第6話『深淵の尋問』
これは、ゲームで築いた“城”と“仲間”をそのまま引き連れて、異世界に降り立った一人の男の物語――。
五感同期型VRMMORPG『エクリプス・オンライン』の最終夜。
玉座に座していたギルドマスターは、世界の終わりと共に新たな現実を迎える。
「ようこそお戻りになられました、我が主よ」
異世界で目覚めた彼の名は、“マグナス”。
深淵を呼ぶ魔王として、そしてかつて人間であった者として、
支配と守護、二つの選択肢の狭間で揺れる覇道が今、幕を開ける――。
閃光と闇が激突した。
玉座の間全体を揺るがす衝撃音とともに、眩い光の奔流と漆黒の瘴気が激しくぶつかり合う。アレンの振り下ろした聖剣は純白の残光を引き、一陣の閃光となって魔王マグナスを薙ぎ払った。レオンハルトの大剣もまた銀光を帯びて横薙ぎに閃く。一瞬、魔王の黒き姿が光の渦に呑まれた。
イリスの放つ灼熱の火矢が空を裂き、セシリアが祈りと共に解き放った聖なる光が闇を貫くように降り注ぐ。四方から襲いかかる猛攻を前にして、さしもの魔王といえども姿が見えなくなった。
やがて光が収束するとともに、勇者たちの目に信じがたい光景が映り込んだ。濛々と立ちこめていた塵埃と闇煙が晴れる。その中心に、魔王マグナスの姿がはっきりと佇んでいたのだ。魔王はわずかに衣の埃を払い、静かに立ち尽くしている。周囲には彼を守護するように微かな黒の結界の残滓が揺らめき、床石にはひび割れが走って蒸気が立ち上っていた。しかし、その張本人であるマグナス自身には傷一つない。
「ば、馬鹿な……!」アレンが信じられないものを見るように呻いた。渾身の一撃だったはずだ。聖剣にこれでもかと光の力を宿し、仲間と連携して放った一斉攻撃。それが直撃すれば、いかに魔王といえど只では済むまい——誰もがそう信じて疑わなかった。しかし現実には、魔王マグナスは微動だにせず立ち尽くしている。攻撃は確かに命中したはずなのに、その足元には浅い焦げ痕が残るのみ。まるで全ての斬撃も魔法も無力だったかのように。
「そんな……イリスの魔法も、セシリアの浄化術も効いていないっていうの……?」レオンハルトが苦々しく声を漏らす。半ば崩れ落ちるように着地した彼の手には、いつの間にか血が滲んでいた。極限まで高めた聖騎士の剣撃ですら、魔王に一矢報いるどころか、自らの手を痺れさせただけだったのだ。レオンハルトは歯噛みし、悔しげにその剣を握り直す。
「化け物め……!」
マグナスはゆっくりと宙に浮かぶ深淵の杖を下ろしていった。その周囲には淡く歪む魔力障壁が揺らめき、今しがたの猛攻を受け止めたことを示唆している。彼は僅かに首を傾げ、静かな声で告げた。「それで終わりか?」
その余裕に満ちた言葉は、勇者一行の神経を逆撫でするに十分だった。
「ふざけるな!」アレンが叫び、なおも突撃しようとする。しかしイリスが制止の声を上げた。「待ってアレン! 無闇に突っ込まないで!」
彼女は宝杖を振るって宙に魔法陣を描き出しながら、早口に警告する。「感じないの? あの魔王の周囲を覆う力……ただの結界じゃない。あらゆる攻撃を打ち消す障壁よ!」
アレンも直感していた。目の前の魔王を包む黒い靄——それ自体が生きているかのように渦巻き、近づくもの全てを拒絶している。この圧倒的な隔絶感は何だ?
刃を届かせようと踏み込んだ瞬間、まるで次元そのものがねじ曲がったかのように攻撃の手応えが消えていたのだ。たとえ聖剣であろうと、この魔王には届かないというのか。
「……だったら、これならどうだ!」レオンハルトが痛む腕を押さえつつ立ち上がった。鎧の隙間から洩れる血を気にも留めず、彼は己が剣を天高く掲げる。「我が聖剣に宿りし加護よ、今こそ正しき裁きを示せ!」碧色の眼光が燃え上がり、彼の長剣が純白の輝きに包まれる。それは聖騎士が放つ秘奥義——邪悪を断つために鍛え上げた渾身の斬撃だ。「はああっ!」雄叫びと共に、レオンハルトは眩い閃光となって横薙ぎに斬り払った。
迸る浄化の閃撃が、一直線に魔王へと奔る。床を両断するかのように奔流する光の刃は、狙い違わずマグナスの胴へと到達した——かに見えた。しかし。
「無駄だ」低く冷えた声が闇の中から響いた。次の瞬間、光の刃は霧散して消え失せる。マグナスの周囲に瞬時に展開された漆黒の魔法陣が、一切の魔力を喰らい尽くしたのだ。レオンハルトは愕然と立ち尽くす。「な……消えた……だと?」自らの奥義が一瞬で掻き消された現実に、彼の表情が強張る。
「くっ…まだよ!」イリスが必死に声を張り上げた。震える指先で魔法陣を完成させると、一気に詠唱を解き放つ。「〈雷槍招来〉!」彼女の宝杖から奔出した無数の雷光の槍が、大気を焦がしながら降り注いだ。標的は魔王の頭上——いかに強大な魔物といえど、回避は不可能な死角からの攻撃。
だが雷撃は、まるで見えない壁に弾かれるように四散した。青白い稲妻の閃光が周囲の石柱を穿つだけで、肝心の魔王には届かない。「嘘…こんな高位魔法まで…!」イリスの美貌が愕然と見開かれる。彼女は魔力の手応えすら掴めなかった。まさに無効化——まるで格の違う存在に挑んでいるかのような感覚に、ゾクリと背筋が凍る。
「ぐ…ああっ!」突如、セシリアが悲鳴を上げた。彼女の周囲に展開されていた聖なる加護の光が、黒い奔流に侵食されていく。立ち上がろうとしていた僧侶は頭を抱え、その場に蹲った。「セシリア!」アレンが即座に駆け寄る。しかし次の瞬間、今度は彼自身の視界が歪んだ。頭の奥に直接響くような低いうなり声——いや、違う。これは魔王の放つ精神干渉の呪詛だ!
アレンは目眩に耐えながら顔を上げた。玉座の間いっぱいに満ちる黒霧が、不気味に脈動している。瘴気そのものが意思を持つかのように彼らの心魂へ干渉し、揺さぶってきたのだ。
「くそっ…なんて魔力だ…!」アレンは額に手を当て、滲む冷汗を拭った。視界の端で、イリスが苦しげに胸を押さえているのが見える。高位の魔術師である彼女ですら、精神に重く圧し掛かる邪悪な気配を払いきれないのだ。「こんなもの…まともに喰らったら…正気を保てなくなる…!」
必死に耐える勇者たちに向け、玉座の間の主は冷然と佇んでいた。先ほどまでの余裕すら感じさせない無表情——それが却って底知れぬ恐怖を掻き立てる。マグナスは悠然と宙に指を描き、次なる術式を紡ぎ始めた。その背後に漆黒の魔力が奔流し、禍々しい魔法陣が浮かび上がる。
「来る…! 防げッ!」レオンハルトが怒号した。咄嗟にアレンとレオンハルトは前に出て盾となり、イリスとセシリアの前面に聖なる障壁を展開する。次の瞬間、無数の漆黒の刃がマグナスを中心に炸裂した。真空の鎌と化した闇の衝撃波が四方に奔り、広間の床と壁を一瞬で抉り砕く。咄嗟の障壁がなければ、四人は今頃バラバラに切り裂かれていただろう。
それでも防ぎ切れなかった衝撃の一端が勇者たちを吹き飛ばした。アレンは背中から石床に叩きつけられ、肺の中の空気を強制的に吐き出す。「がはっ…!」激痛に視界が滲んだ。鎧の胸板が凹み、呼吸するだけで肋が軋む。何とか半身を起こした彼の眼に飛び込んできたのは、散々に破壊された広間の有様だった。
アレンは呆然と辺りを見回した。レオンハルトは瓦礫の上に倒れ込み、胸の装甲は無残に歪んでいる。イリスは壁際で膝をつき、宝杖を杖代わりに立ち上がろうともがいていた。その肩は小刻みに震え、先ほどまでの自信に満ちた面影はない。セシリアは祈りの言葉を途切れさせたまま床に伏し、微かに身体を動かすのがやっとだった。
(嘘だ…こんな結末があるものか…)アレンの脳裏に絶望が満ちていく。かつて幾多の魔物を討ち倒し、人々から希望の象徴とまで謳われた自分たちが、なすすべもなく敗れるなど——。「まだ、終わっていない…!」アレンは自らに言い聞かせるように呟いた。震える足に鞭打って立ち上がる。ここで倒れれば全てが終わる。守るべき仲間も、待つ人々も、未来すらも失われてしまうのだ。
だが、彼の決死の覚悟に呼応する者はもはや誰もいなかった。イリスはか細い声で叫ぶ。「ムリよ…もう…」青ざめた顔で首を振り、かき消された魔力に絶望するように。「魔王には…勝てない…」その場に崩れ落ちる彼女の頬を、熱い涙が一筋伝い落ちた。勇壮だった宮廷魔術師は、ただ怯える一人の少女となり果てている。レオンハルトも立ち上がれずに剣を杖代わりにしながら、「ぐ…許さん…」と唇を噛み締めていたが、その瞳には悔しさと共に明らかな畏怖が浮かんでいた。
アレンは聖剣を強く握り締め、血の滲む掌の痛みで意識を繋ぎ留める。「うおおおっ!」雄叫びを上げ、自らを奮い立たせるように魔王へと突進した。最後の力を振り絞り、渾身の斬撃を繰り出す。しかし――
「愚かな」
冷徹な声が響いた刹那、アレンの身体は空中で硬直した。濃密な闇が四方八方から噴き出し、彼を捕らえている。足元から伸びた影が絡みつき、聖剣を握った腕を押さえ込んだのだ。見ると、マグナスの足元に魔法陣が刻まれている。「闇の拘束術式…!」アレンは憑かれたように呟いた。かつて古文書で目にした禁忌の術。それを己に向けて放つ魔王の姿に、背筋が氷のように冷たくなる。
闇の鎖に囚われた勇者を前に、魔王はゆっくりと片手を掲げた。その指先に濃縮された漆黒の光球が生まれ、周囲の空間を歪め始める。「やめ…ろ…!」アレンは叫ぼうとするが、喉が凍りついたように声が出ない。死の暗黒。それ以外には形容しようのない絶望的なエネルギーが、今まさに解き放たれようとしていた。
イリスとレオンハルトは半ば朦朧としながらも、その光景を目の当たりにしていた。魔王の掌に凝縮されたそれが放たれれば、自分たちは塵さえ残らないだろう——理解した瞬間、イリスは喉の奥から嗚咽を漏らした。「い…いや…」震える声が消え入りそうに囁く。「助けて…誰か……」
その時だった。マグナスの周囲で黒霧が一際激しく渦巻き、瞬く間に全域へと膨れ上がった。視界が闇に覆われ、広間の輪郭が溶け落ちていく。「…な、何が…!?」レオンハルトが目を見開いた。自分の手も、足も、仲間の姿すらも認識できない。闇はすべてを呑み込み、音すら奪って沈黙する。途端に押し寄せる濃密な殺気と瘴気——それは先程までの比ではない圧力で四人を包み込んだ。イリスは悲鳴を上げようとして、声にならない叫びを吐き出した。想像を絶する魔力の奔流に、意識が刈り取られていく。
アレンもまた、自身の鼓動だけが耳鳴りのように響く闇の中で、膝から崩れ落ちた。恐怖と闇が心を支配し、聖剣を握る手から力が失われていく。見えないはずの魔王の双眸が、闇の彼方から自分を見下ろしているような錯覚に陥り、彼の心は完全に折れた。「俺たちは…勝てない……」掠れた声で誰ともなく呟く。しかしその言葉は仲間たちには届かない。彼らもまた、各々の絶望の淵で立ちすくむばかりだった。
そして——黒き闇の領域が静かに収束した時、勇者たちの戦いは終わっていた。四人は玉座の間の残響の中、力なく倒れ伏している。刃こぼれした剣が床に転がり、砕け散った宝杖の残骸が火花を散らした。魔王マグナスは高みに立ち尽くし、冷然と彼らを見下ろしていた。その身には最初から最後まで傷一つなく、深淵の闇だけが揺らめいている。あまりの強さに、勇者たちはもはや誰一人として立ち上がれなかった。
冷たい石壁に囲まれた地下牢は、闇が淀み沈殿する深淵のようであった。空気は湿り気を帯び、苔の匂いと鉄錆びた鎖の臭気が鼻をつく。微かな松明の揺らめく炎が遠くに一つあるきりで、牢内はほとんど闇に等しい。光の届かぬ隅には黒い影が蠢いているようにも思え、まるで闇そのものが意思を持ち、獲物である人間たちを嘲笑っているかのようだった。
その闇に飲み込まれるように、勇者一行の四人――アレン、レオンハルト、イリス、セシリア――は各々頑丈な鎖に繋がれ、石壁にもたれかかっていた。彼らの両手首と足首には鋼鉄の枷がはめられ、長い鎖が壁の錆びた環につながれている。自由を奪われた四肢は痺れ、冷えきった石床からは骨の芯まで凍えるような寒さが這い上がってきた。それぞれに傷があり、戦いの余韻が生々しく残る身体は疲労と痛みに苛まれている。だが、いまこの地下牢で彼らを最も苦しめているのは、肉体の痛みではなく、絶望という名の闇だった。
アレンは壁際に座り込み、悔しげに奥歯を噛み締めていた。勇者として魔王を討つ宿命を背負った自分が、このように囚われの身となった事実が信じ難かったのだ。彼の心には屈辱と怒りが渦巻いている。何故だ、何故あの場で理想を貫けなかったのか――。
マグナスとの対話は無残にも破綻し、和平の望みは露と消えた。今や仲間と共に魔王の手で捕らえられ、暗く冷たい牢獄に幽閉されている。アレンは拳を握りしめると、鈍い痛みが走った。戦いで負った傷がまだ癒えぬのだ。それでも痛みを堪え、彼は闇の中に潜む何者かを睨みつけるように顔を上げた。そこには何も見えない。ただ静寂だけが支配し、かすかな滴の音が時折天井から響く。まるでこの地下牢そのものが嘲笑うかの如く、冷たい水滴が嘲弄する音を立てていた。
傍らでは、レオンハルトが静かに目を閉じて祈りを捧げている。聖騎士として数多の戦場を駆け抜けてきた彼もまた、己の無力を痛感せずにはいられなかった。くっ、と彼は苦悶の息を漏らす。かつて誓った忠義と正義が、この状況に何の力も及ぼせぬことが歯痒かった。それでも、心を落ち着けるように祈りを口にしているのは、仲間たちの精神を支える最後の砦であろうと努めているからだ。闇の中、微かに聞こえるレオンハルトの祈りの声は、凍てつく牢獄の空気に溶けて虚しく消えていった。
反対側の壁際では、イリスとセシリアが寄り添っていた。魔導士であるイリスは震える肩を押さえ、必死に恐怖を耐え忍んでいる。彼女の碧い瞳は不安に揺れ、時折暗闇の中に何かを見るように瞬きを繰り返した。頭の中では幾度となく魔法の呪文を試みているのだろうか。
しかし、魔力は鉄鎖によって封じられているのか、一向に奇跡は起こらない。隣のセシリアは教会に仕える聖職者でありながら、震える唇で祈りの言葉を紡ぐことすらできずにいた。彼女はその身をイリスに預け、互いの温もりだけを頼りに闇と恐怖に耐えている。セシリアはこの状況に陥った責任の一端が自分にあるのではないかという自責の念に苛まれていた。あの玉座の間で、自分がマグナスを「穢れた存在」などと罵ったせいで全てが壊れてしまったのではないか――そう考えると、申し訳なさと恐怖とが綯い交ぜになって胸を締め付ける。
だが、もはや悔いても遅い。暗闇の中で彼女は声にならない嗚咽を漏らし、イリスの肩に縋るようにして必死に涙を堪えていた。 四人の間に、会話はほとんどなかった。誰もが絶望の淵にあり、迂闊に言葉を発せば、自らの弱さをさらけ出してしまいそうだったからだ。代わりに沈黙が重く垂れ込め、互いの呼吸と鼓動の音だけが耳鳴りのように響いている。闇は深く濃く、時間の感覚すら奪い去っていった。どれほどこの暗闇に囚われているのか、誰にも分からない。
ただ、一行を待ち受ける運命だけが、静かに確実に迫りつつあった。 やがて再び孤独な闇が牢獄を支配した。時間は容赦なく流れてゆく。だが、勇者たちには為す術もない。ただ凍える石壁にもたれ、互いの存在を感じながら、胸の鼓動だけを頼りに絶望と闘っていた。 暗い地下牢とは対照的に、その城の玉座の間には幾筋もの燭台の灯が揺れていた。豪奢な黒紫の絨毯が敷かれた広大な空間の奥、高く聳える玉座には魔王マグナスが静かに腰掛けている。
その傍らには側近の魔人ゼルガドが控えていた。二人の表情には冷徹な光が宿り、言葉少なに深い思考を巡らせている様子が伺える。 マグナスは玉座に凭れ、硬質な瞳を細めて宙を睨んでいた。先ほどまでの対話の余韻が未だ胸中に燻っている。人間だった頃の理性が、無益な流血を避け平和を模索しようと囁いていたものの……それは脆くも打ち砕かれた。
穢れた存在――そう罵られた瞬間に、人としての情は深い闇に沈み、魔王としての冷厳な決意が芽生えたのだ。いま彼の内心は静まり返っている。激情はなく、ただ冷たい判断のみがその胸にある。玉座の間に低い声が響いた。
「……ゼルガドよ、状況を聞かせろ」マグナスが命じるように言った。声は深く穏やかだが、その響きには底知れぬ威圧が滲んでいる。ゼルガドは一礼して進み出た。銀色の長髪を持つ端正な魔人で、その瞳には常に知性の火が灯っている。彼は懐から一冊の小さな手帳のようなものを取り出し、ページを捲った。
「はっ。勇者どもから引き出した情報について、ご報告いたします」ゼルガドは淡々と告げ、項目立てるように滑らかに言葉を継いだ。「まず一つ目。勇者アレンの携えていた聖剣の由来でございます。かの聖剣は古の勇者レグナードが用いた霊剣にして、女神によって選ばれし者にのみ扱える神授の武具とのこと。現代においては王国の宝物庫に封じられていたものを、教会の聖職者たちが儀式を行いアレンに継承させたそうです。」
「ふむ……古の勇者レグナードの聖剣、か」マグナスはその言葉を噛み締めるように繰り返した。かつて人間であった彼もまた、伝説としてその名を聞いたことがある。人類を救った英雄の遺産――女神の加護を帯びた刃。それが勇者アレンに与えられたというのだ。
マグナスは玉座の傍らに立てかけてあった長剣に目を移した。そこには勇者から没収したばかりの一本の剣がある。柄には精緻な意匠が凝らされ、鞘から僅かに覗く刃は銀色の輝きを帯びていた。いまは封印の呪詛により大人しく沈黙しているが、その内に聖なる力を秘めているのだろう。「確かに人間どもにとっては象徴的な代物だな。アレンという若者がこの剣に選ばれた、と……それが奴らの勇気と増長を支えていたわけだ」
「仰せの通り。ですが、聖剣とはいえ所詮は道具。持ち主を失えばただの飾り物に過ぎません」ゼルガドは冷笑を浮かべた。「現に今、その聖剣は主の手を離れ、こうして我らの管理下にあります。女神とやらも、徒に人間に力を与えたものですな」
マグナスはゼルガドの嘲弄をよそに、短く「次を」と促した。ゼルガドは恭しく頷き、二つ目の報告へと移った。
「二つ目。レグナード王国の軍事構成について。勇者一行から引き出したところによりますと、王国軍は大きく三つの柱に分かれています。王直属の近衛騎士団、各領地の諸侯が率いる地方軍、それに教会が擁する聖騎士団および異端審問官などの特務部隊です。総兵力は常備軍でおよそ二万、動員令が発されれば最大で五万規模になる模様。ただ、現在のところ魔王討伐隊として派遣されたのは勇者たち少数に過ぎず、王都の主戦力は温存されている状態です。もっとも……こちらが勇者一行を退けたことが知れ渡れば、速やかに残存戦力を結集してくるでしょうが」 ゼルガドの報告を受け、マグナスは静かに目を閉じた。
先の対話で勇者アレンが見せたあの確信――自らの正義を疑わぬ瞳を思い返す。背後にはこれだけの兵力が控えていることへの自信もあったのだろう。だが、今となってはその自信も虚勢に過ぎない。マグナスは唇の端を微かに吊り上げた。
「人間どもはまだ私を侮っている。まさか勇者ごときが敗れるとは、あの王も思うまい。手痛い寵児の敗北に、さぞ動揺することだろうな」
「仰るとおり、王国にとってこの敗北は大きな誤算となりましょう。さらに付け加えますと……」ゼルガドは三つ目の報告に移る。
「教会の策略についても、いくつか興味深い事実が判明しております。教会は女神の神託と称して勇者を推挙し、民衆を鼓舞しましたが、その裏で彼らは別の企みを進めていた模様。教会上層部は、仮に勇者が魔王と相まみえる際に和平の道が示されたとしても、それを拒むよう密かに誘導していた節があります。勇者アレンや聖職者セシリアに対し、『魔王と相容れることは断じて許されぬ異端』と繰り返し教え込み、交渉は時間の無駄と刷り込んでいたようです。おそらく彼らは、和平ではなく殉教による聖戦を望んでいたのではないかと」
「ほう……自ら和平を絶つよう仕向けていたというのか」マグナスの目が冷たく光を帯びた。「愚かしいことだ。自ら血を流す道を選ぶとはな」 ゼルガドは肩をすくめてみせた。
「奴ら教会にとって重要なのは、自分たちの教義の正当性を誇示し、民衆の信仰を一層強固にすることなのでしょう。和平など成立しては都合が悪い。英雄が魔王を倒すか、さもなくば尊い犠牲となったほうが、教会は『物語』を利用できますからな。結果、勇者たちは利用されたに過ぎません。…我らから見れば笑止千万な話ですが」 マグナスは軽く息を吐いた。
内心、酷く皮肉な気分だった。自分は平和を望んだというのに、人間側がそれを拒んだ――しかも彼ら自身の腐った内情のせいで。正義と大義を叫ぶ人間ほど、陰で欲望に塗れているものだ。魔王と呼ばれる己がこうして冷静に戦局を分析しているというのに、正義を掲げる者たちは愚かな策謀に溺れている。「教会……か。」彼は低く呟いた。
「所詮、人の集団よ。偽善と欺瞞に満ちている」
ゼルガドは主の言葉に深く頷いた。「全くでございます。彼らが抱く信仰の光など、内側から見れば驚くほど暗い影を落としている。そう教えてくれたのは、他ならぬ人間自身というわけです」報告を一通り終えたゼルガドは手帳を閉じ、静かにマグナスの顔を窺った。「……以上が、勇者どもから得た情報の概要です。これより先如何に動くか、魔王様のお考えを賜りたく存じます」 玉座の間に一瞬静寂が落ちた。マグナスは組んでいた指を解き、ゆっくりと玉座から身を乗り出した。その黄金の瞳には決意の光が宿っている。
「よく報告した、ゼルガド。……ならば次の手を打たねばなるまいな」
「御意のままに」ゼルガドが恭しく一礼する。マグナスは立ち上がり、背後の壁に掛けられた広大な地図に目をやった。レグナード王国、そしてその周囲の諸国。これから巻き起こるであろう戦乱の舞台がそこに描かれている。「勇者たちをどうなさいますか?」ゼルガドが控えめに問いかけた。
「……レオンハルトを処刑する」マグナスの声は刃のように鋭く響いた。「聖騎士レオンハルト――あの男は王国でも名の知れた勇猛なる騎士。その首をはねて、レグナード王国へ送りつけよ。人間どもに思い知らせてやるのだ。自らの愚行が何を招いたのかをな」冷然と告げられたその命令に、ゼルガドは微笑を浮かべた。彼は一礼すると、「仰せの通りに」と静かに応じる。
「残る三人、勇者アレンと魔導士イリス、そして聖職者セシリアは……我らの研究素材として活用する」マグナスは感情を欠落させた声音で淡々と言い放つ。「この世界の未知なる魔法体系や、人間の極限状態における力の源、その解明の糧とせよ。存分にな」それは、冷酷極まりない宣告だった。人間を生きた実験体として扱う非道に、微塵の躊躇いもない言葉。しかしマグナスの瞳は僅かに陰る。胸の奥底で何かが疼いた。それが人としての良心の残滓か、それともただの憐憫か。彼は静かに瞼を閉じ、その感情を押し殺した。
「……必要な犠牲だ。私に歯向かった報いでもある」自身に言い聞かせるように呟くと、再び目を開きゼルガドを見据えた。
「かしこまりました」ゼルガドは声を弾ませて応じた。知的な魔人の唇には、抑えきれない喜悦の色さえ浮かんでいる。「有益な実験結果を必ずやご呈示してみせましょう。彼らの末路が如何なるものになるか……楽しみですらありますな」嬉々として語るゼルガドに、マグナスは無言のまま頷いた。ゼルガドはそれを命令の了と受け取り、踵を揃えて深々と頭を下げる。 「では、早速手配に移ります。何卒ご安心を、魔王様」ゼルガドは背を向けると、一瞬躊躇うように足を止めた。「……レオンハルトの処刑は、いつ頃に?」最後に確認するように問う。
マグナスは冷然と答えた。「明日の暁にでも執行するとしよう。一刻も早く人間どもに絶望を送り届けねばならん」決然とした声が玉座の間に響き渡った。それは避けられぬ死刑宣告であり、戦端を開く合図でもあった。ゼルガドは粛然と頷き、玉座の間から退出していく。
高くそびえる扉が重々しく閉ざされると、広間にはマグナスただ一人が残された。 マグナスは再び玉座に腰掛けた。ふと視線が傍らの聖剣に向かう。その銀の刃は燭光を受けて鈍く煌めいていた。彼は柄に手を伸ばそうとして、そっと止めた。聖なる武具であるそれに触れて、忌々しいほどの人間の記憶が蘇りでもしたら――そんな些細な危惧が胸を過ぎる。それほどにまで、彼の心は人の情から遠ざかっていた。これでいいのだ、と己に言い聞かせるように心中で呟く。勇者たちを葬り去ることに迷いはない。情けをかければそれこそ自らの驕りとなろう。あの者たちにとっても、もはや運命は変わらぬのだから……。 静寂が玉座の間を支配していた。マグナスは一人、闇よりもなお深い思索に沈む。かつて人間であった頃の弱き自分はもはや遠い過去だ。今の彼は魔王として覇道を歩むのみ。蝋燭の炎がかすかに揺らめき、長い影が壁面に歪んだ魔王の姿を映し出していた。
やがて、牢獄の鉄格子の前には、黒衣の男が静かに立っていた。先ほどまで玉座の間にいたゼルガドである。いつの間に現れたのか、彼の気配に四人は誰一人気づかなかった。ゼルガドは無表情のまま、冷たく澄んだ声で告げる。 「お目覚めのところ失礼。…皆さん、良くお聞きなさい」 不意に響いた声に、アレンたちははっと顔を上げた。闇の中から浮かび上がるゼルガドの姿。その赤い瞳が牢内をじっと見据えている。アレンは鎖の音を立てて立ち上がろうとしたが、足枷がそれを許さない。「貴様……ゼルガド!」彼は苦々しくその名を吐き捨てた。
ゼルガドは涼やかに微笑みすら浮かべ、「これはこれは、我が名を覚えていただけて光栄です」と皮肉めかして言った。 「お前たちに、魔王陛下からのお沙汰を伝えに来た。…聖騎士レオンハルト、その身柄を引き渡してもらう」淡々とした宣言が牢に響く。鎖に繋がれて座り込んでいたレオンハルトが顔を上げた。「……私を、どうするつもりだ」絞り出すような声で問う。ゼルガドはかすかに肩をすくめ、事務的に言い放つ。 「明日の暁、貴公を処刑する。そしてその首級を、貴公の祖国レグナード王国へ送り届ける――以上だ」 瞬間、空気が凍り付いた。イリスが「ひっ」と短い悲鳴を漏らす。セシリアは「そんな……嘘ですわ……」と信じられないというように首を横に振った。アレンは憤怒に目を見開き、鎖を軋ませてゼルガドに詰め寄ろうともがく。「貴様ッ! ふざけるな、レオンハルトを殺すだと!?」激情に震える叫び。しかし鉄格子までは距離があり、届かない腕を虚しく鎖が繋いでいるだけだった。 「やめろ、アレン!」レオンハルトが鋭く叫んだ。感情を剥き出しにする若き勇者を制止する。その声には聖騎士の威厳が辛うじて宿っていた。「ゼルガド殿……私の命はそれでよい。だが、仲間たちには手を出さないでもらえないか」レオンハルトはゼルガドを真正面から見据え、静かながらも力強い声で訴えた。「私の首を送るのであれば、それで充分だろう。女子供まで好きにするというのは、武人のすることではない」必死の嘆願にも似た言葉だった。仲間を思うあまりの言葉に、イリスとセシリアがすすり泣く。
だが、ゼルガドは薄く笑って首を振った。「お断りします。まさか、ご自分たちの立場をお忘れではないでしょうな? 既に貴公らは敗軍の捕虜に過ぎないのですよ」冷然たる現実を突きつけるように言い放つと、彼の声は一層冷たさを帯びた。
「だいたい、処刑が一人だけで済むと思いですか?」 ゼルガドの言葉に、アレンたちは凍り付いた表情を向ける。男は愉悦すら滲む声音で続けた。「聖騎士殿の次は……さて、残る勇者様方には有意義に我々の研究に協力してもらおうかと考えておりますのでね」その意味するところを理解した瞬間、イリスははっと息を呑んだ。「け、研究…?」青ざめた唇からか細い声が漏れる。 「ええ、そうですとも。貴女方には我ら魔族の発展の礎となっていただく」ゼルガドはゆっくりと右手を掲げ、薄暗い灯火の中で指を一本、二本と折ってみせた。「明朝、レオンハルト殿が斬首された後……次は誰からにしましょうかね?」
その声音は、友人同士で茶飲み話に興じているかのように穏やかなものだった。
しかし語られている内容の非道さは、闇より冷たく一行を貫いた。「勇者アレン、貴公は英雄として興味深いサンプルだ。魔導士イリス、貴女からは人間の魔力の秘密を探らせてもらおう。聖職者セシリア……貴女の信仰の力、存分に調べさせてもらうとしようか」一人一人の名前を挙げられるたび、ゼルガドの赤い瞳が獲物を値踏みするように輝いた。「安心なさい。すぐに命を取ろうなどとは思っていませんよ。時間をかけて、ゆっくりと――」 「やめろおおおおッ!」アレンが怒号を上げた。これ以上聞いていられなかった。彼は鎖を引き千切らんばかりに力任せに引っ張る。しかし鎖はびくともしない。荒ぶる獣のように吼えるアレンを見ても、ゼルガドの微笑は崩れない。「…ひ、一つ、聞かせて…」セシリアが震える声を振り絞った。「わた、わたしたちは……助からないの、ですの……?」希望というより、絶望を確認する問いだった。ゼルガドは愉快そうに目を細めた。「無論ですとも。諦めることです、可愛い聖女殿」死刑執行人の宣告のごとき無慈悲な言葉。セシリアは絶句し、その場に崩れ落ちた。 ゼルガドは満足げに頷くと、踵を返した。「それでは、せいぜい最後の夜を仲良くお過ごしください――」残酷な別れの挨拶を残して、彼はゆらりと闇に溶けるように立ち去っていった。
「待て! ゼルガド、戻って来い!」アレンの叫びも空しく、既に魔人の姿は見えない。鉄格子の向こうにはただ揺れる松明の炎があるだけだった。 ゼルガドが去った後、勇者たちはしばらく呆然とその場に座り込んでいた。誰も声を発することができなかった。あまりにも凄絶な死の宣告に、心が追いついていないのだ。レオンハルトは重い沈黙を断ち切るように口を開いた。「…すまない、皆。私の力が足りないばかりに、こんなことに……」苦渋に満ちた声だった。彼は仲間たちを守れぬ無力を恥じるかのように、拳を固く握り締めた。「レオンハルトさんのせいじゃない…!」イリスが泣きじゃくりながら叫ぶ。「悪いのは魔王たちよ…私たちは……私たちは……!」言葉が途切れ、嗚咽に変わる。セシリアも瞳に大粒の涙を湛え、レオンハルトにすがりついた。「ごめんなさい…私のせいで、私があんな暴言を吐いたから…!」彼女は泣き崩れながら謝罪の言葉を繰り返す。レオンハルトは首を振った。「いや、君のせいではない。あの場では誰しも心を乱されていた…悪いのは魔王だ」声は震えていたが、必死に仲間を庇おうとするその姿に、かえって痛ましさが増す。 アレンは唇を噛み切らんばかりに噛みしめ、無言で地面を睨んでいた。レオンハルトが彼を見る。「アレン…」そこには、若き勇者がいた。聖剣を託され、平和を夢見て戦ってきた青年。しかし今、彼の瞳からは光が失われかけている。アレンは顔を上げた。
「俺は…勇者失格だ」絞り出すような声。悔しさと自責の念がにじむ。「結局…何も守れない…」その呟きに、誰も言葉を返せなかった。 四人は寄り添うように身を震わせ、泣き、嘆いた。やがて、あまりの悲嘆に涙も枯れ果て、声すら出なくなっていく。セシリアは壁にもたれかかり、虚ろな目で天井を仰いでいた。何度唱えようとしても祈りの言葉は出てこない。神よ、どうして――心の中で問いかけても、暗闇からは何の応えもなかった。イリスはレオンハルトの肩に顔を埋め、震える背中を小刻みに上下させている。レオンハルトは静かに彼女の頭に手を置き、無言のまま瞼を閉じた。その頬にも一筋の涙が伝っている。アレンは拳を固く握りしめたまま、悔恨に肩を震わせていた。誰もが心の中で叫んでいる――これが宿命だというのか、と。 牢の外では、ゼルガドが片手に小さな水晶片を握りしめて立っていた。そこには牢内の光景が歪んで映し出されている。魔法による遠隔監視であった。彼は水晶に映る勇者たちの姿を観察し、満足げに頷く。「実に興味深い。人間というものは、ここまで容易く心が砕けるものか」静かな独白が闇に溶けた。悲嘆と絶望に暮れる勇者たちの様子は、彼にとって何より上質な研究材料に思えた。ゼルガドは薄い笑みを浮かべ、水晶片を懐にしまい込む。「魔王様もさぞお喜びになられよう…」そう呟くと、彼は踵を返して闇の回廊へと姿を消した。 残された地下牢では、苦しげな喘ぎと嗚咽だけが木霊している。どれほどの時が過ぎただろうか。やがてイリスが震える声で零した。「……いやだ……」その声はあまりにも弱々しく、そして深い絶望に満ちていた。「こんなの……嫌……」少女のようにか細い彼女の呟きは誰の耳にも届かない。ただ暗闇が冷たくそれを受け止めるだけだ。返ってくる答えは沈黙――この上なく残酷な沈黙であった。 「…………」セシリアの唇が何かを紡いだ。
しかし声にはならない。彼女はただ虚空を見つめ、震える手で胸元の小さなロザリオを握りしめた。祈りにも似た仕草。しかしその瞳には、祈りに必要な光がもう残ってはいなかった。微動だにしない彼女の様子に、イリスが不安げに名を呼ぶ。「セシリア…?」反応はない。セシリアの瞳から大粒の涙が一滴、また一滴と零れ落ちる。だが彼女自身が泣いていることにすら気付いていないかのようだった。 絶望とは、かくも人の心を空虚にするものか。アレンは震える手で床を何度も叩きつけた。「くそ…くそっ…!」低い呻きが闇に吸い込まれる。悔しくて、情けなくて、怖ろしくて――様々な感情が絡み合い、彼の理性を激しく揺さぶった。だが、涙すらもはや出ない。怒りも悲しみも、すべてが虚無に呑まれていく。 その時、不意にレオンハルトが小さく笑った。「…レオンハルトさん?」イリスが驚いて顔を上げる。闇の中で、聖騎士は穏やかな微笑を浮かべていた。「いや、すまない。少し昔のことを思い出していたのだ」レオンハルトの声は驚くほど静かで、苦しみの中にどこか達観した響きがあった。レオンハルトは自嘲するように笑い、鎖の音を立てながらゆっくりと立ち上がった。「正直、今の私は震えている。怖い…死にたくない…皆を失いたくない……だが」声が震え、そこで一度途切れた。しかし彼は喉を詰まらせながらも続ける。「だが……それでも私は、騎士でありたい。最後の瞬間まで…己の誇りを失わずにいたいのだ」彼は壁に繋がれた鎖を握りしめ、仲間たちを見渡した。
「アレン、イリス、セシリア……聞いてくれ。私は…君たちと出会えて、本当に良かった」微笑みを浮かべたまま、レオンハルトの瞳から涙が溢れた。「共に旅し、戦い、笑い合えた日々は…かけがえのない宝だ。それを胸に…私は行くとしよう」彼の静かな決意の言葉に、アレンは涙を堪えきれず嗚咽を漏らした。イリスもしゃくりあげ、セシリアは朦朧としながらも涙を流し続けている。 「必ず…後に続け。生き延びてくれ。私は君たちの未来を信じている」レオンハルトはそう言ってから、照れくさそうに笑った。「…とはいえ、こんな状況だ。無責任な願いかもしれんな。すまない」彼は静かに首を振る。それでも目には一層強い光が宿っていた。「私は最後まで抗う。騎士として、人として――」続く言葉は必要なかった。誰もがレオンハルトの気高さを感じ、そしてその最期を悟っていたからだ。 三人は泣きながら何度もうなずいた。話す言葉が見つからない。ただ、その瞬間だけは四人の心が強く結ばれたように感じられた。だが無情にも、時は止まってはくれない。牢の小窓から差し込む夜明け前の蒼白い光が、彼らの顔を淡く照らし始めていた。刻一刻と、別離の時が近づいてくる。 深い闇と静寂が支配する地下牢。その中で勇者たちは寄り添い、声を殺して泣き続けた。絶望はもはや底なしの深淵となって彼らを絡め取り、その心を少しずつ蝕んでゆく。希望の光など微塵もない。やがて訪れる運命を前に、ただ震えることしかできない自分たち。長い夜の終わりは、残酷な幕開けを意味していた。
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「ゲーム×異世界×魔王」という構図の中で、
主人公・マグナスがどのように“王としての答え”を出していくかを描いていきます。
本作は重厚でダークな展開が中心となりますが、配下NPCとのやり取りや、
魔王であることの“光と影”にも焦点を当てながら進めてまいります。
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