プロローグ
常闇の玉座の間に、静寂が支配していた。かつて数多の冒険者たちが集い、歓声と共に栄華を極めたギルド城も、今宵ばかりは不気味なほどに静まり返っている。高くそびえる尖塔の一室、漆黒の大理石で築かれた玉座の間には、長大な赤絨毯が敷かれ、両脇には青白い魔灯が揺らめいている。その中央、玉座に腰掛ける一人の男——田中守は、黙したまま虚空を見つめていた。
田中守、三十歳。現実では平凡な会社員である彼は、五感同期型VRMMORPG『エクリプス・オンライン』の熟練プレイヤーだった。ゲーム内では「マグナス」の名で知られ、伝説的ギルド《マグナ・ドミニオン》のギルドマスターを務めていた男である。彼のアバターは“深淵召喚士”と呼ばれる最強クラスの魔導士であり、その威容は今も玉座の上で暗黒の王として君臨している。
マグナスの装いは漆黒を基調とした重厚な魔導士ローブ。その表面には淡い赤紫の光を放つ不気味な召喚紋章が幾重にも描き込まれており、闇に沈む玉座の間に妖しい輝きを投じている。フードの奥で紅玉のような双眸が静かに煌めき、露わになった両手の肌には禍々しい召喚陣の刻印が脈動するように浮かび上がっている。玉座の傍らには彼の愛用する『深淵の杖』が立てかけられていた。黒曜石で精製されたその杖は、先端に血染めのように赤い水晶玉を抱き、微細な魔力の燐光を放っている。
また、彼の全身には常闇の霧がゆらめき、周囲の空間を歪めるかのような不穏な気配を漂わせていた。 現実世界の田中守から見れば、これらはすべて自分が創り上げ、身に着けてきたゲーム上の虚構——そう、ほんの数分前までは確かにそうだった。しかし今、この瞬間だけは違う。守は静かに息を飲み、脈打つ心臓の鼓動に意識を傾けていた。虚構であるはずの世界が、今宵限りで終焉を迎えようとしている。壁際の大時計が、ゆっくりと午前零時を指そうとしていた。『エクリプス・オンライン』のサービス終了まで、残り僅か——カウントダウンは刻一刻と迫っている。
「……これで、本当に終わりか」守は玉座に深く腰掛けたまま、ぽつりと呟いた。
答える者は誰もいない。既にギルドメンバーたちは現実へと戻り、この最後の夜を共に過ごす仲間は残っていなかった。かつて十数名を数えた《マグナ・ドミニオン》の同志たちは、一人また一人とゲームを離れ、現実の日常へと帰っていったのだ。忙しい社会人生活の合間に集い、砦を築き、数々の戦場を駆け抜けた日々——それらも今は遠い記憶となりつつある。田中守ことマグナスは、その思い出の詰まった玉座の間で、ただ一人ゲームの最期を見届けようとしていた。
皆……元気でやっているだろうか、と守は胸中でかつての仲間たちの顔を思い浮かべる。共に笑い、泣き、怒り、そして歓喜した夜の数々。あれほど熱中した冒険譚も、今や思い出に変わろうとしているのだ。誰もが現実生活に戻り、新たな一歩を踏み出している。その事実を守は理解していた。自分もまた、明日からはただの一会社員として日常へ復帰しなければならない……そのはずだった。
午前零時、サーバー終了の刻限が訪れた。
ぐらり、と世界が揺らいだ気がした。——いいや、それは気のせいなどではない。玉座に座する守の身体が、不意に沈み込むような浮遊感に襲われる。同時に、耳元で「ボン」という圧力波のような音が鳴り、視界が一瞬だけ暗転した。
「……うっ!」思わず呻きが零れる。五感同期型VRといっても、通常ゲーム内で痛みを感じることはほとんどないはずだ。なのに今、確かに守は軽い眩暈と耳鳴りを覚えていた。まるで高所から急降下したかのような強烈な感覚に、思わず玉座の肘掛を握りしめる。
次の瞬間、彼の瞳に飛び込んできた光景は、それまでとは決定的に異なっていた。先ほどまで静止画のように動かなかった城内の燭台の炎が、今はゆらゆらと揺れ動いている。遠く廊下の彼方から、風が吹き抜ける音がかすかに聞こえてくる。石造りの城の空気はひんやりと冷たく肌を撫で、ローブの布擦れがかさりとかすかな音を立てた。
「……え?」守の口から思わず戸惑いの声が漏れた。今、自分は確かに“肌で”空気の流れを感じた。VRゲームでは視覚・聴覚・触覚がある程度再現されていたとはいえ、痛覚や繊細な感覚は安全のため制限されていたはずだ。だがこの生々しい感触はどうだ。まるで本当に異世界に迷い込んだかのような——。
守は玉座から身を乗り出し、自らの右手を見下ろした。淡い魔光に照らされたその手の平には、禍々しい紋章が刻まれている。ゲーム内で何度も見慣れた自分のアバターの手。しかし今は、その紋様が皮膚に焼き付いているかのようにリアルに隆起し、かすかに熱を帯びているのが感じ取れた。「これは……?」恐る恐る左手で触れてみる。ざらりとした感触、焼け焦げた痕のような硬質さすら伴うその肌理に、ぞくりと背筋が震えた。
マグナス——いや、田中守は混乱する頭を振り払い、周囲を見回した。依然として闇の城の玉座の間であることに変わりはない。だが先ほどまで感じていた仮想世界特有の微かな違和感が、今は皆無だった。全てが現実そのものの質感を帯びている。まるでゲームの中に入り込んでしまったような……いや、それ以上の臨場感。彼は立ち上がろうとして、一瞬ためらった。現実ではデバイス越しに味わう疑似的な動作だった“立ち上がる”という行為が、今はまるで本物の身体のように感じられる。おそるおそる玉座から腰を浮かせ、片足を一歩踏み出してみた。足元の感触——堅牢な石床の冷たさまでが、くっきりと伝わってくる。微塵の遅延もない、生身の感覚……。
「まさか……ログアウトし損ねた、のか?」思考が追いつかず、守は混乱する頭で即座に状況を分析しようと試みた。午前零時を過ぎても、自分の意識はこうしてゲーム内に留まっている。だが、もはやゲームとは思えない感覚のリアルさ……。まさか、本当に自分ごとゲーム世界に閉じ込められてしまったのか?それとも、サービス終了後の世界にポツンと取り残されたバグか何かなのか?「いや、そもそもサーバーが停止しているなら、データ接続自体切れているはず……」ぶつぶつと独りごちてみるが、答えなど出るはずもない。
ひとまず、メニューを開いてログアウトを試みるしかない——守はそう判断し、意識を集中してシステムメニューを呼び出そうとした。通常であれば視界の端に表示されるはずの半透明のメニューウィンドウ。しかしいくら待っても、それらしきインターフェースは現れない。次いで試したフレンドリストやGMコールの念話も反応はなかった。「……くっ、駄目か」胸の内で小さく舌打ちする。ログアウトどころか通信も一切できないとすれば、もはやこれはゲームではなく現実だと考えた方が良さそうだった。
守は半ば呆然としつつも、試すように自らの内面へ意識を向けてみた。すると——感じた。身体中に巡る膨大な魔力の奔流を。そして脳裏には自らの能力の数々が次々と浮かび上がってくる。ゲーム内で習得していた高位魔法や多種多様なスキル、そのすべてが今の自分に宿っている感覚……マグナスとしての力は完全に保持されているのだ!
その事実に戦慄する間もなく——。
「ようこそお戻りになられました、我が主よ」
柔らかだが凛とした女性の声が、玉座の間に響いた。静寂を破ったその声に、守——いや、マグナスはハッとして顔を上げる。
いつの間にか、玉座の間の扉が開かれていた。そこから一人の女性がゆっくりと歩み出てくる。艶やかな銀髪が月の光を受けたように煌めき、漆黒の甲冑がしなやかで妖艶な肢体を覆っている。その肌は透き通るように褐色で、長く尖った耳が銀髪の間から覗いている。背後には大きく広げられた漆黒の翼——闇夜を司るような印象を与えるその姿は、見る者を圧倒する神秘性を放っていた。
彼女こそ、マグナ・ドミニオンの守護者長にして副官たるダークエルフ、ルシエラである。かつてゲーム内で守自身が創造し、長らくギルドを預けてきたNPC——否、今は自らの意志を持ち、生き生きとした感情をその瞳に宿した一個の人格として存在している。その証拠にルシエラは恭しく片膝をつき、主であるマグナスに最大限の敬意を示していた。
「お目覚めを心待ちにしておりました…陛下。」ルシエラは頭を垂れたまま、凛とした美しい声音で続ける。「城内は平穏にて、配下の者たちは皆、主の御指示を仰ぐため待機しております。どうか御身におかれましては、ご無事で何よりに存じます。」
彼女の声には確かな意思と忠誠が込められていた。ゲーム時代、ルシエラが発する言葉といえば「ようこそお帰りなさいませ、マスター」といった定型文のみで、プレイヤーが特定の指示を与えなければ反応すら示さない存在だった。しかし今、目の前の彼女はまるで生身の存在そのものだ。流れるように言葉を紡ぎ、その瞳には鋭い知性と、主人公マグナスへの深い敬愛が煌めいている。
(嘘だろ…本当に自我に目覚めているのか?)
マグナスは驚愕を隠し切れず、必死で平静を装った。胸の奥では感動と混乱が激しく渦巻いている。だが、ここで取り乱すわけにはいかない。自分が創造したNPCとはいえ、今や彼女は一人の忠実な臣下として、自分を信じ切っている。その信頼に応えなければならないのだ。
喉の奥に絡みつく興奮を抑え込み、マグナスは玉座の間に響くよう低く穏やかな声音を作り出した。
「うむ、顔を上げよ、ルシエラ。」
現実の田中守としての声よりも低く重厚なその声音は、確かにアバター・マグナスとしての声そのものだった。玉座の間に響き渡るその言葉は、本物の魔王が下した命令そのもののように威厳に満ちていた。
ルシエラがゆっくりと顔を上げた。艶やかな銀髪の間から見える彼女の瞳には、安堵と深い忠誠心が潤んでいる。
「お言葉、痛み入ります…陛下。こうして再びお側にお仕えできること、ルシエラにとりまして無上の喜びにございます。」
彼女の微笑は清楚でありながら、どこか妖艶さを漂わせていた。闇を纏うダークエルフにふさわしいその美貌は、見る者の心を掴んで離さない魅惑的な気高さを放っていた。
マグナスは心中で唾を飲み込む。この感動的な光景に圧倒されそうになる自分を、何とか律する。「そうか…。こちらこそ、お前たちが無事でいてくれて安堵した。」何とか平静を保った声でそう告げると、ルシエラは深く頷いた。
(す、凄いなこれは…。まさか本当にゲームのNPCと会話できる日が来るとは)内心の興奮は尽きない。ルシエラだけではない、彼女の言葉によれば他の配下NPCたちも皆自主的に行動し、今や自分の指示を待っているという。マグナ・ドミニオンにはルシエラの他にも、創造を共にした仲間たちの魂を宿す守護者——ゼルガド、ドラガン、ヴィクター…そうした忠臣たちが揃っている。彼らもまた自我に目覚めているのだとすれば……胸の高鳴りを抑えられない。守はかつて共にこの城を築いた友の存在を思った。仲間たちが丹精込めて創り上げたNPC達が、今こうして命を得て自分に仕えてくれている。この事実に気付いた時、彼の中で一つの決意が生まれつつあった。
「ルシエラ、尋ねたいことがある」マグナスは改めて副官に問いかけた。「先程…何か異変を感じなかったか?城に、あるいは周囲の様子に変化は?」あえて淡々とした口調で尋ねる。自身が受けた不可思議な転移現象について、配下も感知していたのか確認したかった。
「はっ。実は——」ルシエラの眉がわずかにひそめられた。どうやら心当たりがある様子だ。「つい先程、漆黒の結界石が一瞬強く脈動し、城全体に魔力の波動が走りました。まるで次元の境界が揺らぐかのような…未知の現象。このルシエラも感じたことのない不思議な力でございました。しかしすぐに鎮まり、現在は安定しております。私どもも突然のことで驚きましたが…陛下が目覚められれば何かお分かりになられるかと考え、お待ちしていた次第です」
彼女の報告に、マグナスは静かに頷いた。やはり彼だけの錯覚ではなく、何らかの大規模な異変が起きていたのだ。漆黒の結界石とはおそらくこの城の中枢をなす魔力炉のようなものだろう。ゲーム上では意識したこともなかったが、転移の際にそれが反応したのかもしれない。ルシエラや他の守護者たちも異変を察知していたが、原因は分からず主の判断を仰ごうとしていた——つまり、彼女たちも事態を完全には把握していないようだ。
(当たり前か。彼女たちにとってはこの世界が全ての現実なんだもんな…)マグナスは内心で自嘲気味に笑う。事情を説明しようにも、自分が「元はゲームの外の人間」だとは到底信じられないだろう。いや、信じさせる必要もあるまい。この先どれほど状況が変わろうとも、彼女たちは創造主たる自分に絶対の忠誠を誓っている。その事実は変わらない。ならば——
マグナスはゆっくりと玉座から立ち上がった。先程まで戸惑いに曇っていたその双眸には、既に覚悟の光が宿っている。「よく報告してくれた、ルシエラ。」静かながらも力強い声が、広い玉座の間に響く。「どうやら我らの身に、予期せぬ運命が訪れたようだ……」
ルシエラが不安げに主の言葉を待っている。マグナスは彼女に歩み寄り、その肩に優しく手を置いた。「だが、心配はいらぬ」自らの顔に微笑を湛え、ゆっくりとかぶりを振る。「我々は生きている。こうして共に在る。それこそ何にも代え難い幸運だ。状況は未知数だが…まずは皆の無事に感謝しようではないか」
「陛下……」ルシエラの瞳に、感激の色が広がる。彼女は深く頭を垂れ、「我らが主の御心に触れられたこと、深く感謝致します」と震える声で述べた。その仕草には絶対の忠誠と敬愛が滲んでいる。
胸が熱くなるのをマグナスは感じていた。目の前のルシエラだけでなく、きっと他の仲間たちも同じように自分を待ち、慕ってくれているに違いない。ならば、自分は彼らの主として何を為すべきか?守としての戸惑いは完全には消えていない。だが、それでも——彼は己の中に沸き起こる責任感と使命感を強く噛み締めた。
「ルシエラ、他の者たちを玉座の間に集めてくれ」マグナスは静かに、しかしはっきりと命じた。「我らが置かれた状況を確認し、今後の方針を定める。本来であれば突然の出来事に戸惑うところだが…」そこで一度言葉を切り、彼はかすかに笑みを浮かべる。「幸いにも、我らには城も仲間も力もある。恐れるものは何もないはずだ——違うかね?」
「仰せのままに、陛下!」ルシエラは目を輝かせ、力強く応じた。「主のお導きがあれば、我らマグナ・ドミニオンは如何なる試練にも打ち勝ちましょう!」
その確信に満ちた声に、マグナスは小さく頷く。彼女の揺るぎない信頼がひしひしと伝わり、身の引き締まる思いだった。
ルシエラは恭しく一礼すると、音もなく玉座の間を後にした。残されたマグナスは、一度大きく息を吐く。「ふう…」緊張から解放されたためか、先程まで張り詰めていた神経がようやく緩む。威厳ある態度を装っていたものの、内心では冷や汗をかいていたのだ。思わず現実世界の頃と同じ癖で額に手を当てそうになり——そこで自分の姿を改めて意識した。漆黒のローブの袖口から覗く手は、淡く闇の気配を纏っている。そう、田中守だった自分は今や“深淵の王”マグナスその人だ。常闇の城に君臨する魔王——それが今の自分の現実である。
混乱が完全に消え去ったわけではない。それでも、先ほどまでの戸惑いは嘘のように心が静まっているのを感じた。おそらく、ルシエラの真摯な姿に心を打たれたのだろう。どんな経緯でこの状況に至ったのかは分からない。だが彼女たち配下が自分を慕い、待ち望んでくれていた。それに応えることが、今の自分に課せられた使命なのだ。
「これは夢でも幻でもない…現実だ」マグナスは誰にともなく呟いた。響き渡る自分の声は底冷えするような静けさを伴いながらも、不思議と心強く思えた。「ならば——この現実を生き抜くまでだ」
魔王の仮面の下で、田中守としての内なる決意が固まってゆくのを、彼ははっきりと感じていた。暗黒の支配者として振る舞う覚悟と、配下たちを守り抜く責任。二つの想いを胸に、異世界ギルドマスターの新たな物語が今、幕を開けようとしていたのだった。
最後までお読みいただきありがとうございます!
「ゲーム×異世界×魔王」という構図の中で、
主人公・マグナスがどのように“王としての答え”を出していくかを描いていきます。
本作は重厚でダークな展開が中心となりますが、配下NPCとのやり取りや、
魔王であることの“光と影”にも焦点を当てながら進めてまいります。
感想・ご指摘・お気に入り登録など、いただけると励みになります!
今後ともどうぞよろしくお願いいたします!