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青い光と赤い影 ―9月20日の選択―

作者: 博 士朗

この作品はフィクションです。登場する人物・団体・催事・病名は架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

現代社会に潜む「情報操作」「医療の光と影」「個人の選択」というテーマをもとに、一夜の物語として描きました。

単発読み切りですが、最後まで読んでいただければ幸いです。

プロローグ 二つの扉

 ――明るい話から聞きたいか? それとも、暗い話から聞きたいか?

 独立系ジャーナリスト・中尾広務は、いつものようにパソコンの前に腰を下ろし、カメラの赤いランプを見つめた。深夜の簡素な自宅スタジオ。背後には本棚と積み上げられた資料の山。彼の番組は、大手テレビ局の華やかさとは無縁だが、数万人の視聴者がリアルタイムで接続している。

 彼の問いかけに、コメント欄がざわめく。

 「明るい方から!」

 「いや、暗いニュースの方が先だろ」

 「どうせ両方聞かされるんだろう?」

 中尾は口元にわずかな笑みを浮かべる。視聴者は彼が何を語るのか知っている。希望と絶望を、交互に突きつけるのが彼のやり方だった。

 「じゃあ、今日は明るい話から始めよう。」

 そう言って彼は机の上の資料を手に取った。9月20日に開催される未来医療公開シンポジウム。一部の医療関係者や富裕層の間で密かに話題となっているイベントだ。そこで発表されるのは、死者を蘇らせるかもしれない――いや、実際に臨床レベルで成功しつつある技術だと囁かれている。

 名は「メゾベッド」。

 科学の粋を結集した再生医療装置。細胞死の直前にある組織を分子単位で修復し、臓器を蘇らせる。理論上は、心停止から数時間経過した人間すら再生可能とされる。もし本当なら、人類史を覆す大発明だ。

 「金さえあれば、死から戻れる世界になる。」

 中尾の声は少し震えていた。興奮なのか、それとも恐怖なのか、自分でも判別できない。

 視聴者のコメント欄が爆発する。

 「不老不死ってことか?」

 「また金持ちだけが助かるのか」

 「庶民には一生触れられないだろ」

 中尾は首を横に振る。

 「俺もそう思う。ただ、これが人類に希望をもたらすのか、あるいは支配の道具になるのか――そこが問題だ。」

 一呼吸置き、彼は画面に映像を切り替えた。アフリカのジャングル地帯で撮影された映像。現地の医療スタッフが防護服を着て、血を流す患者を必死に運んでいる。

 「さて、次は暗い話だ。」

 彼の声は低くなり、部屋の空気が変わる。

 「コンゴ周辺で再びカルマ熱(Karma Fever)が流行し始めている。だが、これは自然発生じゃない。致死率は九割、そして感染力は新型コロナの二百倍から三百倍。生物兵器として改造されていると、俺の情報網は告げている。」

 画面には赤茶けた病院の廊下で、次々と倒れる人々の姿が流れる。鼻や口、眼窩から血が滴り落ち、地面を赤く染める。

 コメント欄は一瞬で凍りついた。

 「嘘だろ……」

 「これ、報道されてないぞ?」

 「フェイクじゃないのか?」

 中尾はマウスを握りしめ、画面を切り替える。

 「大手メディアが報じないのは、理由がある。背後で糸を引いているのはディープステートだ。名前を聞いたことがあるだろう。国際的な闇の権力。ゲイル・バーナードもその一角にいる。」

 机の上の資料をめくり、彼はあるページを示す。そこには日本の政界の有力者、石上誠司と、公民党の斎藤の名前があった。

 「二人は、ゲイル・バーナードと密約を交わした。内容は――日本人を五百万から六百万人削減するという計画だ。」

 空気が重く沈む。彼の言葉は、狂気じみて聞こえるかもしれない。しかし、中尾の語りには異様な迫力があった。視聴者は否応なく耳を傾ける。

 「理由は単純だ。年金の財政負担を軽くするため、そして外国人労働者を受け入れるためだ。冷酷だが、計算は合っている。だからこそ怖いんだ。」

 彼は深く息を吸い、吐き出す。

 「9月20日――未来医療公開シンポジウムでメゾベッドが発表される日と、エボラ対策ワクチンの接種が始まる日が重なる。偶然じゃない。選ばされるんだ。俺たちは。」

 その瞬間、窓の外で犬が吠え、彼は無意識に身をすくめた。誰かに監視されている感覚が離れない。匿名の支援者――アメリカの元大統領や、テック界の巨人からの暗号メッセージが届くたびに、彼は自分が標的になっていることを実感していた。

 「この話を信じるかどうかは、君たち次第だ。だが、覚えていてくれ。テレビが伝える明るいニュースの裏には、必ず隠された暗い真実がある。」

 配信終了ボタンを押す直前、彼は画面の視聴者に向かって呟いた。

 「9月20日――その日、君の選択が未来を決める。」


第1章 迫り来る光と影

 配信を切ったあと、部屋には冷蔵庫のモーター音だけが残った。中尾広務は椅子の背にもたれ、天井のコンクリートの亀裂を見た。長く伸びる一本の線が、いま語った二つの物語――明るい話と暗い話――を、無造作に割りつづけているように見える。

 スマホが震える。匿名のメッセージアプリの通知。「検証用の素材、投げた。例の講座の講師、信じたい人間だが、背後関係は洗った方がいい」。送り主のアイコンは、砂漠を走る風の写真だ。彼は返信を打とうとしてやめた。未明の頭は、言葉を選びきれない。

 窓の外で、配達トラックのバック音が三回鳴った。眠気をごまかすために台所へ立ち、うすいコーヒーを淹れる。湯気の向こうに、メゾベッドの資料がにじむ。角が丸くなった紙には、難解な言葉と図表がのたうっている。細胞死の逆回転。微小環境の再構築。臓器の電気的リズムを取り戻すための、微細な刺激。

 「もし本当なら、だが」

 彼は自分に言い聞かせる。希望の物語は、いつだって眩しすぎる。見る者の瞳孔を開かせ、影を見えなくする。光のコントラストが強いほど、暗部には何かが潜む。

 朝になって、街は何も知らないふりで動き出す。駅前のスクリーンがニュースを流し、見出しが音もなく踊る。

 【速報】アフリカ中部で出血性熱の疑い 医療体制ひっ迫

 【特集】第二の人生を取り戻す細胞再生の最前線

 対照的なテロップが、スクリーンの左と右で交互に流れ、通勤する人々の顔に淡い光を投げる。誰も立ち止まらない。立ち止まらないことこそが、都市の礼儀であり、鎧であり、儀式だ。

 新宿西口の喫茶店で、中尾は取材相手を待った。待ち合わせ時刻の五分前、女は来た。黒いマスク、落ち着いた紺のスーツ、指先だけがかすかに震えている。

 「仮名でお願いします。宮本で」

 彼女は名刺を差し出さなかった。病院技術部――臨床検査の現場だとだけ名乗った。

 「昨日の配信、観ていました」

 声は低く、言葉を確かめるようにゆっくりと出た。

 「ありがとうございます」

 中尾はノートを開く。

 「メゾベッドの件で?」

 宮本は、短く首を振った。

 「エボラのほうです。……うちに、今月からある手順の訓練マニュアルが下りてきた。感染症の標準手順に似ているけれど、妙に具体的で、早い。しかもワクチンの在庫枠だけ先に押さえる指示。ロジが動いているのに、広報は静か。逆なんです、本来は」

 中尾はペンを止めた。

 「正式な病名は?」

「疑いまで。コードは付いていたけれど、一般公開されていない。現場で流れるのは、番号だけ」

 彼女はレシートの裏に四桁の数字を書いた。

 「このコードで、物資が優先されます。防護具、点滴、鎮静。それと……」

 彼女は言葉を切り、視線を落とした。

 「眼帯」

 「眼帯?」

 「出血の保護と、視覚刺激の遮断。患者が自分の出血でパニックにならないように。そんなこと、訓練で初めて聞いた。コロナでもなかった」

 店内の音楽が唐突に止み、次の曲に切り替わるまでの無音が落ちた。空白の一秒が、会話の輪郭を濃くする。

 「あなたは、それを意図的なものだと思う?」

 中尾の問いに、宮本は即答しなかった。かすかに笑い、氷の溶ける音を聴いた。

 「現場の人間は、証拠より先に匂いで動くことがあるんです。匂いがします。嫌な匂いが。……ただ、それが誰の手の匂いかは、まだ」

 彼女は小さく肩をすくめた。

 「メゾベッドの講座、行くんでしょう?」

 「取材申請は出してある」

 「なら、見てきてください。奇跡は、時々片側だけを救います。現場は、両側を見なきゃいけない」

 会計を中尾が申し出ると、彼女は静かに頭を下げ、店を出た。扉が閉まると同時に、店内のざわめきが戻る。日常は、他人の不穏を容赦なく吸収して、いつもの時間割に組み替える。

 歩道橋の上で風が強くなり、紙の資料が一枚、手から滑り落ちた。追いかけて掴む。そこにはメゾベッドの模式図が印刷されている。微細な刺激電極が網のように臓器を覆い、極低温と栄養浴、そして時間の窓を制御する装置。生のリズムが、きちんとした技術の手で、もう一度組み直されるように描かれている。

 「時間を戻すベッド、ね」

 彼はつぶやく。

 救いの装置は、いつから装置であることをやめ、制度になるのか。制度になった瞬間、それは物語を選び始める。誰を蘇らせ、誰を蘇らせないか。誰の時間を継ぎ、誰の時間を打ち切るのか。明るい話は、光の当たる面の描写に長ける。一方で、影の形は誰も書かない。書かないことが、時に社会の合意なのだ。

 午後、中尾は編集用の小さなオフィスに戻ると、端末を立ち上げ、匿名のクラウドにアクセスした。新着が三件。ひとつは、海外の非政府組織(と名乗る団体)の内部資料の切り抜き。もうひとつは、国内の広告代理店の提案書。最後のひとつは、地方局の報道デスクからの音声だ。

 彼は音声を先に再生した。

 ――うちに、来週の特集枠が降りてきました。テーマは「再生医療の夜明け」。メゾベッドの映像はすでに提供済みで、コメントも指示書付き。エボラの件は触れるな。もし触れるなら距離を置く。

 ――誰の指示?

 ――うちの上の、そのまた上。スポンサーの上。名前は言えません。ただ、広告の差し替えが一気に決まった。新聞も同じ動きのはず。

 ノイズが走り、通話は切れた。

 中尾は椅子に背を預け、目を閉じる。胸の内側で、古い傷が疼く。十年前、彼は「触れるな」と言われた事件に触れて、番組を降ろされた。明るい話の裏側に、暗い話があるわけじゃない。明るい話こそが、暗い話の通り道になるのだ。人は光を求める。そこに誘導路を敷けば、群衆は迷いなく進む。

 モニターの別ウィンドウで、広告代理店の提案書を開く。

 【秋の大型キャンペーン案】

 ・タグライン:「生まれ直す勇気を、科学で。」

 ・連動番組:情報ワイド特番(120分)

 ・タイアップ:ライフスタイル誌×医療特集号

 ・KPI:認知率、態度変容、予約登録数

 表紙の隅に、小さく条件が記されている。「関連する感染症報道を連動させないこと」。

 中尾は無意識に笑っていた。巧妙さに対する、敗北の笑いだ。明るい話は、単独で輝くのではない。暗い話の影を、見えない位置に固定することで輝く。作為は、光の裏でも影の中でもなく、舞台照明の調整卓にいる。

 最後に、海外団体の内部資料に目を通す。配分表、為替の記録、映像制作のブリーフ。戦場と貧困の映像を「短く、鮮烈に」「同情的ではなく、能動的に」編集する指示。支出科目には「コア・パートナー ニュースネット」とある。具体名の欄は黒塗りだった。

 中尾はスクリーンショットをいくつか撮り、暗号化してクラウドに戻す。素材は素材だ。ここから先、物語にするには、事実の芯を穿たなければならない。誰が、何を、いつ、どのように、そしてなぜ。ジャーナリズムは、祈りで始まらず、問いで始まる。祈りが必要になるのは、問いが尽きたあとだ。

 夕暮れ、彼は神田の小さな会場へ向かった。九月二十日の講座の前夜祭的なシンポジウムがあるのだと、招待メールにあった。会場は古いビルの五階。狭いエレベーターの壁に貼られたチラシには、光の束に横たわる人物のシルエットが印刷されている。

 受付で名を告げると、バッジと薄い冊子が手渡された。

 「本日は録音・録画をご遠慮ください。公式映像は後日公開いたします」

 事務的な笑顔の裏で、スタッフの目は鋭い。

 ホールに入ると、壇上には銀色の台。布で覆われたその形は、ベッドそのものだった。観衆は三百人ほど。医療関係者らしき白衣の胸元がちらほら。スーツの列には、どこかで見た顔も混じっている。

 開会の挨拶は短かった。続いて登壇したスペシャリストは、想像より若く、声は驚くほど穏やかだった。

 「私たちは、死の定義を更新しつつあります。心停止や脳の電気活動の消失だけではなく、復帰可能性という軸を加えること。メゾベッドは、失われつつあるリズムを、もう一度窓のなかへ引き戻す試みです」

 スクリーンに、臓器の表面を流れる微細な波が映る。波は一度、平坦になり、やがて弱い鼓動に戻る。会場の空気が、かすかに熱を帯びた。

 スペシャリストは続ける。

 「もちろん、これは万人の不死ではありません。限界はあります。適応の問題、費用の問題、そして倫理の問題」

 倫理という単語が発せられた瞬間、前列の数人が同時に姿勢を正した。中尾はその動きを見逃さなかった。倫理という言葉は、しばしば招待状の裏面に印刷されるべきだ。入場条件そのものなのだから。

 質疑で、中尾は手を挙げた。

 「今日のお話は刺激的でした。質問は二点。ひとつは、適応が誰に開かれるのか。もうひとつは、九月二十日という日付に、偶然以上の意味があるのか」

 会場が少しざわつく。スペシャリストはわずかに目を細め、笑んだ。

 「前者は、医療資源の配分の問題です。医学的適応と社会的合意、そのあいだを、私たちは橋でつなごうとしています。後者については――日付は、たまたまです」

 たまたま。

 たまたまという言葉は、火事場で見かける水のバケツに似ている。あると安心だが、火を消したあとに残るのは、黒く濡れた床だけだ。

 閉会の拍手が起きる前、彼のスマホが震えた。新着のニュース速報。

 【速報】国内空港で出血性熱の疑い 海外渡航歴あり 検疫強化へ

 画面の明かりが暗がりに点々と灯り、観衆の何人かは即座に通知を隠した。中尾は隠さなかった。光をもう一度、真正面から見る。

 明るい話と暗い話は、いつでも二択ではない。

 たいていの場合、それらは同じ扉の両面に印刷されている。

 扉は、九月二十日に開く。

 誰が押し、誰が引くのか。その手の温度を、彼は確かめにきたのだ。


第2章 ディープステートの影と密約

第1節 黒塗りの行間

 夕方の神田の雨は、舗道の活字をにじませる。中尾広務は古い活版印刷所の裏にある小さなコワーキングに入り、共有ロッカーから封筒を取り出した。差出人は不明、投函ボックスの底に転がっていたものだ。封筒の口はすでに一度開かれ、また丁寧に糊付けされている。

 中身はコピー三枚。官庁書式の表、項目名の列、そして――黒。ほとんどが黒塗りだ。だが塗り潰しの境目から、かろうじて残った語が読めた。

 「……特例……日程……広報一体化……相殺……」

 中尾は読み取れた断片をノートに転記し、間を想像で埋めないように赤ペンで斜線を引いた。情報の空白は、しばしば人の恐怖を呼び込む。恐怖は推測を膨らませ、推測は証拠の顔をして歩き出す。

 机の端でスマホが震えた。メッセージアプリの匿名アカウント〈風間〉だ。

 ――黒塗りの原本、入手先は聞かないで。行間にメモが挟まってる。光にかざせ。

 ――了解。検証する。

 ――同封の写真、EXIFは消してあるけど、写り込みを見る価値はある。

 写真は、一枚の会食テーブル。ホテルの個室、白いクロス、薄いワイングラス。反射面に微かな人影が伸び、窓の外には霞む夜景。人物ははっきり写っていない。だが、机上の卓上カレンダーの二十日に赤丸が重ねて三重に引かれている。

 中尾はルーペを取り出し、カレンダーの小さな余白に細字で書かれた二文字を拾った。〈調整〉。それだけ。

 彼は深呼吸して、もう一度黒塗り文書をめくった。ページ下部、会計の欄にだけ黒が薄い箇所がある。「広報枠買付」「番組編成協力」「寄附(指定)」。金額は読めない。だが右端の桁の0が規則的に並ぶ形で、異様な桁数のリズムをつくっている。

 光と影は、照明の盤上で同時に決まる――午前中に思い至った比喩が、紙面の黒に重なった。

 彼は封筒の底から、薄いメモ片を取り出した。透かし紙の極薄。光にかざすと、筆圧の跡が浮かび上がる。

 「適応の線引き、誰が引く?」

 倫理の文字を聞いた講堂の景色が脳裏に戻る。倫理は入口に印刷されるべきだ、と彼は考えた。だが、現実では出口に貼られることが多い。通り抜けたあと、振り返った者にだけ読めるように。

 彼は独り言のように呟いた。

 「九月二十日は、偶然じゃない。偶然に見せる日付指定だ」


第2節 GHAという名の仮面

 夜、築地の小さなバーで、古参の広告マンと会った。名刺にはプランニング・ディレクターとあるが、実体は政局と広告の接点を歩いてきた生き字引だ。

 「昔はね、世論は波だった。いまは配管だよ。蛇口の位置を決める仕事、って言えばわかる?」

 男はライムをナイフで切りながら、淡々と言った。

 「配管?」

 「蛇口を捻れば出るように、映像が流れてくる。汲み上げる井戸は別にある。GHAはその一つだ。グローバル・ヒューマニティ・エイド。海外支援の看板で、映像を作り、流す。支援そのものが嘘だとは言わない。だが、どの蛇口に繋ぐかは彼らが決める。国境の内と外――どちら側の蛇口を開けるかもね」

 男はポケットから折り畳まれた紙を取り出し、カウンターに広げた。フローチャート。制作ブリーフから放映枠、SNSバズ用の火種アカウント、そしてメジャー媒体への再放送。矢印の先に、小さく〈指定寄附〉の注記。

 「ここ、見て。『感染症報道と重ねない』。広告のタイミングにルールがある。重ねれば人は疲れる。疲れれば、蛇口から出る明るい話を多めに飲みたくなる。だから――重ねない」

 中尾は思わず笑った。

 「つまり、照明卓の手前に配管室があるわけだ」

 「そう。で、誰が切替ハンドルを持ってるかは、君の方が詳しいだろう」

 男はそれ以上は言わず、グラスの水滴をコースターに移した。

 「メゾベッドは、悪じゃない。むしろ善の可能性だ。だが、善はしばしば政治のコインにされる。表が希望、裏が管理。どちらの面を上にして配るかで、同じコインが違う価値を持つ」

 「ワクチンは?」

「医療の現場で必要なもの、という前提から話すべきだ。正しく設計され、検証され、適切に使われるべきだよ。問題は、誰がその正しさを語る許可を握っているか、だ」

 帰り道、雨は細くなり、晴れ間の手前のような匂いがした。中尾は橋の上で立ち止まり、暗い川面に映る街の光を見た。配管、照明、コイン。比喩が増えるたび、現実の手触りは遠のく。遠のくたびに、彼は気をつけた。比喩に寄りかかりすぎると、事実の骨が折れる。

 ポケットの中で、もう一台のプリペイド端末が震えた。表示は〈宮本〉。

 「救急から。検疫強化の報が現場にも回りました。空港だけでなく、主要駅にも。訓練名目で動員がかかっています」

 彼女の声は淡々としている。

 「ワクチンの配布計画は?」

 「準備段階。研究班の説明会資料をちらっと見た。『緊急活用時のコミュニケーション』って章が太字だった」

 「副反応や安全性の説明?」

 「そこも当然あった。私はそのあり方自体が大事だと思う。でも、章立ての順番が、少しだけ気になった」

 彼女は続けた。

 「現場は、目の前の命を守る前提で動く。それは変わらない。だからこそ、上流の伝え方がどこに繋がっているかを、あなたに見てほしい」

 電話が切れると、風が一段強く吹いた。川面の光が乱れ、すぐに元に戻った。乱れは一瞬、秩序は長い。だが、長い秩序にも継ぎ目はある。そこが扉だ。


第3節 偶然を設計する

 翌朝、永田町の喫茶室はいつも通り静かだった。時計の金属音、新聞紙の擦れる音、黒スーツが交わす目配せ。中尾は古い政治記者・五十嵐に会った。五十嵐は両手の節が太く、紙をめくる所作が遅い。

 「日付は偶然に見せるのが一番手間がかかる。わざとバラバラの会議体で話を進めるんだ。政策評価会議、公的資金の第三者チェック、広報の事前調整――どれも別の建物、別の参加者。だが、最後にカレンダーを見る手は同じだ」

 五十嵐は砂糖を二つ入れ、スプーンを置いた。

 「黒塗り文書、見たかい?」

 「見た。断片だけ」

 「断片だけでいい。断片が揃いすぎていたら、それは誰かが用意した全体像だ。君が信じるべきなのは、合わないネジの方だよ」

 五十嵐は、封のしていない白封筒を差し出した。中には、古びた政局カレンダーのコピー。欄外に鉛筆で書かれたメモがあった。〈二十日 民間・大学・広報横串〉。

 「この横串って」

 「省庁をまたぐって意味だ。横断の紐。これが引けると、たいていの偶然は滑らかに起きる。誰も決めていないのに決まる、ってやつさ」

 五十嵐は笑い、急に真顔になった。

 「覚えておいて。誰かを悪役にして終わる物語は、政治じゃない。政治は、責任が薄く広がる構造のことだ。君が追うべきは、個人の悪意じゃなくて、個人を無害化する仕組みの方だ」

 喫茶室を出ると、陽が差していた。空気はまだ湿っているが、乾きの兆しが混じる。中尾はビルの影を踏み、地下鉄の階段を降りる。

 ホームに降り立つ直前、見慣れぬスーツの二人連れが、反対側の階段に消えるのが見えた。視線の角がこちらに触れる。彼は歩調を崩さない。監視は証拠の一種だ。気づかせる監視は、告知だ。

 電車の窓に映る自分の顔の向こうで、ニュース速報が流れる。

 【特集予告】「再生医療の夜明け」本日二十時放送/専門家が語る命のセカンドチャンス

 タイミングは完璧だった。検疫強化の速報から、一晩。人は一晩で不安に飽き、別の扉を探す。二十時、その扉が用意される。

 オフィスに戻ると、〈風間〉から新着だ。圧縮ファイルと短いメモ。

 ――GHAグローバル・ヒューマニティ・エイドの年度計画から切り出し。該当頁のみ。連携先の固有名詞は黒塗り。だが、枠取りの時間帯に注目。

 ファイルを解凍し、該当ページを開く。表には「第一四半期:夜帯」「第二四半期:朝帯」の丸印、そして未来医療公開シリーズ 先行露出の文字。欄外に小さく〈感染症報道と重ねない〉。昨夜バーで見たフローチャートの文字版だ。

 中尾は机の端に置いたメトロノームを指で弾き、リズムを聞いた。タッ、タッ、タッ――。

 リズムを設計できる者は、選択のタイミングを設計できる。選択のタイミングを設計できる者は、人の自由の輪郭を削ることができる。自由はゼロか一ではなく、帯域であり、幅であり、窓だ。窓は、九月二十日に設定されている。

 ディスプレイの隅で、未読メールが点灯した。件名は「講座・取材申請 可否について」。開くと、短い文面が待っていた。

 ――ご関心に感謝します。席に限りがあるため、今回はご遠慮ください。公式映像を後日お送りします。

 拒否だ。だが、拒否の文面はいつだって裏口の存在を示す。裏口は必ずある。中尾は電話帳の奥から、久しく連絡していない名を探した。

 〈海江田〉――元・大学事務局の便利屋。

 電話は二回のコールで繋がった。

「中尾くん、久しいね。何、二十日の件か」

 「入れる道は?」

 「裏口は、たぶん正門の横にある。『関係者ではないが、関係上入れないと支障が出る人』用の名札がね。名前は当日、手書きで。君の名前をそこに書くには、僕に一つ頼みがいる」

 「何でも」

 「終わったあとに、現場の学生の声を拾ってくれ。善でも悪でもない、彼らの困惑を」

 「約束する」

 通話を切り、彼は椅子の背にもたれた。窓の外に薄い青が広がる。

 九月二十日は偶然の顔をしてやってくる。

 だが偶然を設計する手は、どこかにある。

 個人を悪役にして終わらせないために、彼は手の形を描こうとしている。骨と筋、腱と皮膚、指紋の渦まで。

 描き切れたとき――たぶん、誰も名前を呼ばない。

 それが構造という名の敵の、もっとも厄介なところだ。

 机の片隅で、メトロノームがまだ鳴っている。タッ、タッ、タッ――。

 彼はそれを止めず、モニターに向き直った。

 第3章 ワクチンという名の罠(仮題)――と、画面のプロジェクトに新しい見出しを打ち込む。

 罠と断じるには、まだ検証が足りない。

 だが、扉があるなら、先に足をかけるのが記者の仕事だ。

 踏み込む一歩が、誰かの自由を狭めないように――その祈りだけは、入口に貼っておく。


第3章 ワクチンという名の罠

第1節 同意のフォーム、設計の指

 午前の光が、オフィスの白い壁を浅く撫でていた。中尾広務は〈宮本〉から届いた圧縮ファイルを解凍し、「緊急活用時のコミュニケーション」という名のスライドに目を落とす。

 表紙には柔らかな青。脅威の色ではない。安心の色だ。次のページは、三行の原則で始まる。

 ――最初に「安心」を、次に「必要」を、最後に「詳細」を。

 ――予約は既定値デフォルトに。変更の自由は残す。

――副反応説明は「頻度→対処→連絡先」の順。

 既定値。

 それは告知の小さな仕掛けだ。人は既定値を変更しない。たとえ自由が用意されていても、忙しさと不安は、行動を初期設定に預ける。

 次のページには、接種会場の導線図。入口での案内、同意書の記入、予診、接種、経過観察。どこにも嘘はない。だが、導線の上に添えられた吹き出しに、彼は指を止めた。

 「説明の順序で不安を上げない」

 「拒否の言葉を相手に作らせない」

 「迷う時間を長くしない」

 ――罠、という言葉を使うのは簡単だ。

 中尾はメモにそう書き、すぐ線で消した。

 罠は「相手を落とす穴」だ。ここに描かれているのは、穴ではない。傾斜だ。なだらかで、滑らかな、転ばないようによく整えられた下り坂。

 坂を降りる人は、自分の足で降りる。誰も背中を押していない。だから自由は保持される。保持されたまま、望ましいほうへと運ばれる。

 スライドの末尾に小さく「外部広報との整合」という章があり、番組表の切り抜きが貼られていた。「再生医療・命のセカンドチャンス 特番/20:00~」。昨日、電車内で目にした予告だ。

 もう一つ、別のPDFが同梱されている。「Q&A想定集」。

 〈Q:副反応が心配です〉

 〈A:ご不安は当然です。ほとんどの方は軽度で……〉

 ほとんどの方という枕詞に、彼は下線を引いた。統計は本当だろう。だからこそ言葉は滑らかだ。

 最後のページ。「同意書(案)」。

 氏名欄、連絡先、既往歴、アレルギー。注意事項。問い合わせ窓口。

 末尾に、チェックボックスが二つ。

 □ 説明を受け、理解し、同意しました。

 □ 次回接種を予約します(変更可能)。

 既定値は、二つ目に薄くチェックが入っている画像だった。もちろん、これは「案」だ。だが、案はやがて仕様になる。仕様は導線になる。導線は日常になる。

 机の端でメトロノームが鳴る。タッ、タッ、タッ――。

 中尾は、スライドの淡い青を見つめながら、書き直したメモをそっと閉じた。

 罠という言葉では足りない。

 これは「選択の設計」だ。

 設計者が誰であるかを見抜くこと――それが、今回の核心だ。


第2節 体育館の導線

 午後、区立の体育館に臨時会場が組まれた。訓練、という名目だ。外には報道車。中には矢印テープと折りたたみ椅子。

 〈宮本〉は、白いビニールのガウンにフェイスシールドを付け、チェックリストを片手に立っていた。

 「導線、見ていきます。入口から十歩で安心の看板。あなたの選択を支える説明がありますって書く。真ん中に医師。最後に質問はこちらの机。『質問』を出口に置くのはダメ。迷いが出口で生まれると、足が止まって渋滞しますから」

 彼女の声は、疲れているのに澄んでいる。

 「同意書のところ、チェックボックスの既定値は?」

 中尾が尋ねると、宮本は首を振った。

 「ここでは入れません。案は案のまま。既定値を入れるなら、その理由と責任の所在を書かないと。私たちは現場。書かれていない責任は負えない」

 彼女は、机の角をぴしりと拭いた。

 「現場はね、納得してもらうことと安全に終えることが同時に必要なの。どちらかだけじゃ、誰かが傷つく」

 隣の机では、年配の男性が同意書をじっと見つめている。眉間に皺、手は小刻みに震える。

 「説明、読んだけど……」

 看護師が椅子を引き寄せ、ゆっくりと座る。

 「不安ですよね。どこが一番心配ですか?」

 「副反応が……昔、薬でひどい目に遭ったことがある」

 看護師は頷き、用語を避け、例えを使い、選択肢を並べた。

 「今日、打たないという選択もあります。『考えたい』でも大丈夫。次の予約はあとで変更できます」

 男性は深く息を吐き、ペンを持った。

 「……今日はやめます。娘に相談して、また来ます」

 看護師は笑った。

「お待ちしています。そのための会場ですから」

 導線は生き物のように、会場の温度で形を変える。

 外では、特番のプロデューサーがスマホで誰かと話していた。

 「はい、人々の選択を支える特集のトーンで。専門家の出演は二人。反対意見も入れます。バランスが大事なので」

 バランス。

 それは両論併記の別名でもあり、ときに「割り振り」の別名でもある。五分五分に見せるために、圧倒的多数の片側を切り落とすことも、バランスと呼ばれる。

 中尾は、その会話に割って入る気はなかった。現場の丁寧さと、画面の整え方が、必ずしも同じではないことを知っているからだ。

 会場の隅で、宮本がペットボトルの水を飲み、マスクの内側で小さく笑った。

 「あなた、罠って言葉が好き?」

 「便利だからね」

 「便利な言葉は、たいてい安全じゃない。現場は、言葉の安全性を測る余裕がない。だから、あなたが測って」

 彼女の目は、笑っていなかった。

 「もし設計があるなら、設計者の顔を。責任の所在を」


第3節 問いの順番

 夜、都心のカンファレンスルームで記者向けブリーフィングが開かれた。配布資料は薄いクリアファイルにまとめられている。表紙は、あの青だ。

 最初に登壇した広報担当は、滑らかな声で話す。

 「大切なのは、人々の選択を支える環境を整えることです」

 次に感染症の専門家が続く。

 「有効性と安全性の評価は、一次資料に基づきます。今日の資料も公開します」

 最後に、政策側の責任者が、淡々と「当面の方針」を読み上げる。予約の枠、会場の拡充、問い合わせ窓口の増設。

 質疑の時間。

 司会の女性がカードを見ながら、手を挙げた記者の所属を呼ぶ。いくつかの質問は、想定Q&Aに近い難易度で流れていった。

 中尾は、袖で〈海江田〉と目を合わせ、前列の端へ滑り込む。

 「次、そちらの……」

 司会の視線が一瞬泳ぎ、彼を刺した。

 「独立記者の中尾です。二点だけ、順番について伺いたい。

 ひとつ目。安心→必要→詳細という説明の順序は、合理性があると思う。一方で、その順序は『拒否するための言葉』を作りづらくする効果も持つ。説明の順序は、誰が、どの場で、どんな責任で決めたのか。

 二つ目。予約の既定値を『次回も予約』に置く案があると聞いた。既定値の設計は、自由の輪郭を変えうる。これを行政として採用するなら、合意形成の手順を示してほしい」

 会場の空気が、わずかに乾く。

 広報担当が口を開きかけ、政策責任者が先にマイクを取った。

「順番の設計については、コミュニケーション専門家と医療側の合同で検討しました。目的は人々が情報で疲弊しないことです。拒否するための言葉を奪う意図はありません。

 既定値の件は、現場に一任している部分があります。行政としての採用は、現時点では案に過ぎません」

 中尾は続ける。

 「現場に一任は、責任の所在をぼかす言葉でもある。現場の人たちは、書かれていない責任を負えない。既定値を置くなら、誰が、何に基づいて置くのか。署名は誰がするのか」

 司会が割って入ろうとした。

 政策責任者は短く頷き、言葉を選んだ。

 「そこは議論の途中です。あなたの指摘は、しかるべき場で共有します」

 ――途中、という言葉は、火を消す水ではない。

 ――火が移る先を、静かに変える言葉だ。

 中尾はマイクを置いた。彼の問いは、答えをもらうためだけのものではない。問いの順番が変われば、答えの形も変わる。設計の核心は、順番に宿る。

 ブリーフィングの終盤、スクリーンに短い映像が流れた。

 「生まれ直す勇気を、科学で。」

 メゾベッドの特番の予告だ。柔らかな青、光の粒、再生する波形。

 会場の誰もが、それを別件のように見ている。

 だが、別件のように見えるものほど、よく噛み合う。

 外へ出ると、秋の夜気が顔に触れた。

 〈風間〉からメッセージが届く。

 ――GHAの蛇口、二十日に全開。ニュース枠の裏取りOK。

 ――こちらも動く。

 返信を打つ前に、電話が鳴った。〈宮本〉だ。

 「一人、迷っていたおじいさん、帰り際に『ありがとう』って言った。何もしてないのに、ありがとうって。……これが現場の重さよ」

 彼女の声は、強く、少しだけ震えていた。

 「設計の指に、名前を付ける。必ず」

 「付けて。指には温度がある。冷たいのか、熱いのか、それだけでも違うから」

 通話を切ると、街の明かりがふっと遠のいた。

 九月二十日まで、あとわずか。

 ワクチンの是非をめぐる言葉は、今日も増え続ける。

 だが、中尾が追うのは、言葉の増減ではない。

 言葉の順番と、選択の傾斜だ。

 その傾斜が、自由の幅を削り取っていないか――

 確かめるために、彼はまた扉の前に立つ。

 扉の向こうで、青い光が静かに脈打っていた。


第4章 抵抗の狼煙とメゾベッドの選択

第1節 灯りとしての狼煙

 夜のオフィスに、メトロノームの音が静かに刻まれる。タッ、タッ、タッ――。

 中尾広務は、配信の下書きファイルを三つに分けた。「事実」「設計」「行動」。見出しは簡素で、言葉は尖らせない。狼煙は炎ではなく灯りであるべきだ、と彼は考える。燃やしても煙は上がるが、暗闇は照らせない。

 匿名の〈風間〉から新着が落ちる。添付は放送枠の内部メモ、三行の注記が太字で並ぶ。

 ――二十日二十時、メゾ特番。二十三分地点『共感波形』で最高潮

 ――同時刻、ニュース枠は軽めの好ニュースに差替

 ――感染症関連はテロップのみ、詳細は翌朝

 蛇口と照明。配管室の図面が文のかたちで送られてきたような気分になる。

 フランチャイズ拠点のチャットには、各地の小さな集まりの写真が次々と上がる。六畳の公民館、喫茶店の奥の席、貸し会議室の白い壁。「説明書の読み方ワークショップ」とプリントに印字され、同意書のチェックボックスに小さな付箋が貼られている。

 既定値は変更できる

 質問は出口でなく入口へ

 迷ってよい。迷う権利は権利の一部

 文字は黒、紙は白、付箋はやさしい黄色。派手さはないが、手触りがある。

 〈宮本〉から短い音声が届く。

 ――訓練の導線、さらに磨かれました。悪いことじゃないの。現場は混乱を嫌う。だけど、選択の〈傾斜〉が少し急になった気がする。温度で言うと、ぬるいお湯が一度だけ上がったみたいに。

 温度の比喩は、現場の感覚から出てくる。数値化は難しいが、体は嘘をつかない。

 中尾は、配信のラストに「今日できる五つのこと」を挿入した。

 1)説明は順番ごと記録する(写真・メモ)。

 2)同意書は空欄を恐れず、疑問点を自分の字で追記する。

 3)既定値に気づく。薄いチェックは指の温度。

4)質問は入口で。出口で迷いを作らない。

 5)自分と家族の迷ってよい範囲を書き出す。

 送信前、ふと迷う。これを「抵抗」と呼ぶべきか。言葉の温度が気になる。

 結局、彼はタイトルをこう記した。

 ――今日は、灯りの置き方の話をします。

 投稿ボタンを押す。モニターの青が、ひと呼吸ぶん、濃くなった。


第2節 裏口の名札、倫理の温度

 九月二十日、午前。秋の空は高いが、湿度は抜けきらない。

 会場の搬入口脇に、仮設の受付机が出ている。〈海江田〉が差し出したクリアケースの中に、手書きの名札が三枚。「関係上入場—技術・メディア・搬入」。インクは乾きかけで、線がわずかに滲む。

 「正門は偶然が多い。裏口は作業しかない」

 海江田は肩をすくめ、搬入スタッフの列を目で示した。

 警備員の視線は厳しいが、作業の手順に忠実だ。名札を確認し、荷物検査をして、通す。関係上入場は、関係性ではなく手順に従って成立する。

 バックステージは意外に狭い。銀色の台にはまだ布が掛かり、周囲には冷却配管とケーブルが幾筋も這っている。機器のディスプレイには波形が眠り、青いスタンバイの点が一定間隔で瞬いている。

 「おや、先日の方」

 柔らかな声がした。メゾベッドのスペシャリストだ。白衣ではなく、簡素なジャケット。声はやはり穏やかで、ステージ照明の下でも揺れない。

 「今日は倫理の議論の時間は?」

 中尾が問うと、彼は苦い笑みを浮かべる。

 「あります。十分。――十分しか、ありません」

 十分の重さは、議題によって変わる。十分で十分なこともある。しかし、死の定義と資源配分の話に割り当てるには、軽すぎる。

 中尾は、布の端から覗く端子を指さした。

 「スイッチは誰が押す?」

 「医師が。複数キーです」

 「ログは?」

 「私見では患者のものであるべきです。今日は、その案を出します」

 彼の目はまっすぐだ。だが、そのまっすぐさの向こうに、別の視線が絡んでいる気配を中尾は感じる。スポンサー、広報、法務、渉外。倫理は入口に貼るべきだが、現実には出口に置かれる。その出口の前に立つ人々の顔が、頭の中で重なる。

 スマホが震える。〈宮本〉だ。

 「緊急の招集。夕方に審議。でも、開始は二十一時から」

 特番は二十時開始だ。順番の設計は、今日も正確だ。

 「現場のあなたは?」

 「会場にいます。今日の温度を、覚えておきたいから」

 短い通話のあと、ステージ袖で機器のチェックが進む。冷却ラインの金属がかすかに鳴り、波形のモニターが息をするように光る。

 スペシャリストは、配られる進行表を見て小さく頷き、こちらに目を戻した。

 「あなたの質問は、嫌いではありません。順番を問う人は、技術を壊す人ではない。――ただ、私にも順番がある。まず示す。それから問う。それが、今日の私の順番です」

 「示したものは、誰のものになる?」

 彼は一瞬だけ黙り、静かに答えた。

 「扱うのが難しいほど、持ち主は増えます」

 言葉は柔らかいのに、重い。


第3節 選ぶという動作

 夕刻、会場の照明が上がる。表のロビーは人の熱で満ち、裏の通路には冷えた空気が流れる。

 同時刻、街角のテレビは一斉に特番を流し始めた。柔らかな青、光の粒、再生する波形。ナレーションが「命のセカンドチャンス」を耳にやさしく繰り返す。

 体育館の臨時会場でも、接種の導線が動き出す。〈宮本〉は入口の看板を少しだけ手前に出し、来場者の流れを緩めた。

 「ようこそ。質問はここで、お受けします」

 前に見かけた年配の男性が、娘と並んで立っている。

 「今日は、打つと決めてきた。でも、念のために聞きたいことがある」

 彼は震える指を押さえ、同意書の余白に短く書き込む。

 〈副反応が出た場合の連絡先を、娘にも渡したい〉

 看護師が頷き、チラシに連絡先を大きく書き直し、娘に手渡す。

 「ありがとうございます。安心しました」

 彼の声は小さいが、確かだ。選択の動作音が、紙とペンの触れ合いの音として聞こえる。

 ステージでは、スペシャリストがマイクを持つ。

 「死の定義は、医学だけが決めるものではありません。だから、今日は二つの提案をします。

 ひとつ。メゾベッドで得られた生体ログは、患者本人のものとし、アクセス権と利用目的を患者が選べるようにする。

 もうひとつ。適応のプロトコルは公開し、倫理委員会の議事録も、可能な限り速やかに公開する」

 客席がわずかにざわめく。前列のスーツの肩が硬くなるのが、袖からでも見える。

 「示すのは技術ですが、決めるのは社会です。だから、窓は開けたままに」

 拍手が起こる。控えめだが、連続して続く拍手だ。

 その瞬間、会場の照明がほんの一拍、暗転した。電源の瞬低か、切替のミスか。ざわめきが波打ち、すぐに光が戻る。

 中尾は呼吸を整え、モバイルの配信を開始した。

 「見えている光は、やさしい。けれど、選択の傾斜は、やさしい顔もする。いま、できることを確認します」

 画面の端に、さきほどの「五つのこと」をもう一度出す。コメント欄に、各地の小さな会場からの報告が流れ始める。

 〈同意書、追記OKだった〉

 〈既定値、外してもらえた〉

 〈質問は入口で、と伝えたら笑ってくれた〉

 狼煙は静かに上がり、灯りに変わる。

 ステージ中央で、布が外される。銀色の台の縁が、舞台照明の白を跳ね返す。複数のキーが差し込まれ、操作卓のディスプレイに青い輪が重なる。

 スペシャリストは一歩、前に出た。

 「スイッチは、私たちだけでは押しません。今日はプロトコルに第三の鍵を追加します。〈患者側代理人〉の確認――記録に残る署名を」

 背後のスクリーンに、太い線で描かれた鍵穴が三つ並ぶ。

 観客席の沈黙に、別種の温度が混ざる。緊張とも、納得とも違う。おそらく、それは困惑だ。

 困惑は、悪ではない。困惑は、選択の前提だ。

 中尾のスマホに、〈海江田〉から短いメッセージが届く。

 ――学生の目、いま、とてもいい。

 彼は会場の後方を見やる。若い顔が、光と影の境目に立っている。メトロノームの音が、耳の奥でまた始まる。タッ、タッ、タッ――。

 外の体育館では、娘が父の肩にそっと手を置いた。

 「帰りに、プリン食べて帰ろう」

 「そうだな」

 選択のあとには、生活が続く。それがいい。

 中尾は配信を閉じる前、短く言った。

 「扉は開いた。押した手も、引いた手も、記録に残そう。名前がなくても、温度は残る」

 ステージ上では鍵が回り、青い輪がわずかに軌跡を描く。

 青はやさしい。だが、やさしさは設計できる。

 設計できるからこそ、問い続ける。

 ――その設計は、自由の幅を削っていないか。

 拍手と機器の低い駆動音が重なり、夜の最初の一歩が、静かに踏み出された。


エピローグ 9月20日のあとに

 九月二十日が終わった街は、驚くほど静かだった。翌朝の新聞は淡々としていて、一面には特番の視聴率が並び、感染症の速報は二面に追いやられていた。人々は出勤し、電車はいつもの混み具合を取り戻す。昨日の青い光は、ただの番組として消費され、誰かの心に深い影を落としたことも、誰かの小さな行動を変えたことも、文字にはならなかった。

 中尾広務は、薄いコーヒーを片手にモニターを開いた。画面には、配信で残したログとコメントが静かに並んでいる。「質問は入口で済ませた」「同意書に自分の言葉を書いた」「娘に連絡先を渡した」。断片的な文字列だが、それぞれに温度があった。熱くはなく、燃えもしない。けれど、確かに灯っていた。

 〈宮本〉から届いた音声は、疲労に滲む声だった。

 ――今日、三人がやめるを選んだ。入口で。出口に迷いを作るより、ずっといい。娘さんが紙を折りたたんで、大事にポケットにしまっていた。

 彼女はそう言い、短く笑った。笑いの奥に、緊張の糸が切れる音があった。現場は今日も続く。現場の人間にとって、選択の一つひとつは統計ではなく顔であり、体温だった。

 スペシャリストからは、簡潔なメールが届いた。

 ――議事録を公開する方向で合意。続きは継続審議。

 方向という言葉の軽さと重さを、中尾はよく知っている。方向は、行き先ではない。だが、矢印を掲げることはできる。その矢印に誰が従い、誰が背を向けるのか。未来はそこで分かれる。

 深夜、〈風間〉から最後のメッセージが落ちた。

 ――GHAの蛇口、次は朝七時台。ニュース枠で感染症を流す。青い光と切り離して。

 蛇口と照明。配管室の設計は今日も狂いがなく、都市は整然とした情報のリズムに従うだろう。だが、その外側に、小さな手書きのメモや、会場の片隅で交わされたやめますという言葉が残った。それは統計に乗らないが、灯りのように残った。

 中尾は記事の冒頭に、こう記した。

 ――既定値は、誰かの手が触れた跡だ。番号ではなく、温度として記録しよう。

 記事は大きな波を立てはしない。けれど、読んだ人の一部が紙に自分の字を残すなら、それで十分だ。

 窓の外で、東の空が薄く明るむ。新聞配達のバイクが角を曲がり、朝の匂いが湿ったアスファルトを通り抜ける。九月二十日は終わった。だが、それはただの終わりではない。

 選択の跡は、目に見えない形で残る。入口で迷った人、出口で踏みとどまった人、同意の言葉を自分の声で言い直した人。そうした選択の総和が、次の物語を形づくる。

 ディープステートの影は消えない。蛇口は明日も回され、光は調整されるだろう。だが、市民が手にした灯りは、もう元には戻らない。誰かが気づき、誰かが問い直し、誰かが自分の足で下り坂を止める。その一瞬一瞬が、未来を削りもすれば、広げもする。

 中尾はメトロノームを止め、机の端に置いた。静けさが広がる。

 「自由はゼロか一じゃない。帯域だ。幅だ。窓だ」

 彼は独り言を呟き、記事を送信した。

 九月二十日のあとに残ったものは、青い光よりも小さく、けれど青い光よりも確かな温度だった。



ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

「選択の設計」というテーマを通じて、私たちの日常にも存在する傾斜を物語に込めました。

読後に「自分ならどう行動するか」を少しでも考えていただければ、作者としてとても嬉しいです。

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