第9話 2-3 新人プロテスト前日 海斗のバイト先の話
徳川万世の親友、元プロボクサーの権田坂実松と女将さんは、既に朝の買い出しを終え、【本日のメニュー】や定番メニューの様々な料理の仕込み作業を始めていた。
「おはようございます」
いつものように元気よく挨拶をしながら、海斗が【お食事処ごんべい】のお店の中に入ってきた。暖簾はまだ店の中にあった。
「おお、お早う」
権田坂が海斗に声をかけた。
「海斗君、お早う」
女将さんが笑顔で海斗の方を向いた。
店主の権田坂実松とおかみさんが笑顔で挨拶を交わした。
海斗は素早く上下を藍染の作業着(作務衣)に着替えた。
藍色の作務衣の背中には【ごんべい】の屋号が染め抜かれていた。この染め物は、長野県に住む女将さんの知人で、藍染研究家の女性が制作してくれたものだった。
藍染の作務衣を着て、折りたたんだバンダナを短髪の頭にきれいに巻いて、さわやかな印象をより際立させながら、海斗の身支度が終わった。
海斗の仕事は、毎朝お店の掃除と仕込みの手伝いから始まる。
朝八時から夕方近くまで途中休憩を挟みながら、昼前の午前十一時の開店時間に合わせて様々な準備をしていく。プロボクサーの体づくりを熟知している店主の権田坂とおかみさんは、滋養と栄養がある特別メニューを海斗のために毎日用意してくれていた。まだまだ体が大きくなる可能性が有り、将来減量に苦しまないようにと体脂肪を増やさない献立を心がけて作った。
子宝に恵まれなかった夫婦にとって、十三年前の東日本大震災の津波で父と母を亡くした海斗はまさに自分たちの本当の子供か孫のように思える存在になっていた。
元日本ジュニアフェザー級チャンピオンだった権田坂実松は、親友の徳川万世が連れてきた海斗を預かるようになった時から、両親を亡くした海斗の親代わりのつもりでおかみさんと世話をしていた。ボクシングの進歩の具合が気になってしょうがなかったが、下手に口を出してはいけないと考え、ぐっとこらえて見守っていた。
だから練習の状況や体の仕上がり具合を尋ねることは一度もしなかった。
ましてやプロボクシングの世界で勝つための技術や要諦を教えることはなかったし、海斗から求められない限りアドバイスをしようとはしなかった。
それは自分は引退してプロボクシングの世界から身を引いた人間であるという気持ちと、海斗の師匠は親友の徳川万世である、という配慮からだった。
海斗が自分から何か聞いてくるまでは口をはさむまいと心に決めていた。
海斗がどれだけ過酷な練習を毎日積み上げているかは、体脂肪の無い筋肉質の体つきを見ればすぐに理解できた。
明日、新人プロテストを受けることは知っていたが、敢えてそのことには触れずに普段通りの朝の会話でなるべく意識をさせないようにとの実松夫婦の気遣いを、海斗は痛いほど理解していた。御飯も炊きあがり、お味噌汁も出来ていたが、午前十一時の開店までにはまだ多少時間があった。
すべての仕込みと準備が整うまでは、【準備中】の札をお店の前に掛けてある。
暖簾はまだお店の中に立てかけて置いてあった。
十年程前は、月に二、三度の休みで、夜十時までやっていた時期もあったが、実松夫婦も寄る年波には勝てず、さすがに年齢を重ねてきて、長時間の立ち仕事は体力的に厳しくなっていた。
新型コロナの発生以降は国や県からの要請もあって営業時間は午前十一時から夜八時まで、お酒の提供は止め、営業日は月曜から土曜まで、日曜日は休業としていた。
約一年ほど前から海斗が働いてくれるようになったおかげで、二人の体の負担もかなり軽減された。加えて海斗のボクサーとしての成長と、十六歳の若者の人生を二人で見守るという親のような責任感のモチベーションが、二人にとってお店を続けられる原動力にもなっていた。
暫くするとおなじみの常連さんが一人、入り口の引き戸をあけて入ってきた。
近所でパン工房の店を開いている【松下幸介】だ。年齢は四十代半ばで、若い頃からパン一筋。パンの事がいつも頭から離れない、筋金入りのパン職人だった。
松戸市以外も含めて数店舗を奥さんと共同で経営していて従業員はパートを含め二、三十人程度で運営をしていた。子供は娘が二人。まだ中学三年生と一年生で、二人とも陸上部で活躍していた。三年生の姉が短距離、一年生の妹が中長距離と部活動に忙しかった。
パン工房は松戸の本店以外、ショッピングセンター等にテナント出店していて、朝十時からの営業が基本だった。
スタッフはその数時間前に出勤し、開店に合わせて準備をしていた。
松戸の本店は朝八時からの開店なので、松下夫婦は毎朝明け方から起きて家事とパンの生地作りの作業を始めるのが通常の段取りだった。
十数種類のパンが焼きあがり、スタッフが出勤して開店準備が整い一段落すると、奥さんと分担して他のお店を巡回していた。
松下が巡回しない日は、お昼を早めにとるために週に一、二度昼食を【ごんべい】でとる事を習慣にしていた。出来上がったばかりの新作のパンを抱えながら、いつも暖簾がかかる前にお店に一番乗りで入って来て、権田坂やおかみさんとゆっくり雑談をしながら食べる事を楽しみにしていたのだった。
松下のパン屋の経営者としての悩みは、小麦の価格と品質のバランスだった。
ここ数年毎年天候不順や為替の影響を受けやすい輸入の小麦に頼っている日本のパン屋の現状を何とか変えたいと考えていた。
国の行政や地方の農協と交渉し、国内産の小麦農家を増やして出来る限り安価な小麦の安定供給体制を構築する為に全国を飛び回ることもしばしばだった。
さらには町内の商店街で役員も務めていて、同時に徳川ジム後援会のメンバーでもあった。とことん面倒見のいい器の大きな人物だった。
「こんちはっ!」
松下が一番乗りを確認して満足そうに笑顔で入ってきた。
「あら、いらっしゃい」
おかみさんが明るくお客様への挨拶を返した。
「おお、松ちゃん、いらっしゃい!」
実松がいつもより少しぎこちなく応対した。
「いらっしゃいませ!」
海斗も顔を出して、お迎えをした。
「今日も一番乗りですねっ!」
海斗が松下に声をかけた。
「アハハ! 海斗君、分かってるねぇ。確か明日だったっけ、プロテストは?」
松下が明るく尋ねた。
実松が右手の人差し指を立てて口に押し当てながら松下に、
「しー」
と合図をした。
「あっ、こりぁまずいこと云っちゃったみたいだ」
右手で頭をかいた。
おかみさんも、
「あれまあ」
という顔で小さい口を丸くした。
「気にかけてもらってすみません。明日がプロテストです」
「東京の後楽園ホールというところでやります」
「初めて行くんで楽しみです」
海斗が松下さんに明るく笑顔で返答をした。
「そう、後楽園は初めて?なんかこう、どきどきしてないかい?」
「これゃまたまずいことを聞くなあ」
という顔をして実松が海斗を見た。
「ベンタと二人で受けるんで心強いです。それに田口さんが付き添ってくれます」
海斗が笑顔で力強く答えた。
実松とおかみさんがようやく安堵した柔和な表情になった。
「そりぁ良かったよ」
「その顔なら絶体大丈夫、合格間違いなしだ!」
松下さんが続けた。
ようやく安心した顔になった実松の方を松下さんが見た。
「当ったり前だよ。なあ?」
実松がおかみさんの方を見ながら同意を求めた。
「ええ、絶対大丈夫ですよ。ねえ?」
今度はおかみさんが実松を見返した。
「この前も徳ちゃん(徳川ジム会長)やマネージャーのたぐっちゃん(田口)が来て、二人ともいつデビューしてもいいくらいだって言ってたんだから、心配いらないさ」
実松がおかみさんと松下の方を見ながら満足そうに笑顔で説明した。
「海斗君なら心配ないさ。この体つきを見たって相当なもんだ」
「ねえ、おかみさん?」
松下も実松の云う事に同調した。
「初めてうちに来てくれた時より、一年でこんなに大きくなってるんだから!」
「ねえ、あんた?」
おかみさんが実松に同意を求めるように云った。
「東弁君といい、十六歳でこれだけの体格のボクサーは、そうそういるもんじゃないよ。ねえ大将?」
松下が権田坂の顔をのぞきこんだ。
「ああ、俺だって、この若さでこんな体格のボクサーなんか今まで見たこたもねぇさ」
実松が松下の顔を見ながらにこりと笑った。
松下も若い頃からボクシングが大好きで、マイク・タイソンの日本でのタイトル防衛戦を東京ドームで観戦した経験があり、素人ながら知識は人一倍持ち合わせていた。
「そうか、東弁君と一緒に受けるのか?」
松下が続けた。
「二人とも楽しみだねえ、大将?」
表には出さないが、喜びながらも心配で仕方がない実松の気持ちを松下は見抜いていた。
「技術、体力、パンチの強さ、そして最後は〝気持ち〟なんだよ」
実松の元ボクサーとしての気の強さと情熱が、海斗には十分に感じられた。
「〝気持ち〟が強くなかったら上には上がれねぇ。大事なのはそれだけさ!」
実松が海斗の方を見ながら、右手の拳を握って見せた。
海斗がそれを見て頷いた。
「ところで松ちゃん、今日は何にする?」
「しまった!まだ頼んでなかったよ」
「はははっ、いつものやつでいいかい?」
「大将も人が悪いなぁ、わかってるくせに」
「今日は良いアジが入ってるよ」
松下は、鯵の南蛮漬け定食が大好物だった。
次の客が入ってくるまで、松下を中心に四人の明るくてあたたかな時間が流れた。
海斗は会うたびにいつも自分を励ましてくれる〝松下さん〟と、親代わりになってくれている〝大将(権田坂実松)とおかみさん〟の二人の気持ちに、
『必ず答えてみせるぞ!』
と、心の中で呟いた。
そして自分の事をこんなにも心配して見守ってくれている人に囲まれながら、ボクシング生活をさせてもらっている幸せに胸が熱くなった。自分の身体の隅々に力が漲ってくるのを海斗は強く感じていた。