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第4話 深淵の迷宮

これは、ゲームで築いた“城”と“仲間”をそのまま引き連れて、異世界に降り立った一人の男の物語――。


五感同期型VRMMORPG『エクリプス・オンライン』の最終夜。

玉座に座していたギルドマスターは、世界の終わりと共に新たな現実を迎える。


「ようこそお戻りになられました、我が主よ」


異世界で目覚めた彼の名は、“マグナス”。

深淵を呼ぶ魔王として、そしてかつて人間であった者として、

支配と守護、二つの選択肢の狭間で揺れる覇道が今、幕を開ける――。

漆黒の魔城マグナ・ドミニオンの玉座の間には、重々しい静寂が満ちていた。高くそびえる尖塔の一室、黒大理石で築かれた広間には長大な深紅の絨毯が敷かれ、両側に灯る蒼白い魔導灯が揺らめいている。その中央、闇に沈む玉座に腰掛ける魔王マグナスの前に、四つの人影が恭しく控えていた。いずれもが彼に絶対の忠誠を誓った“深淵の誓約者”たちである。  


先頭に進み出たのはダークエルフの美女——ギルド副官ルシエラだ。彼女は一膝を床につき、凜とした声で報告を始めた。


「陛下、周辺領域の掌握は順調に進んでおります。我らの部隊は城を中心に外縁まで巡回し、魔獣やならず者どもも悉く制圧いたしました。複数の見張り塔を建設し、結界の外周も常に監視下に置いております。……いつでも陛下のご命令一つで、さらに版図を拡大する準備が整っております」

 

落ち着いた口調の中にも確固たる自信と誇りが滲む。ルシエラはその琥珀色の瞳を高潔な光で輝かせ、主君マグナスを仰ぎ見た。彼女の忠義心は疑いようもなく、その言葉通り領土拡大すら辞さぬ覚悟が感じられる。マグナスは玉座の上で静かに頷いた。胸中では、その忠誠厚い副官への信頼と共に、彼女が当然のように口にした「版図の拡大」——すなわち人間領への侵攻に一抹の逡巡を覚えながらも。  


続いて一歩前に出たのは、白銀の甲冑に巨躯を包んだ半竜人の戦士だった。ギルド近衛兵長ドラガン。鋭い竜の瞳で毅然と顔を上げると、太い声が玉座の間に響く。


「陛下。我が軍備は万全であります! 城壁の強化は完了し、部隊の練度も飛躍的に向上しました。先日、結界の近くを嗅ぎ回っていた人間の斥候どもも、我が配下が無事排除済みにございます。いかなる敵が現れようとも、このドラガン、陛下の御前へ一兵たりとも通しはいたしません!」

 

その白銀の鱗に覆われた巨体が熱意に震え、爪先が石床を軋ませる。武人肌のドラガンは、忠義に報いる戦いの機会を今か今かと待ち侘びている様子だった。敵対する者には一切の容赦なく剣を振るう彼の姿勢に、マグナスは苦笑にも似た感情を胸に覚える。頼もしい反面、その刃の先にいるのは間違いなく人間たち……かつて自分が属していた側の存在なのだと。  


次に進み出たのは、深いフード付きローブに身を包んだ瘦身の魔術師。ローブの陰から覗く顔は骸骨そのものであり、その眼窩には妖しげな紅光が揺れている。古の叡智を宿す不死の大賢者——リッチのゼルガドである。彼は胸元で骨ばった指を組み、一礼して口を開いた。


「陛下、『異空間結界』は御命令通り、全周にわたり完全に展開済みにございます。この結界は次元そのものを歪める魔術障壁。如何なる侵入者であれ、城へ近づこうとする限り空間の迷い路に囚われましょう。内部では方角も距離も捻じ曲げられ、進めど進めど同じ場所をさまようこととなります。さらには幻影を織り交ぜ、侵入者の五感と精神を蝕む仕掛けも組み込んでございます——恐怖、焦燥、猜疑……それらに苛まれた末に膝を屈するのがオチでしょう」

 

ゼルガドは淡々と恐るべき結界の原理を述べ、喉の奥でカラカラと笑った。その策謀家然とした声音には、我が主の敵を完膚なきまでに痛めつけようという冷徹な意図が隠されている。実際、異空間結界の中では正しい進路を知る者——城主であるマグナスや結界に適合した配下たち——以外は永遠に霧中を彷徨うのみ。仮に幸運にも出口を探ろうとすれば、更なる幻惑が追い討ちをかけるだろう。マグナスはゼルガドの説明に再び肯いてみせた。完璧な防衛体制……しかしその完璧さゆえに、人間側には為すすべもなく苦しむ未来しかないのだとすれば——。


「御心配には及びません、陛下」ゼルガドはマグナスの沈黙を何かの懸念と受け取ったのか、恭しく言葉を継いだ。「忌々しき聖光の勇者とやらが何人来ようとも、この迷宮に囚われてしまえば無力。同胞の救援が追いつく前に心を折り、あるいは餓死させることすら容易いでしょう。……貴方様の偉大なるお考えに沿い、我らが盤石の守りを固めております」

 

大げさなほどの口調で請け合うゼルガドに、ドラガンが鼻息荒く同調する。


「まさしく、その通り! ははは、いっそ奴らが衰弱したところを踏み潰してくれるわ!」

 

血気盛んな笑い声が響くが、ルシエラが鋭い眼差しで制すると、ドラガンははっとして口を噤んだ。静けさが戻る中、マグナスは玉座からゆっくりと視線を最後の一人に向けた。


ルシエラ、ドラガン、ゼルガド——三人の報告を控えていた青年は、一歩進み出ると優雅に礼を取った。執事服に身を包んだ美貌の吸血鬼、ヴィクターである。彼は柔らかな笑みを浮かべながらも、その紅い瞳には鋭い慧眼の光を宿していた。


「陛下、続きまして周辺諸国の情勢をご報告いたします」ヴィクターは穏やかながらもはっきりとした声で語り始めた。「聖光王国レグナードを中心に、我ら魔城への警戒が日に日に高まっております。各国は黒城の出現を“魔王の再来”と恐れ、レグナードでは大神官が神託を受けたとして討伐の聖戦を宣言いたしました。その旗印として選ばれし勇者——名をアレンと申します——を筆頭に、討伐の先遣隊が既に編成されております」

 

マグナスは微かに眉を動かした。勇者——既にそのように祭り上げられた人間が立ったというのか。ヴィクターは頷き、続ける。


「勇者アレンは平凡な村の出身ながら清廉な心を認められ、聖剣を授けられた青年。彼に随行するのは三名——ヴァルトリア王国から派遣された聖騎士レオンハルト卿、レグナード宮廷魔術師の才媛イリス殿、そして同国の高弟僧侶セシリア殿です。彼ら四人は数日前にレグナードを出発し、先ほど城の至近にまで到達したとの報せが届きました」


「ほう……」ルシエラが低く唸った。「たった四人でこの城に挑むつもりとは、随分と大胆ですわね」


「先遣隊、とのことだ。連中も最初から本隊を投入する気はないのだろう」ヴィクターが静かに応じる。


「勇者一行の成果を見定め、場合によっては更なる増援を繰り出す算段かと。あるいは……」

 

彼はそこで言葉を濁したが、マグナスには理解できた。もし勇者たちが討たれるようなことがあれば、人間側は疑念と恐怖を募らせ、下手に動けなくなるだろう。逆に万一勇者が魔王を討つようなことがあれば、その偉業が示され士気が上がる。つまりこの四人は、お互いの出方を探るための捨て駒にも等しいというわけか。勇者といえど所詮は政略の道具……その現実にマグナスは知らず息を吐いた。


「いずれにせよ、奴らは既にこの結界の中……」ゼルガドが骨の指を打ち鳴らした。「我らが領域に足を踏み入れた以上、好きにはさせませんぞ」


 ドラガンが手にした長槍の柄を地に打ち据えて請け負う。


「然り! 我が王よ、ここで迎え撃たれよ。決して生かして返しは——」


「待て」


 静かだがよく通る声で、マグナスが制した。玉座に座したまま緩やかに手を挙げた仕草に、配下たちは一斉に口を噤む。「慌てることはない。勇者だろうと、この城にはそう易々と辿り着けまい。まずは様子を見るとしよう」

 

落ち着き払った魔王の言葉に、全員が恭しく頭を垂れた。「はっ、仰せのままに」


ルシエラたちは即座に命に従い、それぞれ所定の配置へと散っていく。玉座の間には再び静寂が訪れ、青白い灯火だけがゆらゆらと揺れていた。  


マグナスは重厚な玉座の背にもたれ、深く息を吐く。報告が告げた状況は、事前の予測通りとはいえ緊迫していた。いよいよ人間たちが動き出したのだ——自分たちを“魔王”と決めつけ、滅ぼさんとする人間たちが。

 

「魔王、か……」マグナスは小さく呟いた。玉座の間には他に誰もいない。漆黒のフードの奥で、彼は瞳を閉じた。「俺が……魔王、か」


胸の内で繰り返したその言葉には、微かな苦味が滲んでいた。魔王——いつから自分はそう呼ばれる存在になったのだろうか。異世界に転移し、この圧倒的な力と軍勢を手に入れた瞬間から、周囲は勝手に自分を悪しき支配者に祭り上げた。だが本当に自分は人々に仇なす“魔王”なのか?

 

マグナスの脳裏に、遥か昔の——いや、元いた現実世界の記憶が去来する。平凡な社会人として生き、そして夜毎にゲームの中で冒険者を演じていた田中守としての記憶。かつて彼が憧れ、目指していたのは、勇者たちと同じ“人間側の正義”ではなかったか。魔物を倒し、困っている人々を助け、仲間と笑い合う——そんな在り方に。

 

「なのに、今の俺は……」

 

マグナスは瞼を開け、自嘲するようにかすかに笑った。現実は皮肉だ、と心が囁く。今や彼は魔族を率い、人間から恐怖される存在だ。忠誠を捧げる配下たちは、自分のためなら人間を殺すことも厭わない。実際、その通りの行動を遂行してきた——人間の斥候を殺し、結界に迷い込んだ者を弄び、容赦なく排除してきたのだ。もちろん、それは魔城と住民を守るために必要な措置だった。しかし胸の奥のどこかで、守は引っかかりを覚えていた。

 

人間を、単なる敵と割り切ってしまって本当にいいのだろうか……?

 

誰にも届かぬ問いが、闇に沈む玉座の間に溶けて消えた。  


一方その頃、聖光王国レグナードの勇者一行は黒城の目前にまで迫っていた。城から数キロメートル離れた辺境の森は、昼なお薄暗い不気味な静けさに包まれている。背の高い針葉樹が無数に聳え、その地表には霧が立ち込めていた。瘴気混じりの霧は粘つくようにまとわりつき、吐く息すら冷たく淀ませる。

 

「……嫌な気配ね」先頭に立つ魔術師イリスが、険しい表情で周囲を窺った。紫紺のローブに身を包んだ彼女は、手にした宝杖をぴんと張り詰めた空気の中に掲げている。杖先の宝玉が青白い光を放ち、僅かに霧を払った。「空気が淀んでる……まるで周囲一帯を覆う瘴気の結界があるみたいだわ」

 

「ここまで来れば城が見えてもおかしくないはずだが……」聖騎士レオンハルトが厳かに呟く。勇壮な鋼の甲冑に身を固め、聖印を刻まれた長剣を帯びたその姿は、闇の中でも微かな光に照らされ威風堂々としていた。「霧が深すぎて、何も見通せん。まさかこの霧自体が魔術で生み出されたものなのか?」

 

レオンハルトの問いに、イリスは静かに頷いた。「ええ、おそらく。この霧は自然じゃない……何らかの魔法陣があるはずだけど……」彼女は眉をひそめ、足元の地面を凝視した。しかし生い茂る苔の下に魔法陣の刻印など見当たらない。「範囲が広すぎて特定できないわ。もしかすると、遠隔的に空間そのものに干渉する高度な魔法かも……」

 

「どのみち、進むしかないだろう」勇者アレンが毅然と言い放った。二十歳そこそこの精悍な青年である彼は、簡素な旅人のような装いながら、その背には銀の輝きを放つ大剣を背負っている。「黒城はこの森の奥……間違いない。俺たちが止まれば、その分だけ犠牲が出るんだ」

 

アレンの言葉に、誰も異を唱えなかった。彼ら四人は意を決して、濃霧渦巻く獣道へと足を踏み入れていった。  森の中は奇妙なほど静まり返っていた。鳥の囀りも獣の遠吠えもなく、聞こえるのは自らの足音と鎧の擦れる音だけ。四人は身構えながら慎重に進んだ。やがて、森を抜け城へと続くはずの開けた地形に差し掛かる。だが——。

 

「……おかしいわ」イリスが立ち止まり、辺りを見回した。「森を抜けたはずなのに……また森?」

 

彼女の言う通りだった。霧が晴れかけ、行く手に城への道が拓けるはずだった。しかし前方にぼんやりと浮かび上がったのは、暗い木立の列だった。周囲を確認すれば、背後にも、左右にも、深い森が続いている。いつの間にか彼らは、見知らぬ森の中に逆戻りしていたかのように四囲を木々に囲まれていた。

 

「そんな馬鹿な……確かに一直線に進んだはずだ」レオンハルトが訝しげに声を荒げる。「進路は間違えていない。なのになぜ——」

 

「見て」セシリアが小さく悲鳴じみた声を上げた。彼女は祈祷師としての法衣に身を包み、震える手で聖印を握り締めている。「あ、あれ……さっき私たちが通った場所じゃありませんか?」

 

彼女の指差す先、暗い苔の地面に一筋の擦れた跡があった。それは先ほどレオンハルトが試しに甲冑の刃で木の根を払った痕に酷似している。

 

「確かに……同じものだ」レオンハルトの額に汗が浮かぶ。「だとすれば、我々は……」

 

「同じ所をぐるぐる回っている……?」アレンが絞り出すように言った。静かな焦燥が仲間たちの心に広がるのを感じる。どれほど進んでも森を抜けられない——それどころか、知らぬ間に元の場所へ引き戻される——常識ではあり得ぬ現象が目の前で起こっているのだ。


「やっぱり……これは結界よ」イリスが悔しげに唇を噛んだ。「強力な空間魔法で私たちは迷わされているのよ」

 

「解く方法は?」アレンが問う。

 

「……探してみるわ」イリスは眉間に皺を寄せ、静かに目を閉じた。魔力を練り上げ、精神を集中させる。やがて彼女の周囲に七色の光の粒が立ち昇り、空中に幾何学模様の魔法陣が浮かび上がった。「《ディテクト・マジック》!」

 

霧の中に淡い波紋が走った。しかし——結果は芳しくない。魔法陣はすぐに空気に溶けるように霧散し、イリスはがくりと肩を落とした。「……ダメ。瘴気が強すぎて、魔力の流れが読み取れない」

 

「おい、みんな静かに!」突然、レオンハルトが声を低くして促した。全員が息を潜める。どこからか、微かに音が聞こえた気がした。……否、音ではない。声だ。耳鳴りのような、誰かの囁き声。

 

「……どこだ? 誰の声だ……?」

 

勇敢な聖騎士の顔にも、流石に緊張が走る。周囲を警戒しながら四人は背中合わせに身構えた。濃密な霧の帳の向こう、ゆらゆらと揺れる人影のようなものが見えた。否、それは一本の木の幹がそう見えただけかもしれない。だが確かに今、誰かの嘲笑うかのような声が——。

 

「っ……!」セシリアが頭を振り、震える声で聖句を唱え始めた。「おお偉大なる光の主よ、哀れな子羊らをお救いください……!」

 

彼女の祈りに応じるように、握りしめた聖印が白く輝き出す。周囲の霧が一瞬だけ薄らぎ、不気味な囁きはぴたりと止んだ。

 

「……はぁ……はぁ……」セシリアは浅い呼吸を繰り返しながら、何とか微笑んでみせた。「だ、大丈夫です……神のご加護が……きっと……」

 

彼女の額には玉のような汗が浮かび、祈りの反動で全身が震えている。アレンはそんな彼女にそっと手を置き、静かに頷いた。

 

「ありがとう、セシリア。皆、落ち着こう」彼は仲間たちの顔を順に見渡して言った。「これは敵の罠だ——俺たちを怖がらせ、混乱させようとしている。深呼吸して、心を強く持つんだ」

 

その瞳には決意の炎が燃えている。しかしその内心で、アレン自身もまた恐怖を感じていた。生まれて初めて経験する超常の迷宮——その中で頼りは自分と仲間の力だけなのだ。本当にこの先へ進めるのか、一瞬でも迷えば絶望に呑まれてしまいそうだった。だが、彼は弱音を吐けない。皆の視線が自分に集まっているのを感じる。勇者として、聖戦の旗印として、自分が挫けるわけにはいかなかった。

 

アレンは己の胸に言い聞かせるように、繰り返した。「俺たちはきっとやり遂げる。神が試練を与えたもうたのなら、必ず抜け出せる道も用意されているはずだ」根拠のない言葉だった。それでも信じなければならない——そうでなければ、自分たちは既に心折れてしまうから。

 

レオンハルトが静かに剣を抜いた。聖なる銀の刃が霧の中できらりと光る。「勇者殿の仰せの通り。この程度の幻惑、正義の刃で断ち切ってみせよう」

 

彼は渾身の力で周囲の空間に向け斬りつけた。斬撃に伴う聖なる光が閃き、周囲の木々と霧を一瞬照らし出す。が——変化は何も起こらない。霧は依然としてそこかしこに漂い、ただ木の幹に浅く刃痕が残っただけだった。

 

「くそっ……!」レオンハルトが悔しげに舌打ちする。「物理的に叩いても無駄か……」

 

「少しずつでも範囲を出るしかないわ。とにかく歩き続けましょう」イリスが提案した。「目印を付けながら進めば、閉じた空間でも重なる座標軸が割り出せるかもしれない」

 

彼女は手早く腰のポーチから粉状の染料を取り出すと、足元にぱっと撒いた。黒い土に鮮やかな白い線が描かれ、霧がそれを覆い隠す前に四人は再び歩き出す。

 

それからどれほど経っただろうか。何度歩いても同じ景色が続き、いくつもの方角へ進んでは元の場所へ戻された。地面の印は幾重にも重なり、足取りは次第に疲弊して重くなっていく。四人の間にも会話は減り、ただ互いの存在を確認し合う息遣いだけが闇に響いた。

 

イリスは額の汗を拭い、唇を震わせた。「だめ……全く糸口が見えない……私の力じゃ……」

 

「そんなこと言うな、イリス」アレンが振り返り、彼女の肩に手を置いた。「君の魔法がなければ、俺たちはここまで来られなかったんだ。諦めるには早い」

 

しかし彼自身、既に疲労で足元がおぼつかなくなりつつあった。体力ばかりか、終わりの見えない閉塞感が心に重く圧し掛かってくる。冷たい霧と静寂……まるで世界から切り離されたかのような孤独。知らず胸を過ぎるのは、敗北の二文字——。

 

(……いや、考えるな)

 

アレンは頭を振った。立ち止まれば最後だ。拳を握りしめ、歯を食いしばる。疲労に震える足を前へ——。

 

「……無理……もう無理よ……っ!」不意に、セシリアが悲鳴のような叫び声を上げた。彼女はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆っている。「どうして……どうして抜け出せないの……? このまま……死ぬまでここを彷徨うの……?」

 

押し殺していた恐怖が一気に噴き出したのか、彼女の肩が震え始める。イリスが慌てて抱き留め、その背を擦った。

 

「大丈夫、セシリア……正気を保って。私たちはまだ——」

 

「もう……いや……だって……!」セシリアの声は嗚咽に塞がれた。半狂乱のように首を振る彼女の表情は、霧の中で青ざめて見える。

 

レオンハルトが険しい表情でその様子を睨んでいたが、やがて鋭い声で叱咤した。「セシリア殿! 弱音を吐くな。我らは何のためにここまで来た! 貴女が信仰を捨ててしまっては、この闇に屈したも同然だぞ!」

 

彼の言葉にセシリアははっと目を見開いた。涙に濡れた瞳で、金髪の聖騎士を見つめる。レオンハルトは厳しい表情を崩さずに続ける。

 

「私は、祖国ヴァルトリアに妻と娘を残してここに来た。彼女らの未来を脅かす魔の存在を見過ごすわけにはいかないからだ。アレン殿も、イリス殿も、それぞれ背負ってきたものがあるはずだ。我々はそんな簡単に絶望していい身ではないだろう!」

 

力強い宣言が四人の胸に響いた。レオンハルトは己を奮い立たせるように聖剣の柄を握りしめる。その瞳に浮かぶのは、故国に残した幼い娘の姿——そして、闇を討ち晴らし再び家族の元へ帰るという固い決意だった。

 

「……レオンハルトさん……」セシリアが涙を拭い、震える声で答える。「すみません……私……取り乱して……」

 

「いや、誰しも恐怖するさ」レオンハルトは少しだけ笑みを見せた。「怖いのは皆同じだ。だがそれでも前に進まねばならん。……大丈夫、私は貴女を命に代えても守る。約束しよう」

 

落ち着きを取り戻したセシリアが、小さく頷いた。再び仲間たちの間に士気が灯り始めるのを感じ、アレンは静かに感謝した。レオンハルトは流石だ——心の迷いを断ち切り、皆の魂を繋ぎ留めてくれた。

 

アレン自身も、鼓舞された思いだった。そうだ、自分には果たすべき使命がある。村で自分を送り出してくれた家族や友人、そして何より大義を託してくれた国王と大神官への誓い。その全てを胸に抱いている限り、ここで倒れるわけにはいかないのだ。

 

勇者は決然と顔を上げた。「皆……ありがとう。もう一度、進もう」彼は静かに拳を握りしめる。「この霧も、必ず抜ける道があるはずだ」

 

疲労と絶望に沈みかけていた仲間たちが、一人また一人と頷き返す。イリスは震える膝を伸ばして立ち上がり、セシリアもなんとか体を起こした。レオンハルトは長槍を杖代わりにしながらも、相変わらず毅然としている。彼らの目には、再び闘志の光が宿っていた。

 

アレンは深く息を吸い込むと、改めて剣を握った。「行こう。闇の結界が何だ、俺たちの信じる正義を貫くだけだ!」

 

四人は互いに力強く頷き合った。そして、闇の迷宮の中へと再び足を踏み出した——。  


その頃——魔城の尖塔にある玉座の間では、マグナスが静かに片手をかざし、淡い光を宿す魔法の鏡像を空中に映し出していた。その鏡面には、霧深い森の中で奮闘する四人の人間たちの姿が捉えられている。異空間結界内の様子を投影したのだ。マグナスは深紅の瞳を細め、彼らの一挙一動を凝視した。

 

勇者アレン——背に聖なる大剣を負った若者は、仲間を励まし自ら先頭に立って進み続けていた。疲労の色を浮かべつつも、仲間を鼓舞するその姿からは不屈の意志が感じられる。彼の背負う大剣は尋常な代物ではない。鏡越しにも聖なる光の波動が伝わってくるようだ。それを振るわれれば、闇の眷属に多大な損害を与えかねない……厄介な武器だとマグナスは評価した。同時に、あの若き勇者自身も侮れない。恐怖に怯えながらも立ち上がり続ける強靭な精神力——あれは天賦の勇気か、それとも使命感ゆえか。いずれにせよ、生半可な脅しでは彼の闘志を砕くことは難しいだろう。

 

その隣で仲間を守るように立ち回っているのが、白銀の鎧に身を包んだ聖騎士レオンハルトだ。さすがは“伝説の勇者の再来”と謳われる剣豪だけあって、迷宮の中でも冷静さと戦意を失わない。先程も、泣き崩れそうになった僧侶を叱咤し、皆の士気を立て直してみせた。あの強烈な信念と統率力……部下を率いる将としても卓越しているようだ。自身の身を顧みず仲間を庇おうとするその姿からは、高潔な武人の矜持がうかがえる。ただ——マグナスの目には、レオンハルトの行動はあまりにも正攻法一辺倒に映った。光で霧を払おうと聖剣を振るい、声を荒げて敵を威圧しようとする様は、正直に言えば単純だ。この男は真正面からの戦いにおいて無類の強さを発揮するだろうが、裏をかく策には脆いかもしれない。

 

一方、紫紺のローブ姿の魔術師イリスは、知性の光を瞳に宿して結界の謎を解こうと奔走していた。彼女は何度倒れかけても諦めず、魔力探査や印の設置など、持てる技を駆使して打開策を模索している。結果的に結界の力が勝って出口を見出せていないとはいえ、その試行錯誤と冷静な分析力は賞賛に値した。もし十分な時間と情報が与えられれば、彼女はこの異空間結界の仕組みを見破ってしまうかもしれない——マグナスは内心そう警戒する。魔術師としての彼女の実力は高位に属するものだ。この迷宮に閉じ込めておけば怖くはないが、解き放たれた状態で真正面から魔法戦を挑まれれば、それなりの手強さとなるだろう。

 

そしてもう一人、僧侶セシリア。幼げな面差しの女青年だが、その祈りの力は侮れない。先ほど彼女が発した聖なる祈祷の一節は、結界内部の瘴気をわずかながら後退させたほどだ。おそらく高位の神官に匹敵する聖なる加護を受けているのだろう。彼女自身は脆く、恐怖に涙を流していたが——その信仰心ゆえに極限では奇跡的な力を引き出すこともあり得る。さらに僧侶である以上、癒やしの奇跡で仲間の傷を癒やし、疲労を払うこともできる。長期戦になれば、このセシリアという少女の存在が勇者一行を何度でも立ち直らせる要となるはずだ。逆に言えば、彼女の心を砕き、戦意を喪失させてしまえば……残る三人もいずれ疲弊するに違いない。

 

(実に巧みに役割の分担された一隊だ……)

 

マグナスは四人の様子を見比べ、感嘆にも似た思いを抱いた。攻撃の要たる勇者、防御と前線指揮の聖騎士、魔法戦と知略を担う魔術師、支援回復を司る僧侶——まさしく典型的でありながら理想的な“勇者のパーティ”ではないか。互いに助け合い、欠点を補い合いながら、先ほども絶望しかけた仲間を鼓舞して立ち直ってみせた。その絆と士気の強さは、本物だ。

 

霧の中、再び歩み出した四人の顔には、決意の色が浮かんでいる。マグナスはしばし彼らの沈黙の行軍を見つめていたが、やがてふっと息を吐いた。胸中に去来する感情を持て余し、そっと目を伏せる。

 

——本当に、敵なのだろうか。この者たちは。

 

鏡像に揺れる勇者たちの姿は、どこか幻のように思えた。異世界の住人であり、本来なら自分とは何の縁もなかったはずの人間たち。しかし彼らが見せた友情、勇気、そして弱さも含めた人間らしい葛藤は、マグナスの記憶にある“人間”そのものだった。

 

彼は思い出していた。自分がまだゲームの中で一冒険者として仲間と共に迷宮に挑んだ日々を。たとえ仮想の世界でも、仲間たちと力を合わせて強大な敵を倒した時の喜び——そして時には無謀な挑戦に敗れて全滅し、笑い合った苦い記憶すらも。

 

今、目の前の魔法鏡に映る光景は、あまりにも酷似している。違うのは、自分が立っている側が“魔王”の側だということだけ……。

 

マグナスは拳を握りしめた。知らず、痛いほどに強く。

 

(彼らもまた……誰かのために戦っているだけなのかもしれない)

 

ふと、レオンハルトの叫びが脳裏に蘇る。彼は妻子のために剣を取ったと言っていた。セシリアも神への誓いを胸に、この戦いに身を投じているのだろう。勇者アレンとて同じだ。祖国の民を守るという使命感が、彼を突き動かしているに違いない。

 

もし自分が彼らの立場であったなら——間違いなく魔王を討つため剣を振るっていたはずだ。正義を信じ、人々を守るために。


「……俺は……どうすればいい」

 

マグナスの呟きは、闇に呑まれて消えた。己の掌を見る。その手は強大な闇の魔力を帯び、人間から見れば禍々しい怪物のそれだろう。自らの選択如何で、多くの命を奪うことすらできる力。それが今の自分だ。

 

彼は迷っていた。配下たちは自分を信じ、世界征服の魔王として疑っていない。それに応えるべく行動するのが“王”としての責務なのだろうか。しかし——果たしてそれで良いのか、と心の片隅が叫んでいる。

 

出来ることなら、無用な戦いは避けたい。勇者たちとも剣を交えずに済むなら、それに越したことはない。だが相手は自分を滅ぼすためにやって来たのだ。話し合いで解決する望みは薄い。それでも……。

 

マグナスは静かに立ち上がった。もはや逡巡している時間もない。鏡像の中の勇者たちは、なおも結界の中で前進を続けている。今は結界に閉じ込めているからいいものの、このまま延々と彷徨わせて衰弱させるのも胸が悪い。いっそ、一度城内に迎え入れよう——直接顔を合わせ、対話の一つでも試みてみる価値はあるのではないか。

 

それで果たして和解できるとは思えない。だが彼らの覚悟を、その目で確かめてみたいという気持ちがマグナスの中で膨らんでいた。敵としてではなく、一個の人間として。

 

決意すると、マグナスは片手を上げて結界に念じた。彼の意思に呼応し、霧の中に異変が生じる——。  


どれほど歩き続けただろうか。半ば無意識に足を動かしていたアレンたちは、不意に顔を上げた。濃霧の帳に変化が起こったのだ。見る間に白い霧が薄らいでいく。それどころか、いつの間にか周囲の森が途切れていた。「みんな、見て……!」イリスが驚きに目を見張る。

 

目の前の光景が一変していた。あれほど延々と続いていた陰鬱な森はどこにもない。代わりに灰色の荒れ地が広がり、その正面には巨大な黒い城門がそびえていたのだ。

 

「城……黒い城門だ!」レオンハルトが叫ぶ。「結界を抜けたのか?」

 

「ええ……間違いないわ」イリスは呆然と頷いた。いつの間にか瘴気も影を潜め、空気の淀みが嘘のように消えている。「どういうこと……急に結界が……?」

 

「神が道を開いてくださったのでしょうか……」セシリアが胸の聖印を握りしめ、天に祈るように言った。彼女の頬にはまだ涙の跡が残っていたが、その瞳には微かな安堵の色が浮かんでいる。

 

しかしレオンハルトは油断なく周囲を睨め回した。「いや……敵が結界を解いたと考えるべきだ。おそらく我らを城へ誘い込むつもりだろう」

 

「誘い込む……」アレンは城門を見据えた。高さ数十メートルはあるだろう巨大な門扉。その向こうに、幾重にも連なる漆黒の尖塔が聳えている。おびただしい闇の気配が、そこから流れ出てくるようだった。


「……罠かもしれない。それでも行くしかないさ」

 

アレンは自分に言い聞かせるように呟いた。ここまで来て退くという選択肢はなかった。結界が解かれた今が唯一の好機かもしれないのだ。「みんな、準備はいい?」

 

レオンハルトは頷き、剣の鍔に手を掛けた。「いつでも戦える」

 

イリスも小振りの魔導書を開きながら言葉を返す。「私も平気よ。魔力もまだ十分に残っているわ」

 

セシリアは震えを堪えつつ微笑んだ。「……ええ。きっと大丈夫です。神の御加護がありますように……」

 

それぞれが決意を新たにし、四人は隊列を整えた。アレンが先頭に立ち、レオンハルトが隣で盾のように並ぶ。後方にイリスとセシリアが続いた。

 

不気味な静寂の中、勇者一行はゆっくりと黒城の城門へと歩を進めていく。巨石で築かれた城壁はそそり立ち、人を拒むかのように威圧的だ。門前に至ると、鋼鉄の巨大な両開き扉は閉ざされたまま彼らを迎えた。蝙蝠の翼を象った古びた装飾が嫌な光を放っている。

 

アレンは一行に手で制し、慎重に門の前へ進み出た。触れれば何か仕掛けが発動するかもしれない。彼は緊張で喉が渇くのを感じつつも、精一杯の声で城壁に向かって叫んだ。


「魔王マグナスよ! 俺たちは聖光王国の勇者アレン率いる討伐隊だ! 今ここに来訪を告げる!」

 

霧は晴れたものの辺りに人気はなく、返事はない。風が砂礫を巻き上げ、城壁の陰からは重苦しい闇の気配が漂うのみだ。

 

「……開ける気はないようだな」レオンハルトが剣を半ば抜き放ちながら低く言った。「押し入るしか——」

 

と、その時。耳をつんざくような轟音とともに、黒城の門扉がゆっくりと開き始めた。重厚な金属音が大地を震わせ、四人は反射的に武器を構える。暗闇が口を開けるように、巨門は内側から招き入れるかの如く左右に割れていく。


「……ようこそ、勇敢なる客人たちよ」

 

どこからともなく響いた声に、アレンたちははっとした。それは低く静かながら、広大な城内に反響してこちらに届いた。男の声——凄みのある、しかしどこか余裕に満ちた声色だった。

 

アレンは喉を鳴らし、握った剣に力を込める。「まさか……魔王マグナスか?」

 

答えるように、城門の向こう——漆黒の闇に覆われた回廊に、ぽつりぽつりと青白い燐光の灯りが灯っていく。その先に続くのは玉座の間へ伸びる真紅の絨毯。まるで自らを訪ねよと言わんばかりの演出だった。

 

「……行くぞ」アレンが振り返り、仲間たちに頷いてみせる。四人は身を寄せ合うようにしながら、ゆっくりとその開かれた闇の門へと足を踏み入れた。  


高くそびえる魔城の尖塔。その最奥で相対する“魔王”と“勇者”——果たしてその対面は、いかなる結末を迎えるのか。誰も知る由もなかった。

最後までお読みいただきありがとうございます!


「ゲーム×異世界×魔王」という構図の中で、

主人公・マグナスがどのように“王としての答え”を出していくかを描いていきます。


本作は重厚でダークな展開が中心となりますが、配下NPCとのやり取りや、

魔王であることの“光と影”にも焦点を当てながら進めてまいります。


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今後ともどうぞよろしくお願いいたします

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