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第5話 1-4 ベンタの新たな船出

 和歌山から在来線で約一時間かけて新大阪まで行き、新大阪からは新幹線で東京駅に向かった。

 東京までは約二時間半で到着した。

「こんなに早く東京に着くのか」

 ベンタは事前に調べてあったとはいえ、実際に体験してみるとその速さに驚きを隠せなかった。

 新大阪を出発する前に徳川会長が買ってくれた駅弁とお茶を、新幹線の中で簡単に平らげた。

 ベンタが窓側、徳川会長が通路側の二人席を獲ってくれていた。

 乗車して三十分ほどは徳川会長の話を聴いていたが、その後は疲れていたせいか、二人とも眠ってしまった。小田原付近に来たあたりで、ベンタは徳川に起こされた。

 東京駅に着くまで、初めて見る小田原のきれいな海の景色と、都内に入ってからの線路が地下に潜り始めてからあとのギャップに、急に不安が大きくなった。

「そろそろだな」

 徳川が手荷物をまとめてしばらくして終点の東京駅に着いた。 

 荷物を抱えた乗客が次々とホームに降りて、足早にエスカレーターやエレベーターに向かって歩いている姿に圧倒されながら、徳川会長の少し後ろを着いて歩き、初めての東京駅の大きさと迷路のような複雑さに困惑した。

 まだまだ身長が伸び続けている成長期のベンタは、新幹線の中で駅弁を平らげても東京駅に着いた途端にもうお腹が空き始めたのを感じた。

 生まれて初めて見る日本の首都。

「東京に、ついに、ついに、来た」

 という興奮と緊張の入り混じった高揚感で喉の乾きを感じながら、何度もペットボトルのお茶を口にした。すでに遠く離れてしまった故郷への寂しさや心細さがベンタの心に迫ってきて、なかなか落ち着かなかった。

 新幹線の中が暑かったせいか、手にかなりの汗をかいていた。

 迷路のような東京駅の構内を多くの人に圧倒されながらすれ違い、徳川会長の後をついて歩いた。

「こっちだ、こっちだ」

 と云われながら、常磐線乗り場のホームに向かった。  

 東京発?勝田?行きの電車が一本停車していて、まだ出発していなかった。

「間に合ったな」

 徳川が独り言のように云いながら、荷物を座席の上に載せ、無事ベンタと二人で座ることが出来た。

 発車の合図と共に電車が取手駅に向かってゆっくりと動き出し出発した。

 それから何分、いや何十分経ったのだろうか? 

 急激な眠気に襲われ目をつぶっていたが、途中『次は北千住』という車内アナウンスを聞いてベンタは突然目を覚ました。

 慌てて窓の外の景色を見渡した。間もなく電車が北千住駅に停車した。

 三年前に亡くなった父がまだ元気だった頃、晩酌で気分よく酔いがまわると、東京に出張で出かけた仕事の合間をぬっていろいろな場所を観光してまわった時の話を母によくしていた。?北千住?という響きを覚えていたのは、自分の記憶のどこかにこの地名が残っていたのかもしれない、とベンタは思った。

 ベンタの父は、老舗の店が多い商売の中心地日本橋界隈や、江戸時代からの観光名所浅草や亀戸、本所、両国といった東京の下町の風情が残っている場所が特にお気に入りだった。

?矢切の渡し?船に乗った時の笑顔の写真もあった。

 この船は手漕ぎ船で、江戸時代、矢切(現松戸市)から葛飾の人と物資を結ぶ江戸川唯一の名所だった。伊藤左千夫の?野菊の墓?や歌謡曲でも有名な場所だ。

 ベンタの父は東京から帰宅すると嬉しそうにお土産を見せてくれたのを覚えている。

 初めて見る北千住駅周辺の風景と、想像以上に多くの人が乗り降りをしていく光景がベンタにとって新鮮な驚きと共に記憶の中にある父との思い出が交錯した。

 約三十分後、ベンタはついにJR常磐線松戸駅に到着した。

松戸駅に着くと和歌山からのお土産を入れた紙袋を両手に二個づつ持ち、大きなスポーツバックを肩にかけた。降りたホームを歩く徳川の後ろをベンタがぴったりとつき、近くの階段を上った。

 階段を上りきると、二階の改札口ではマネージャーの田口が今か今かとソワソワしながらと待っていた。そして徳川の姿を見つけるや否や、

「会長~」

 田口が笑顔で手を振った。

「おう~」

 徳川は田口の顔を見つけて、にっこり笑って頷いた。

 ベンタが徳川の後ろを離れないように、ぴたりとくっついて窮屈そうに歩いた。

 田口は写真でしかベンタを見ていなかった。

 徳川のすぐ後ろから見えてきたベンタの体の大きさに、

「はぁ、こんなに大きい子はうちのジムでは初めてだなあ」

 田口が改めて驚きの声をあげた。 

 徳川とベンタが改札を出た。

「ありがとう。よく迎えに来てくれた。助かったよ」

 徳川が田口に礼を云った。

「長旅ご苦労様でした」

 田口が徳川とベンタの二人の顔を交互に見ながら労った。

「君が東弁君か? マネージャーの田口です。よろしく!」

 田口が挨拶をしながら右手を出した。

 ベンタが慌てて持っていた荷物を足元に置き、体を折り曲げながら一礼をした。

「初めまして、東弁太一です。宜しくお願いします」

 挨拶をしながら右手を恐る恐る出した。

 田口がその様子を見ながら笑顔でベンタの手を握った。

「手も身体も大きいなあ、東弁君は」

 田口が改めて感心した。

「前に聞いたような気がしたが、身長と体重はどれくらいだったかな?」

 徳川がベンタに聞き直した。

「身長は一七八センチ、体重は七五キロです」

 ベンタが答えた。

「大きいじゃろう、これでまだ十五歳だ」

 徳川がベンタの顔を見ながら、右手でベンタの左肩をポンポンと軽くたたき得意げに紹介した。

 照れくさそうにベンタが下を向いた。

 改札を出た乗客の多くは、バスターミナル側とイトーヨーカドー側とにそれぞれ左右に分かれ、足早に駅を抜けていった。

「駐車場に車を止めてありますから、一旦ジムに戻りましょう」

「こっちです」

 田口が徳川の手荷物を二三個持ちながら歩き出した。

 田口の運転で三人はジムに向かった。

 徳川と田口のボクシング談義に会話が弾みかけた途端、車は五分程ですぐにジムの前に到着した。

 建物の入り口には?徳川ボクシングジム?と 書かれた看板が壁に掲げてあった。

 田口はベンタをジムの中に招き入れて、トレーナーの村木、ジムのリーダー田上瞬に紹介し、挨拶を済ませた。そしてボクシングジムの中を簡単に説明して、再び徳川とベンタを車に乗せて、すぐ近くのジムの選手寮に向かった。

 ジムが用意してくれた選手寮は、写真で見るより少し古い印象の建物だった。

 元は大学受験予備校の学生寮だったところをそのまま買い取り、ジムの地方から出てきた有望な選手や練習生用の寮にリフォーム(改築)をして十五年が経っていた。

 寮の管理人は、通称【マーさん】と呼ばれている今年六十八歳になる元気な寮母さんで、若い練習生の食事や生活の世話、何より良き相談相手になってくれていた。

 マーさんは、徳川会長の現役時代からの古い知り合いだった。

 上京の直前に和歌山から送ってあったベンタの荷物は、ダンボール箱ごと部屋に運ばれていた。

「はじめまして、東弁太一といいます。お世話になります」

 ベンタが元気よく挨拶をして頭を下げた。

「あなたが東弁君ね、大きいわねぇ。ようこそいらっしゃい、待ってましたよ」

 マーさんが暖かく迎えてくれた。

「この人が寮長の京塚さんだ、みんなマーさんと呼んどる」

 徳川会長が紹介した。

「マーさんどうじゃ、いい体格しとるだろう!」

「こんな大きい子はうちの寮始まって以来ね」

 マーさんが感心しきったように答えた。

「マーさん、この子をよろしく頼むよ」

 徳川会長が右手でベンタの左腕をポンポンと軽く叩いた。

 そして自分の孫に諭すように言葉をつないだ。

「遠慮せずになんでもマーさんに相談するんだぞ」

「はい、よろしくおねがいします」

 ベンタは、マーさんに改めてお辞儀をした。  

 寮には、みんなが集まって食事をする食堂が有り、リビングのソファでテレビを観たり、自分の好きなものを買ってきて入れておける大きな冷蔵庫があった。

 買ってきた物には自分の名前を書いておくルールになっていた。

 各部屋にも自分専用の小さな冷蔵庫は完備していたので寮生はみんな助かっていた。

 お風呂・シャワー、トイレや洗面所は共同で、お風呂は数人が入れる大きさだった。

 シャワー室が二室有り、寮生が交代で掃除当番を行っていた。

 部屋は全部で六室有り、上に三部屋、下に三部屋の個室で、上の一部屋が空部屋で現在三人がお世話になっていた。

 日本ランキング入りをした選手は二階の部屋に上がり、まだそこまでのレベルにない選手は一階という事に一応なっていた。ベンタの部屋は、一階の玄関から入って廊下の奥から二番目の部屋に用意されていた。通常ならついている部屋番号は特についてはいなかった。

 その代わり、各部屋の入り口のドアはすべて引き戸になっていて、その上には何故か動物のシールが貼ってあった。ふっと見上げたベンタの部屋のドアの上には、どういうわけか『熊』のイラストのシールが貼ってあった。

 自分お部屋に案内された時、

「今日からここに住み込むんだ、人生をかけるんだ」

 という思いにベンタは身震いがした。

 寮母さんと先輩達、そして一週間早く入寮していた、岩手県【島越】出身の分銅海斗と初めて会い、挨拶を交わした。精悍で利発そうな顔つきの海斗の姿に、『これが話に聞いていた同級生か? とうとう会えたな。肩幅があっていい体型だな。思ってたより大きいな』という興味と感慨がベンタの胸に湧いてきていた。

 同い年で、中学卒業後、東北の田舎町からプロボクサーを目指して上京してきた、みんなから『ぶんちゃん』『かいと』と呼ばれるようになる、分銅海斗ぶんどうかいとの部屋は、ベンタの隣の部屋で一番奥の部屋になっていた。海斗かいとの部屋の入り口のドアの上には、これまたどういうわけか『鷲』のイラストのシールが貼ってあった。部屋は各部屋とも洋室で六畳有ったが、元は和室だった部屋を今風の若者向けにリフォームをして住みやすくした和洋折衷型のため、クローゼットではなく押し入れになっていた。布団でもベッドでも自分が好きなものを使えるという奇妙で変に便利な部屋になっていた。ベンタは小さい頃からベッドで寝ていたので、布団は使った事がなく地べたに直接寝ている感じがして苦手だった。

 どこかで手頃な安いベッドを買うまでは、備え付けの布団で我慢するしかなかった。

 夕食はベンタの入寮のお祝いということで、徳川会長も参加し、豪華なお寿司が振る舞われた。食事の前に自己紹介となり、年上から順番に挨拶が始まった。

 一番目は、格闘技が死ぬほど大好きで試合も観に行く現役プロボクサー、矢尾板広吉やおいたひろよし二十五歳。将来はスポーツトレーナーになるための修行中でバイト先はスポーツジム。日本ライト級七位のランカー。

二番目は、ボクシングの次にラーメンとB級グルメが大好きな小島聡志こじまさとし二十二歳。ラーメンとB級グルメの食べ歩きが趣味。バイト先はステーキ&ハンバーグの洋食店。日本フェザー級十位のランカー。

 三番目は、岩手県下閉伊郡【島越しまのこし】出身で、十二年前の三歳の時に襲った東日本大震災で両親を亡くし、生き残った一歳の妹と二人、地元に居ながら難を逃れた祖父母によって育てられた分銅海斗ぶんどうかいと十五歳。  

 プロ野球選手を目指して小さい頃から野球を続けてきたが、震災のボランティアで三陸の島越しまのこしを訪れていた徳川会長とジムのリーダー田上瞬に出会い、野球と高校進学を諦めプロボクサーを目指して上京した。

 そして最後に、和歌山県出身で、小さい頃からバスケットボール一筋でプロを目指していたが、父を病気で失い、母と二人きりになったことで進路を変え、プロボクサーを目指すことになった大柄なバスケ少年、東弁太一とうべんたかかず十五歳。

「今日からお世話になります。何もわからないので、なんでも教えて下さい。宜しくお願いします」

 と、緊張した神妙な顔つきで挨拶をした。

 みんなが拍手をして、徳川会長がビールを片手に立ち上がり乾杯の音頭を取った。

 大人はみんなビールで乾杯となったが、未成年の海斗とベンタはジュースで一緒に乾杯をした。徳川会長を中心に雑談をしながら、会長の昔話を耳にタコができるくらい聞かされていた最年長の矢尾板が、冷蔵庫に食べ物を探しに行きながら、

「いちぬけた」

と、小声で笑いながらマーさんに何か相談事を話し始めた。酔いが回ったのと、一時間以上身振り手振りで自分の思い出話を喋り疲れた徳川会長は、いつの間にか静かに眠り始めた。

 マーさんが、

「もうみんなも部屋に戻って休みなさい」

 と言ってくれた。ベンタも長旅でかなり疲れていた。

 ベンタはマーさんと先輩の矢尾板と小島に挨拶をした。最後に声をかけようとしたベンタより早く、分銅海斗との方から、

「よろしく!」と右手を出された。

 ベンタも、

「よろしく」

 と答えながら、お互い固い握手を交わして、自分の部屋に入っていった。 

 野球をやっていたという海斗の手は厚く軽く握っているにもかかわらず握力の強さが伝わってきた。

 和歌山の自宅を出て、母と母の親友の吉川咲、巻川コーチやバスケ仲間、同級生達から見送られて、千葉松戸の徳川ジムに入寮するまでの目まぐるしい一日を振り返った。

 和歌山から在来線で約一時間?くろしお?に乗り新大阪へ。新大阪から新幹線?のぞみ?に乗り換え約二時間半で東京へ。東京駅から常磐線で約三十分乗り松戸駅まで、トータル約四時間の長旅だった。ベンタにとってすべてが生まれて初めての体験だった。

 一泊二日で和歌山まで迎えに来てくれて、東京まで付き添ってくれた徳川会長。

 今日初めて会った寮母マーさん、矢尾板・小島の先輩二人。

 そしてとうとう会うことが叶った、同学年の分銅海斗。

 みんなの顔が走馬灯のように頭の中を駆け巡ってきて、かなり疲れているはずなのに神経だけが興奮し、なかなか寝付けなかった。

 和歌山から宅配便で送って、選手寮の部屋に置かれていた段ボール箱を開けた。

 母が荷造りをしてくれた荷物を片づけながら、自然と母の事が思い出された。

 生まれ育った和歌山での十五年間は、豊かな生活からどん底に落とされたものだった。

 ベンタの頭のなかにはこれから生きていくことへの漠然とした不安が積み重なって、十五歳の青少年が抱く希望のすべてが遮られるような、なんとも言いようのない孤独感、喪失感、そして焦燥感が、ベンタの心の中に、まるですべてが入り混じり、覆いかぶさるように襲ってきた。

「もう考えるのはやめよう。いくら考えても、父さんは帰って来やしない。高校に行ってバスケをやる事は出来ない。何も答えは出てきやしない、もう頑張るしか無い!」  

 自分に言い聞かせるように、心を静めて眠りに入った。

 ようやくベンタの松戸一日目が終わった。

 二日目の朝、喉の乾きで目が冷めたベンタは、母が新しく買ってくれた大きめの目覚まし時計を手で掴んだ。その瞬間、朝七時にセットするのを忘れていたことに気が付いた。

「シマッタ、寝坊だ」

 時計の針は九時を指していた。急いで顔を洗ってジャージに着替えて、マーさんに挨拶をしに行った。

 マーさんは寮の掃除をしていた。

「おはようございます。すみません、寝坊してしまいました」

 ベンタは慌てて挨拶をした。

 マーさんは優しい笑みを浮かべながらベンタの方を向いた。

「東弁くん、おはよう。まだゆっくり寝てて良かっのよ。昨日会長から、疲れてるだろうからゆっくり寝させてあげてくれ、って言われてたから起こさなかったのよ。お腹がすいたでしょう? いまご飯の用意をしますからね」

「そこに座って少し待っててね」

 マーさんは、用意しておいたおかずを温めて、テーブルの上にセットしてくれた。

「作りたてとはいかないけど、いっぱい食べてね」

 マーさんはにこにこしながら、大きな体のベンタを頼もしそうに見た。

「いただきます」

 ベンタは左手に箸を持って胸の前で両手を合わせて合掌して食べ始めた。

「東弁くんは左利きなの?」

 マーさんが不思議そうに尋ねた。

「本当は左利きなんです」

「小さい頃に箸を持つ手と字を書くのを両親に無理やり右手に直されました」

 ベンタは即答で答えた。

「でも両親が見ているときは右手を使ってましたけど見ていないところでは全部左手を使ってました。だからバスケットボールをやってるときは、両方の手が使えたので便利でした」

「あら、昨夜の夕食の時は気が付かなったわねえ?」

「昨夜は、緊張してて、右手で箸を使ってました」

「そうだったの? でも両方使えるのは珍しいわねぇ。会長は知ってるの?」

 とマーさんがベンタに尋ねた。

「はい、会長は知ってます。初めて会った時に、利き腕を訊かれました」

「そう、それは良かった。ボクシングは利き腕が大事だっていいますからね。遠慮しないで、さぁ、もっと食べなさい」

 と言いながら、

 マーさんは、にこにこしながらご飯とおかずの御代わりを出してくれた。

 ベンタは食べ終わると、両手を合わせて、

「ごちそうさまでした」

 と少し頭を下げながら挨拶をして部屋に戻り、すぐに着替えた。

 トレーニング用品を入れたスポーツバッグを持って、白のポロシャツに黒のチノパン、母が買ってくれたランニングシューズを履いて寮を出る時、

「行ってきます」

 とマーさんに元気よく挨拶をして寮を出た。そして徒歩でジムに向かった。

 ジムは寮から五分ほどの距離だった。

 マーさんは、ベンタが寮を出たあとすぐにジムに電話をして、ベンタが向かったことを伝えた。

 ジムでは徳川会長とマネージャーの田口、そしてトレーナーの村木が、ベンタの到着を今か今かと待っていた。 

 ベンタがジムの扉を開けて中に入ったとき、すでに何人かの練習生がストレッチや縄跳び、パンチングボール、シャドー、サンドバックを始めていた。

「お早うございます」

 ベンタが緊張しながら挨拶をして頭を下げた。

「おう、待っとったぞ」

「おはよう! ぐっすり眠れたか?」

 徳川と村木が、笑顔で迎えた。

「遅くなりまして申し訳有りませんでした」

 ベンタが徳川に謝った。

「いいんだ、いいんだ、少しは疲れがとれたか?」

「はい、会長が起こさないように頼んでくれたって、マーさんから聞きました。ありがとうございました」

「そうか、そうか。じゃあ早速だが、荷物をロッカーに置いて、わしと一緒に付いて来てくれないか」

 ジムの入り口には車が用意されていた。運転席には田口が待っていた。

「やあ、東弁くん、おはよう」

 田口が声をかけた。

「お早うございます」

 ベンタは田口に頭を下げて、車に乗り込んだ。

 ベンタは四月からジムの近くにあるリネン工場で働く予定になっていた。

 徳川、田口、ベンタの三人は、ベンタが働くことになるリネん工場への挨拶と仕事内容の説明・工場見学のために現地に向かった。

 工場は割と近くにあり、ジムと寮から自転車で通える範囲だった。

 この場所であれば寮とバイト先とジムとの往復でも大きな負担にはならなかった。

 リネン工場に着くと、徳川の長年の知人で社長の大沢と工場長の秋田が出迎えてくれた。

 社長の大沢は七十代の小柄だが恰幅のいいタイプで、徳川会長が現役の頃から応援してくれている旧知の仲だった。

 ベンタと田口が、工場長の秋田から工場内の案内と仕事の内容を説明されている間、社長の大沢と徳川は、

「やあ、久しぶり」

 と言いながら、応接室に入って久々の再会を喜んでいた。

 三十分程で施設の見学と一通りの説明が終わり、田口とベンタと工場長の秋田が応接室に入ってきた。社長の大沢がベンタの肩をたたいて、

「じゃあ、四月からよろしく頼むよ。仕事は最初は出来なくて当たり前だから秋田工場長に何でも聞いて相談してくれればいい。ボクシングの方もみんなで応援するから頑張りなさい」

 と笑顔で握手をしてくれた。

 ベンタは大人の人に囲まれた緊張と仕事場という新しい環境の中での未知の体験への戸惑いで、何をどう考えていいか訳が分からなくなり頭を下げるのが精一杯だった。

 直立不動で工場長の秋田に、

「よろしくお願いします」

 と頭を下げた。

 傍でベンタを見ていた徳川がベンタの肩に手をやって、

「自分の孫を見てるようで……お母さんのために大好きなバスケを辞めて、ボクシングを選んだこの子をどうかよろしく頼みます」

 と頭を下げた。マネージャーの田口もそれに合わせて、

「宜しくお願いします」

 と一緒に頭を下げた。

「いやいや、こんな立派な体格の若い子が来てくれて、こちらこそ大助かりですよ」

 社長の大沢と秋田工場長が互いに顔を見合わせてうなずいた。

「今日はお世話になりました。じゃここで失礼を致します」

 徳川が笑顔で挨拶をした。

 三人で応接室を出ていく時、工場長の秋田が三人の方に向かって頭を下げた。

 徳川、田口、ベンタの三人が事務所前の駐車場に止めてあった車に乗り込んだ時、

「久しぶりにごんちゃんの店でも行ってみるか?」

 と徳川が田口に声をかけた。

「そうですね。会長、行きましょう」

 と田口が答えた。

「あそこの店は準備が早いから今から行っても迷惑にはならないだろう」

 思い出したように徳川が言った。

「きっと驚きますよ」

 田口が嬉しそうに答えた。

 五分ほど走った所で車が止まった。

 昔懐かしい店構えの入り口に、【お食事処ごんべい】と、桐板に木彫り墨文字で書かれた看板が掲げてあった。

 堅苦しさのない小綺麗な和食の創作料理という言葉がぴったり当てはまる、伝統的な和の趣きと清潔感と、さらには昭和のレトロ感とが感じられる雰囲気の店だった。

 まだ仕込みの最中なのか店先に暖簾は出ていなかった。

「さあ、入ろう」

 徳川の掛け声にのって三人は入口の扉を開けて入った。

「こんちわ~」

 徳川が遠慮無くまるで自分の家のように中に入った。

「まだ店を開ける前なのに悪いねえ」

 徳川が右手を上げて挨拶をした。

「こんにちは」

 マネージャーの田口はベンタの背中を押しながら、徳川のあとに続いた。

 ベンタも小さな声でぶつぶつと挨拶を言いながら背中を押されて店に入った。

 カウンターの奥から笑い声が聞こえてきた。

「いらっしゃい」

 どこからか、少し年配の温かい女性の声が聞こえてきた。

 女将さん(権田坂の奥さん 通称みっちゃん)がほんのちょっと顔をのぞかせた。 

「あら、徳さん、いらっしゃい」

「いやあ! みっちゃん、突然でわるいねぇ」

 徳川が女将さんに声をかけた。

 店の奥から主人の権田坂とエプロン姿が見えた。

 女将さんが、手を拭きながら、にこやかな表情で歩いてきた。

「やあ、ごんちゃん、久しぶりに寄ったよ」

「何言ってんだい、こないだ来たばっかりじゃないか」

 店の主人らしい端切れのいい言葉が返ってきた。

「はははっ、歳を取ると物忘れが激しくなってな」

「まぁとりあえず、そんな硬いことは無しだよ。ごんちゃん」

 徳川が勝手知ったる何とかのように空いてるテーブルを指差して、

「ここでいいかい?」

 と一人で椅子に座った。田口とベンタも一緒のテーブルに腰を掛けた。

 まるで昭和の時代にタイムスリップをしたかのような錯覚に陥いる飾り物や置物。

 レトロ感いっぱいのどこか懐かしく、けれども決して野暮ではない、品の良さを感じる小綺麗な店の雰囲気だった。

 テーブルにはお品書きが置かれていて、時季の旬のメニューや一品料理、定食が中心に記載されていた。開店と同時に店先に出される今風のオシャレなサインボードには、【今日のおすすめ】や、限定メニューが分かりやすく書かれていた。

 平日は毎日午前十一時の開店に合わせて、店の奥では仕込みの準備が続いていた。

 徳川はセルフサービスの水を取りに行こうとしたが、田口がすぐに気がついて素早く席を立った。

「今、持ってきます」

 と言って、三人分の水をテーブルに運んでくれた。

 徳川は、

「ありがとう」

 と言いながら、喉の乾きを潤すように一気に飲み込んだ。

 ベンタも、

「ありがとうございます」

 と田口に礼を言いながら水をひと口飲んだ。

 ベンタにとっては、まるで異空間に入り込んでしまったような感覚だった。

「あら、田口さんもよく来てくれたわねえ」

「ちょっとだけご無沙汰しました」

 田口が笑いながら答えた。

「今日は店に来るのがいつもより早いねえ、何かあったのかい?」

 権田坂が田口に尋ねた。

「ええ、今日は此処にいる東弁君の仕事先に一緒に訪問して、ご挨拶を済ませた帰りです。会長が前から社員募集の相談を受けていた近くのリネン工場です」

「ああ、あそこは特に新卒を喜んで迎えてくれる会社だから、良かったねえ」

 権田坂が、仕込みの手を動かしながら、田口の方を見て、さらに話を聴く仕草をした。

「彼が前に話した東弁君です。うちのジムに入門するために昨日和歌山から上京してきたばかりです」

 田口が簡単な説明をした。

「へえ、和歌山からか、それにしてもいい体格してるねえ!」

「背はいくつかな?」

 権田坂が仕込みの手を動かしながら田口に尋ねた。

「あれ、いま身長と体重はどれくらいだっけ?」

 田口はまるで『知らなかったな』というような顔でベンタを見た。

「身長は一七八センチ、体重七五キロです」

 ベンタが元気よく答えた。

「そういえば昨日駅に迎えにいった時、聞いたばっかりでした」

 田口が頭をかきながら、権田坂に笑顔を向けた。

ごんちゃん、この体格でまだ十五歳だよ」

 徳川が自慢げに権田坂をみた。

「へえ、十五歳か? 若くていいねえ……俺もこれくらいの時分があったなあ」

 権田坂が仕込みの手を動かしながら続けた。

「まあ、田舎じゃ、よく美少年と呼ばれてたもんだ」

ごんちゃんは、大~昔に初めて会ったときから今のまんまだったぞ?」 

 徳川がからかった。

「馬鹿を言っちゃあいけねえ、こちとらだって十五のときもあったさ。髪の毛だってこうフサフサしてたもんだ」

 権田坂がおデコに巻いた白い手ぬぐいの辺りで、両手を動かしながら髪の毛を立ち上げたり撫でるような仕草をした。

「その頃から丸刈りじゃないのかい?」

 徳川が更にからかった。

 みんながもう既にまったく無くなった権田坂の髪の毛を想像して爆笑した。

「まあ、今は『立派な、らっきょ様』ですけどね」

 女将さんが横から口を挟んだ。みんながまた爆笑した。

「てやんでい、今畜生めい、こちとら江戸っ子でい、どうにでもしやがれってんだ」

 権田坂が、落語家口調で言い返した。

「あれ、ごんちゃん、いつから江戸っ子になったんだい?」

 徳川がちゃちを入れた。権田坂は、福井の出身だった。

「こりゃまた一本とられたな」

 権田坂が自分のおデコを右手でペンと叩いて見せた。全員でまたまた大爆笑だ。

「いつもこうなんですよ、気にしないでね」

 女将さんが、呆気にとられているベンタに声をかけた。

「二人の掛け合いを初めて見る人にはかなりの衝撃ですよ。自分もそうでした」

 田口がベンタの顔を見ながら、唖然としているベンタの心情を代弁した。

「お客様ですか?」

 店の奥から今度は若々しい青年の声も聞こえてきた。

 開店前の来客に元気な声で、

「いらっしゃいませ」

 と挨拶をしながら海斗が歩いてきた。

 テーブルに座っている徳川と田口の姿を見て、

「あっ」

 と驚きの声を上げながら頭を下げた。

「おお、此処にもう一人、十五歳がいましたよ」

 田口が顔を出してきた海斗に声をかけた。

「海斗、元気でがんばってるな」

田口が笑顔で海斗を見た。 

「ほんとによくやってくれて助かってます」

 女将さんが海斗の顔を見ながら答えた。 

「頑張ってくれてるか、よかったよ」

 徳川が柔和な顔で頷きながら海斗に声をかけた。

「徳ちゃんのおかげで、海斗くんが来てくれて、うちは大助かりだよ」 

 主人の権田坂実松が、海斗の顔を見ながら笑顔の徳川に礼を云った。

「分銅君はこの店で働かせてもらってるんだよ」 

 田口がベンタに声をかけた。

 海斗の姿を見て驚いているベンタに、

「分銅君にはしばらくジムの手伝いをさせながら、仕事先を見つける予定でいたんだ」

 徳川がゆっくりと話し始めた。

「分銅君が上京してきた次の日にごんちゃんのお店でご飯を食べたんだ」

 徳川は、権田坂とベンタの二人の顔を見ながら話を続けた。

「分銅君の身の上話をしていたら、それを静かに聞いてたごんちゃんが、こう云うんだよ。『もしアルバイト先が決まってないなら、うちの店で働いてもらうっていうのはどうだろう? 最近俺もかみさんも年をとってきて手伝いが欲しいと思ってたところなんだ。うちは知っての通り跡継ぎもいないし、分銅君は両親を亡くした事情もある。こんな店で少々気が引けるけど、分銅君どうだい、うちで働いてみないかい? 勿論ボクシングも高卒資格の勉強の方も応援するつもりだ』って云うもんだから、あまりに急で面食らったよ。『まあ、今決めなくてもいいんだ。二三日考えてくれれば』って云うごんちゃんの言葉どおり時間をもらおうとしたら、分銅君が『何もわからない自分でよかったらぜひやらせて下さい。アルバイトは初めてで足手まといになると思いますが、宜しくお願いします』って云ってくれてその日で決まったんだ。いやぁ、全く予想もしていなかったよ」

 ここまで一気に話をして、徳川はテーブルに置かれた水をひと口飲んだ。

「東日本大震災で生活も行き詰る中、生き残った海斗くんと妹さんの可愛い二人の孫を、亡くなった息子夫婦の親代わりになって、ここまで育ててくださった祖父母のお気持ちを思うと、十五歳の少年を見ず知らずの人間に預けるより、ごんちゃんのところで面倒見てもらえるならその方が有難いし、安心だ」 

 徳川は権田坂と女将さんの二人の方を見て礼を云うように無言で頭を下げた。

 その場に居合わせてみんなが胸に熱いものを感じて徳川の方を見た。

「何を隠そう、わしと目の前にいるごんちゃんは、同じ帝王ジムでしのぎを削ったライバルだったんだ。同い年で入門はゴンちゃんの方が少し先輩だった。お互い家が貧しくて生活苦の中、仕事をしながらボクシングに人生を賭けたんだ」

 徳川は身振り手振りで話を始めた。

「一九六十年代のファイティング原田さん達の時代は今と違って階級が少なかったから、水も飲めないほどの厳しい減量を強いられた。そんな中で二階級を制覇されたヒーローだった」

 徳川の昔話を聞きなれているマネージャーの田口は、ニコニコ顔で、頷いていた。

「七十年代半ば以降の自分たちの時代になってから少しずつ階級が増えてきた。わしと権ちゃんも減量に耐えながら、様々な怪我を克服して、試合を重ねることで強くなっていった。お互い多くの辛酸を舐めあった最強のライバルだったんだ」

 徳川の話が次第に調子を帯びてきた。

「みんなは当然知らないと思うが、知る人ぞ知る伝説の元日本ジュニアフェザー級チャンピオン【権田坂実松】その人だよ」

 徳川が権田坂を指さした。

 今の様子からは想像もできない権田坂の若き日の雄姿に、初めて聴いたベンタと海斗が驚きと尊敬の表情で仕込み作業を続けている権田坂を見て、お互いの顔を見合わせた。

 徳川がベンタと海斗のために、権田坂との長い二人の関係をダイジェストにして一言でまとめて聞かせたのだった。徳川の満足そうな表情がそれを物語っていた。

「辛酸を『舐め合った』なんて、気持ち悪いなあ」

 権田坂が徳川の折角のいい話の腰を折った。

「今どきの人が聞いたら誤解しやしないかい?」

 いつものツッコミに女将さんは苦笑いを浮かべながら、

「この人また云ってるわ」

 という呆れ顔で徳川を見て、

「ごめんなさいね」

 という仕草をした。

 御老体どうしの親父ギャグに田口がお腹を抱えて笑っていた。

 ベンタと海斗は、はぁ? という感じで、何を云っているのかまったく意味がわからず、ぽかーんとした顔をしていた。

「お前って奴は、いつも話の腰を折りおって! いっぱい饒舌ったらお腹も膨れたところで、おいとまするよ。じゃまたな」

 徳川が手を上げて席を立った。

「あれ、ちょっと待った、食べていかないのかい?」

 権田坂が、徳川を呼び止めた。

「ははは、また来るよ。今日はごんちゃんに東弁君の紹介と、お世話になっている海斗君の様子を観に寄っただけだよ」

 徳川は笑顔でベンタの方を見た。そして、

「徳川ジムの将来を担う十五歳の若者二人を覚えて欲しかったんだ。忙しい仕込の邪魔をして悪かったな、ごんちゃん」

 と云いながら、ベンタの左肩に右手で軽くのせた。

「何だ、そうだったのかい。ありがとうな、徳ちゃん」

 権田坂が笑顔で答えた。

 田口が権田坂と女将さんに会釈をし、海斗が徳川と田口に、ベンタが権田坂と女将さんに若い二人がそれぞれ体を九の字に曲げてしっかり会釈をした。おかみさんが、

「今度は村木さんも一緒に皆さんで来て下さい」

 と店を出て行く三人に手を振って笑顔で送り出した。

【ベンタの回想、終わり】

 ……………………………………………………………………………………………………

「そう言えばそうだったなぁ」

 ベンタと海斗は、二人で笑いながら、歩いた。

 半年前の事に出会った頃の、最初の出来事を振り返った。

 そしてお互いの生い立ちやここまでの道のりをさらに話し込んだ。

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