、ヴァルグたちの急所を貫いた。
喉、眼窩、側頭部、心臓。
連続して十発。
そのすべてが獣たちを即死させる急所だった。
シャープタイガーが吠え、飛びかかる。
巨体が霧を震わせ、獲物を噛み裂くはずだった――
鹿は動かない。
ただ、虎の突進を見つめていた。
虎の瞳が、揺らぐ。
次の瞬間――
虎は、自ら進んできた方向を失い、森林の空洞へぶつかって転倒した。
その首に、鹿の角が突き立つ。
「……信じられない……肉食……肉食の鹿……!」
ミルダの声は震えていた。
獣類学の常識が根底から覆る光景だった。
鹿――ミラージュ・デアは倒れたヴァルグの首元に顔を寄せ、肉を噛みちぎった。
草食獣の歯ではない。
肉を裂くために進化した鋭い歯列。
「……間違いない。
これは……幻鹿ミラージュ・デアだ……!」
その言葉と共に、彼らの視界が揺れた。
霧が歌うように揺れ、木々の隙間から金色の光が差す。
「……見える……森が歌ってる……」
「美しい……なんて美しい……」
「もっと……もっと近くで観察しないと……」
三人の学者は歩き出した。
まるで導かれるように。
ミラージュ・デアはゆっくりと背を向けた。
その歩みは静かで、優雅で、“ついてきなさい”と言わんばかりだった。
彼らは気づかない。
獣も人間も、すでにその“幻惑圏”に囚われている。
足元の霧が濃くなり、方向感覚は失われ、意識は森と同調していく。
三人は笑っていた。
研究の幸福に満ちて。
そして、自分たちが“保存食として選ばれた”ことをまだ理解していなかった。
霧の奥へ消えていく三つの影。
その上空で、ミラージュ・デアの角が白く輝いた。
森は静かに、獲物を迎える準備を整えていた。
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