第二章 我慢と忍耐 チームワーク(二〇二三年 十月その三)第7話 2-1 簡単にプロテストは受けさせない!
重苦しい雰囲気の中、ジムには六人の主要メンバーが残っていた。
会長の徳川、マネージャーの田口、トレーナーの村木、そしてジムのリーダー現OPBF東洋太平洋スーパーバンタム級チャンピオン田上瞬。そして寮の先輩、矢尾板と小島だった。
ジムワークを終えた居残りボクサー達が次々と、
「お先に失礼します」
と言いながら一礼をして帰っていく様子に目を配りながら、
「お疲れ様」
と一人ひとりに声をかけ、徳川達は見送っていた。
田上はパンチングボールで身体を動かしたり、ローピング(縄跳び)をしていた。
矢尾板と小島は、鏡の前で心配そうな顔つきでシャドーを繰り返して待っていた。
田口と村木は、今日のベンタとの出来事を会長の徳川に報告、説明をしていた。
徳川は頷きながら、田口と村木に向かって、徳川の考える教育方針を伝えた。
「いいか、ボクサーを育てる前に、人間を育てるんだ。挨拶がきちんと出来る事。どんな時でも謙虚さを失わない事。常に節度と忍耐がある事。そして、人の心の痛みが分かる事。そういう人間に育てるんだ。ボクサーで成功すること以上に大切なものをあの二人にしっかりと教えるんだ」
「はい、分かりました」
田口が真剣な表情で徳川を見ながら答えた。
「承知しました。申し訳ありませんでした」
村木が神妙な面持ちで、徳川に頭を下げながら答えた。
ロードワークに行ったまま帰ってこないベンタと海斗を、ジムに残った全員が時計を見ながら今か今かと二人の帰りを待っていた丁度その時、ベンタと海斗が長い時間をかけたロードワークを終えて、徳川ジムの入口の前に立った。
ジムの中には他の練習生の姿はすでに無く、静まり返っていた。
「さあ、ベンタ、入るぞ。ちゃんと村木さんに謝るんだぞ」
海斗が念を押した。
「うん、わかった」
ベンタが大きく深呼吸をした。迷いはなかった。
海斗が意を決してドアを開けた。
「すいません、遅くなりました」
海斗が大きな声で謝りながら中に入った。
「遅くなって申し訳ありませんでした」
ベンタが謝りながら後ろ手でドアのノブを締めた。
体を九十度に曲げて一礼をし、海斗に続いて中に入った。
「おお、帰ってきた! 随分長いロードワークだったなあ」
田口の大きな声が、ベンタと海斗の二人に向かって飛んできた。
徳川、田口、村木が一斉に二人の方を見た。
「そんなに遠くまで走ってきたのかい」
田口が笑顔で二人を迎えた。
ベンタは、腕組みをしたまま硬い表情をしていた村木の前まで進んだ。
再び大きな体を九十度に曲げて、
「途中で練習を放り出して、申し訳ありませんでした」
ベンタが村木に謝罪した。
「ベンタ、顔を上げろ」
と、村木が険しい表情でベンタを見ながら云った。
ベンタ本人は勿論、周りにいたみんなが殴られるのを覚悟した。
村木がベンタの肩に両手をのせて軽く握った。
ベンタが顔を上げると村木がニッコリ笑って、ポンポンと肩を軽く叩いた。
「ベンタ、よく帰ってきた」
ベンタが今にも泣き出しそうな顔で村木を見た。
村木のほっとした安堵の顔がジムの中の空気を変えた。
すぐ横で田口が頭を撫でながら海斗を労っていた。
海斗が笑顔で田口に応えた。
村木が何かを決心したように、ベンタと海斗の二人に力強い言葉で声をかけた。
「二人とも四月に入門してから半年が過ぎた。よくここまで頑張った」
村木はベンタと海斗の目を見ながら云った。
「明日から周りの選手と同じように、マスボクシング、それがしっかり出来てきたらスパーリングを始めるから、そのつもりでいてくれ」
ベンタと海斗は、真剣な表情で村木の方を見ていた。
「いいか、ここからが本格的なボクシングの修業に入るからな」
徳川と田口、そして田上がベンタと海斗の表情を見ていた。
「但し、高校を卒業してからプロボクサーを目指す選手や、中学高校でアマボクシングを経験してから入ってくる選手と違って、ベンタと海斗には、簡単にプロテストは受けさせない。それはまだ体が出来ていないからだ。まずはしっかりとした体力と筋力をつけることが大切だ」
村木がベンタと海斗の二人の顔を交互に見ながら付け加えた。
「そしてさらに、だ」
矢尾板と小島が村木の言葉を静かに待っていた。
「ミット打ちやスパーで、田口さんと俺のパンチを全部防御できるようになったら受けさせる」
矢尾板と小島が少し驚いた表情になった。
田上は微笑みながらベンタと海斗を見ていた。
「どうだ? 相当難しい条件だ」
周りの空気が緊張で張り詰めた。
村木が二人の目を見ながら、やる気の確認をしているのがはっきりとわかった。
二人のことが心配で、自分の練習が終わっても帰らず、不安そうに見ていた同じ寮の先輩、矢尾板と小島、そして海斗をボクシングに導いてくれた身元引受人でもある徳川ジムの出世頭、田上瞬が静かに沈黙して見守っていた。
「やります。やらせてください」
ベンタが燃えるような目で村木を見ながら口火を切った。
「自分もベンタも必ず乗り越えてプロになってみせます」
海斗もベンタに続いて真剣な表情で力強く応えた。
徳川と田口、そして田上が笑顔で見つめていた。
「よし、わかった。練習はますます厳しくなる。それでも弱音を吐くな」
村木が続けた。
「リングに上がったときの恐怖心に打ち勝つには、死にものぐるいの練習しか無いんだ。それが出来たら矢尾板や小島のように必ず上位のランカーになれる」
矢尾板と小島が頷いた。
「そして、そこから先はお前たちのさらなる努力次第だ」
村木が二人を交互に見た。
「はい」
ベンタと海斗が声を合わせて同時に返事をした。
徳川ジム期待のホープ、日本ランキング十五位以内の矢尾板と小島、そして徳川ジムのリーダー、OPBF東洋太平洋バンタム級チャンピオンの田上が安堵した表情で二人を見た。
「よし、決まりだ。明日から頑張ろう!」
村木が大柄なベンタと海斗の肩に両手をかけて、少し力を入れてグッと握った。
「イエ~イ」
野太い声で矢尾板が叫んだ。
「イエ~イ」
小島も続けて、明るく大きな声を合わせて叫んだ。
「ゴーゴー、徳・川・ボ・ク・シ・ン・グ~」
矢尾板が右手を突き上げた。
小島が空に向かって両手を斜めに平衡に向けて、弓矢を射るような格好をした。
平成の時代、オリンピック陸上百メートル二連覇、世界最速の男、ウサイン・ボルトのポーズを決めた。
徳川会長は理解不能な顔つきで村木と顔を見合わせていた。
「それって、ボルト? 何んか、古くさくないか」
田上が呆れた顔でツッコミを入れた。
「えー、そうすかぁ」
小島がとぼけた顔で、
「このポーズ、結構気に入ってるんスッ、けどねぇ」
左手で頭をかきながら、小島が右目で田上にウィンクをした。
二人が場を盛り上げようと、わざと馬鹿騒ぎをして気遣っくれているのが、田上には痛いほど伝わってきた。いつも周囲を明るくする性格の田口が、小島を指差して、
「何だ、それ」
と言いながら大笑いをしているのを見て、ベンタと海斗もつられて笑った。
生まれた年代的に、ベンタと海斗はそれが何を意味しているポーズなのか、また何となく名前は聞いたことはあったが、ボルトって一体誰なのか? 全く理解ができてはいなかったが、小島の形態模写のおかげで、その場にいた全員が和やかな雰囲気を取り戻すことができた。これはジム全体が徳川万世をはじめとする誠実で明るい人間性の集団であることの証でもあった。
四月に入門してから半年、まだまだボクサーとしては駆け出しで日の浅いベンタと海斗は、徳川ジムの温かいチームワークの良さを改めて強く感じとった。
「さあさあ、もう解散だ。ゆっくり休んで、明日からまた頑張ろう」
徳川会長が両手を叩きながら、笑顔で帰宅を促した。
「帰ろう! 帰ろう」
田口や村木、田上が声をそろえながら、身支度を始めた。
「ベンタ、海斗、帰るぞ」
矢尾板と小島は、笑顔で若い二人に急ぐように促した。各自が荷物を抱え、全員が外に出た後、ジムの灯りが消され、最後にマネージャーの田口がドアを施錠した。
「じゃあ、みんな気をつけてな」
「お疲れさまでした」
お互いに挨拶をかわしながら、それぞれの方向に別れて行った。
徳川ジムの長い一日がようやく終わりを告げた。
あの日から一か月後。
矢尾板、小島、ベンタの三人はいつもの朝のロードワークをこなして寮に戻ってきた。
ベンタと海斗が寮に入った最初の頃は四人全員で走っていたが、海斗が田舎にいるときは、もっと早い時間にランニングをしていたという事で、矢尾板に自分の習慣を続けたいという希望を申し入れた。それ以来、いつの間にか矢尾板と小島とベンタの三人が出発する時間になると、早起きの海斗が一人走り終わって先に戻ってくるという流れが日課となっていた。
海斗以外の三人は早起きが苦手なので、何も不思議に思わなかったが、ベンタは徐々にではあるが、海斗との走る時間の違いが妙に気になり始めていた。
海斗はロードワークを終えて、シャワーを浴びたあとは、朝食の時間まで高卒資格の勉強をする時間に充てていた。
矢尾板、小島、ベンタの三人もロードワークから帰ってくると、シャワーを浴びてから食堂へ移動するのが日課だった。ここで初めて、矢尾板、小島、ベンタ、海斗の四人が顔を合わせて、揃って朝食を摂るのが一日の始まりとなっていた。
マーさんの作ってくれる栄養価が高くバランスのとれた食事を食べながら、あの日の出来事の顛末とこれからのプロテスト受験に向けての練習に関する内容のことで話が盛り上がった。
矢尾板と小島が自分の経験を話した。
「まあ、あの時は本当に心配したぞ」
矢尾板が一ケ月前の出来事を思い出して話を始めた。
「村木さんにぶん殴られるんじゃないかと思って、俺も本当に肝を冷やしましたよ」
小島が左手にご飯茶碗を持ちながら、矢尾板の顔を見た。
「何にせよ二人がプロテストを受ける準備をすることになって本当に良かったよ」
矢尾板がホッとした表情でベンタと海斗の顔を見た。
「俺から見ても合格する力はもう十分ついてきてると思うから、あとはスパーリングを多くこなして本番のリングの上で学んできたことをどれだけ実践できるか、だな」
味噌汁を左手で持ちながら矢尾板が続けた。
「それもこれも全てこれからの練習にかかっているからな。練習はきついが頑張れ!」
「はい」
海斗が返事をしながらうなずいた。
「はい」
ベンタは矢尾板を見ながら最後の目玉焼きを口に入れようとして慌ててうなずいた。
「ごちそうさまでした」
海斗がトレーを持って食器を片付けた。
ベンタもモグモグしながら急いで片付けをした。
それぞれ自分の部屋に戻り素早く着替えをして出てきた。
「行ってきまーす」
と元気のいい声で云いながら、仲良く二人でバイト先に向かった。
「気をつけてな、二人共頑張れよ」
矢尾板とマーさんが出ていく二人を見送った。
「あんな素直で利口な子たちが行きたい学校へも行かず、やりたいスポーツを我慢して、知らない東京に出てきて、遊びたい盛りに一生懸命バイトをして、終わるとボクシングで痛い思いをして、寮に帰ってからも目をこすりながら勉強をして。この努力が報われないとしたら、この世に神も仏もあったもんじゃないわよね」
マーさんが食事を終えたばかりの矢尾板と小島に、今まで胸につかえていたものを吐き出すように話しかけた。
「あの二人を見てるとさ」
「世の中の不公平を感じないではいられない」
矢尾板が小島とマーさんに向かって話を続けた。
「俺があの年齢だったときは何をしてたんだろうってさ。普通に高校へ行くことができて、好きなスポーツのクラブ活動をやって、お金の心配もなく、遊んだり友達と騒いだりして、自由に好きなことが出来た自分を振り返って考えると、それって全部親に依存して甘えて生きていたんだよな俺はってさ」
矢尾板がため息をついた。
「あの年で親兄弟のことをこれだけ思える優しさと人を頼らない自立心。特にあの海斗だよ、上京してきたって携帯一つ持たない。バイトで稼いだお金をゲームや遊びに無駄遣いしない。妹のために少しづつ仕送りまでしてるんだ」
矢尾板がお茶を飲みながら続けた。
「部屋にテレビも置かない。有るのは両親の形見のカセット付きのラジオとウォークマンだけ。今はやりのゲーム類もない。一緒にいるベンタまで影響を受けて持っていたスマホを解約した。そして部屋には海斗と同じものを揃えてそれ以外持とうとしない。高卒資格の勉強も食堂に置いてあるノートパソコンを使ってやっている」
マーさんが、小島の湯呑にお茶を注いでいた。
「自ら望んで海斗と同じ生活をしているんだ。今までいろんな後輩がいたけど、こんな十五・六歳の若者なんて見たことがないよ」
矢尾板の話を聞いていたマーさんが、
「この寮でプロボクサーを目指して来た若い人を沢山見てきたけど、みんな世の中の歪みの中で自分の人生を見つけようとして、もがきながら苦労していた」
矢尾板と小島が、お茶をすすりながら、マーさんの話を聞いた。
「でもね、今までの人達とあの二人は何かが違うように感じるのよ。私は子供に恵まれなかったけど、こんな年若い子がここまで自制心があって、自己管理が出来るなんて、まるで野球のイチローさんや松井さんを見ているような気がするわねぇ」
「イチローさんや松井さんに会ったことあるんスか?」
小島のツッコミをいれた。
「あれ、前に言わなかったっけ? 私は神戸出身で父が大の野球ファンだったから、オリックスの二軍の球場にもよく足を運んだのよ。あの頃二十歳くらいだったかなあ? イチローさんが一軍で活躍し始めた頃かなぁ、両親とよく見に行った。父が試合が始まる前の練習を観て、『体の線は細いけど、体の使い方が上手いし動きが柔らかい。あの五十一番は必ず凄くなる』って云ってたわ」
マーさんが小島のツッコミに答えた。
「イチローさんはその後大リーグのマリナーズで活躍した。日米で活躍した二歳下の松井さんもプロ意識が高く自己管理が徹底していた。だから日本でもアメリカでもあそこまでの記録を残せたんだわ」
マーさんが昔を思い出しながら小さい頃の記憶を紡ぎ出した。
矢尾板も小さい頃の思い出が蘇ってきた。
そして横にいる小島に話しかけた。
「おれも小学校のときは少年野球チームに入って野球をやってたんだ。あのときはプロ野球選手になるのが夢だった。イチロー選手や巨人の松井選手はアメリカでも実績を残して認められた。記録にも、記憶にも残る伝説のようなヒーローだった。本当に雲の上のような存在だけど、二人に共通して言えることは、徹底した自己管理ができたからあそこまで結果を残せたんだと思う。それに加えて日本とアメリカという人種や文化の違いを超えて多くの人に認められた素晴らしい人間性。海斗とベンタはまだ十五六歳なのに、まるでイチロー選手や松井選手のようなストイックな生活をして、ボクシングに自分の人生をかけている。確かに俺も小島も頑張ってはいる。だけどあの二人を見てると『もっともっと頑張らなければいけない』って気を起こさせる。そんな二人なんだよ」
小島が笑顔で矢尾板に報告した。
「矢尾さん、この前久々に海斗の部屋に入ったら、いつの間にかボクシングに関する本から、格闘技や武道に関する本、ストレッチやトレーニングに関する本にランニングに関する本、英会話の本、料理や栄養に関する本とか、とんでもなく増えてて、驚いちゃいましたよ」
「いつ買う時間があるのか、不思議でしょうがないっスよ」
小島が両手を広げて呆れたように笑った。
「まあ、いつ読む暇があるのかも不思議っス」
「しょっちゅう本屋さんや図書館に行ってるみたいよ」
マーさんが答えた。
「さらに驚いたのは、ベンタの部屋にも、本が増えてるって事っスよ」
小島が続けた。
「ベンタもか?」
矢尾板が少し疑うような驚きの声を上げた。
「まあ、こっちはバスケの本とマンガ本っス!」
小島が笑いながら云った。
「矢尾さん、大丈夫っスよ。日本ランカーの俺から見たってこの二人は普通の十六歳じゃない。それどころかとんでもない怪物になりそうな気がするんですから」
「全く同感だ。俺もそう思うよ」
矢尾板が頷いた。
「だいたい中学を出た普通のスポーツ少年で、ボクシングのことなど全く何も知らない初心者の海斗とベンタが、半年であの重量級のサンドバッグを揺らすぐらい叩けるようになるなんて信じられないっスよ」
小島が続けた。
「まあ、そりゃそうだ」
「ハハハッ」
矢尾板と小島が同感だという顔をして笑った。
「これからどんな風に成長するか、楽しみっス、ねぇ」
小島が矢尾板の顔を見た。
「俺たちもあの二人に追いつかれないように頑張ろうぜ」
矢尾板が後輩小島を励ました。
「了解っス」
小島が、右手を頭に上げて敬礼をして、直立不動のポーズを決めた。
「あら、まあ。小島君たら」
マーさんが、またやってる、という顔をした。
「何だぁ、それ」
と云いながら、
「よし、成功を祈る」
と矢尾板も直立不動で答えた。
「何なの、二人とも」
マーさんが呆れたような顔をした。
「ハハハッ、ハハハッ」
矢尾板と小島とマーさん、三人の笑い声が寮に響いた。