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流転の國 vol.8 〜桜色の都の救世主〜  作者: 川口冬至夜


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18/63

⑰小さなナイフ

今、マヤリィの精神疾患が牙を剥く…。

ドアが開く。しかし、出てきたのはシロマではなかった。

「マヤリィ様…!此度は本当にお疲れ様にございました。桜色の都と砂の王国の協議は恙無く終了したのでしょうか…?」

「ええ。桜色の都に関してはもう何も心配ないわ。…けれど」

マヤリィはそう言って指を鳴らす。

「私が来た瞬間に『透明化』を発動するとはどういうつもりかしら、シロマ?」

その時、透明化魔術を解かれたシロマが姿を現す。

「申し訳ございません、ご主人様…!私には貴女様にお会いする資格などないのです…!」

シロマはマヤリィの前にひれ伏す。

「待って頂戴。その資格とやらを決めるのは貴女ではなく私よ」

マヤリィは言う。

「さぁ、顔を上げなさい。私は貴女と話をしに来たのよ、シロマ」

「っ…」

それでもシロマは躊躇ってしまった。

「これは命令なのだけれど、顔も見せてくれないと言うのなら仕方ないわね…」

マヤリィはそう言うと、アイテムボックスから小さなナイフを取り出した。

「マヤリィ様…!?」

少し離れた場所から見ていたクラヴィスが戸惑いの声を上げる。…マヤリィは、シロマにナイフを向けているわけではない。

「ごめんなさいね。私、病気のせいで今とても精神(こころ)が不安定なの。…でも、こうすればおさまるから」

マヤリィはその場に座り、自分の左手首にナイフを当てると、迷いなく切り裂いた。

直後、彼女の膝の上に血が滴り落ちる。

「もう一本、線が必要ね…」

そう言いながら最初に切ったすぐ横にナイフを滑らせる。切れ味の鋭いナイフは容易くマヤリィの肌を切り、流れる血は彼女の服に染み込んでいく。

「マ、マヤリィ様、おやめ下さい…!」

呆気にとられていたクラヴィスがようやくマヤリィからナイフを取り上げようとする。しかし、マヤリィの手は固く握りしめられていた。無理に取ろうとすれば、身体を傷付けてしまうかもしれない。

なのに、

「ふふ、私を傷付けてもいいのよ?今なら私を切っても罪に問わないと約束するわ、クラヴィス」

マヤリィは微笑む。

「マヤリィ様…何をおっしゃっているのですか…!?」

クラヴィスにはマヤリィの言葉が理解出来ない。

「そうね…。シロマの部屋を汚すのは本意ではないから、第4会議室に行きましょうか」

「っ…」

マヤリィが膝の上で手首を切ったのも、血で部屋を汚さない為だったのだとクラヴィスは気付く。

「待っているわよ、シロマ」

返事も聞かずにマヤリィはクラヴィスを巻き込んで『空間転移』した。


「ここなら心置きなく切れるわね…!」

完全に常軌を逸しているマヤリィを前に、クラヴィスは玉座の間のルーリに『念話』を送ろうとする。

が、

「『無効化』」

なぜかマヤリィは念話を使わせてくれない。

「マヤリィ様…!」

「…クラヴィス。シロマが来るまで私に付き合いなさい。自傷行為はここからが本番よ」

マヤリィはジャケットを脱ぐと、ワイシャツの袖を捲った。そこには、ナイフで切ったと思われる傷痕が幾つも残されている。

「マヤリィ様…!貴女様が常に長袖をお召しになっている理由が分かりました…」

とんでもないことに付き合わされているクラヴィスはそれしか言えなかった。

「傷は脚にもあるのだけれど…さすがに貴方に見せるわけにはいかないわね」

マヤリィと夜をともに過ごすことのあるジェイやルーリは知っている。彼女の脚の所々に残る傷痕を…。

「…クラヴィス。巻き込んでしまって悪いけれど、シロマが私の顔を見る気になるまで自傷(これ)を続けるわ。…寂しいから、一緒にいて頂戴」

マヤリィは手首を切りながら優しい微笑みを浮かべている。

「それにしても、シロマはどういうつもりかしら。私はただ話がしたかっただけなのに…。今の段階では、私との対話から逃げたという判断をするしかないわね」

このままシロマが対話を拒否しつづければ、マヤリィは彼女を罪に問わなければならなくなる。

「…シロマを罰するなんて、そんなことしたくないのに」

また切り傷が一つ。

第4会議室の床に血が滴り落ちる。

「マヤリィ様…痛みは感じられないのですか…?」

クラヴィスはやっとの思いでそう訊ねると、再びマヤリィのナイフを狙うが、失礼のないようにと気遣った結果、今度も失敗に終わる。

「貴女様は人間でいらっしゃいますよね?皮膚を傷付ければ痛みを伴うはずなのに…」

何度も手首を切っているにもかかわらず痛そうな顔一つしないマヤリィだが、

「そんなの…痛いに決まっているでしょう?」

微笑みを絶やすことなく答える。

「凄く痛いわ。今すぐ手を止めたいくらいにね。…けれど、それ以上に心が痛いの。身体の方に集中しないと、どうにかなってしまいそう」

「マヤリィ様……」

(どうしたらいい?こんな時、ジェイ様やルーリ様だったらどうなさるだろうか?)

クラヴィスは考える。

「痛い…。でも、私はまだ生きているわ」

彼女のワイシャツは血塗れになっている。

(とにかく、一刻も早く止めなければ…!)

クラヴィスはマヤリィの身体に触れることさえ出来ないが、今は緊急事態。目の前にいるのは主であり、女性だが、失礼な行為と見なされても止めなければならないと覚悟を決めた。

…クラヴィス、遅い。

「失礼致します、マヤリィ様!」

その刹那、クラヴィスはマヤリィを押し倒した。

「クラヴィス…!」

マヤリィは手を滑らせ、ナイフを床に落とす。

「痛い…!」

「も、申し訳ございません!!」

反射的に謝るクラヴィス。

「貴方のせいではないわ。私が…切りすぎたの」

しかし、マヤリィを押し倒したクラヴィスの手はしっかり彼女の手首をおさえている。

「血を止めないと…!」

クラヴィスはシロマの部屋でマヤリィが自傷行為を始めた時から、頭の中はずっとパニックだった。こんなことは初めてだし、いきなり第4会議室に転移させられるし、念話は使えないし、途方に暮れて立ちすくんでいたのも無理はない。

「…もういいわ。ごめんなさいね、クラヴィス」

マヤリィがそう言った瞬間、

「姫…!!」

突然ジェイが転移してきた。

「ジェイ……」

そこには、血塗れのマヤリィと、彼女を押し倒したクラヴィス。

「ジェイ様…!申し訳ございません!こ、これはマヤリィ様を止める為に…」

「分かってるよ、クラヴィス。…ご苦労だったね」

必死でこの状況を説明しようとするクラヴィスを安心させる為にジェイは優しく微笑みかける。そして、マヤリィを抱き上げ、第4会議室に設置されている簡易的なベッドの上に寝かせた。

「姫…つらかったんですね……」

「ジェイ…ごめんなさい……」

マヤリィの瞳に涙の粒が光る。

「謝らないで下さい、姫。貴女は何も悪くありません。貴女の身体を傷付けたのは全て病気の仕業です」

ジェイは手際よく応急処置を施しながら、マヤリィに声をかける。

「ジェイ…私……」

マヤリィはそう言いかけて、涙を流す。

「よければ話を聞かせてもらえますか?…でも、言いたくないことなら言わないで下さい」

「…………」

彼女が黙り込んでいる間にもジェイの治療は続く。

「はい、とりあえずはこれで大丈夫です。…服はどうしますか?衣装部屋に行く元気は…ないですよね」

「ええ。とても行けそうにないわ」

マヤリィは力なく微笑むが、普通に話せるようになった。

ジェイが来てくれた。ジェイが手当てしてくれた。ジェイが傍にいる。その安心感が彼女の心を穏やかにさせた。

「…クラヴィス、僕が良いと言うまでこっちを見ないでくれ」

「は、はいっ!畏まりました、ジェイ様!」

放心状態で棒立ちになって二人を見ていたクラヴィスは慌てて返事をする。

「あちらを向いております!次のお言葉を伺うまでは決して振り向きません!!」

「…うん。それでいい」

ジェイは確認すると、ゆっくりとマヤリィのワイシャツを脱がせ、アイテムボックスから取り出したタオルで血の付いた身体を拭いた。

「もう少し落ち着いたらシャワーを浴びて下さい。それまではこれを……」

ジェイが次に取り出したのはワンピースだった。彼のアイテムボックスにはマヤリィサイズの服が何着か常備されているらしい。

「ありがとう、ジェイ。…それにしても、なぜ袖無しを選んだのかしら?」

「キャミソールワンピースは嫌いですか?」

「嫌いではないけれど…」

「ならば、着て下さい。包帯が気になるかもしれませんが、長袖だと傷を刺激する恐れがありますので」

「…分かったわ」

実を言うと、マヤリィはそういう服を着たことがなかったから、少しばかり躊躇ったのだ。

「…ほら、似合いますよ、姫」

血に濡れた服を全て脱ぎ、キャミワンピに着替えたマヤリィ。それは光沢のあるサテン生地で、色はブラック。丈が長いので脚の傷を隠すことが出来る。

その間、クラヴィスには会話しか聞こえなかったが、

(ジェイ様が…マヤリィ様のお着替えを手伝っている…!?)

内心とても動揺していた。


「…では、クラヴィス。最後通告よ」

その後、半袖のカーディガンを羽織ったマヤリィはクラヴィスに命じた。

「念話でシロマを呼んで頂戴。私に絶対の忠誠を誓うならば、第4会議室に来るようにと」

ジェイに支えられながらマヤリィは言う。

「どうしても私と話をしてくれないと言うのなら、シロマを流転の國から追放するわ」

他に何と言って良いか分からず、マヤリィは即席の『罰』を口にした。

しかし、それを聞いたクラヴィスは顔色を変える。

「か、畏まりました、マヤリィ様!至急、第4会議室に転移するようにと伝えます!!」

シロマの態度が寂しくて、顔を見せてもくれないのが悲しくて、自分を追い詰めてしまったマヤリィ。

彼女は傷の痛みを感じながら、ジェイに『念話』で話しかける。…甘えた声で。

《ジェイ、私から離れないでね。話が終わるまで、第4会議室にいて頂戴》

《分かりました、姫。今度こそ無理はしないで下さいね》

「こうすればおさまるから」

と言いつつ、自傷を繰り返すマヤリィの手は止まらない…。


クラヴィスやシロマの前で病気の片鱗が表れるのはこれが初めてかもしれません。

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