第3話 1-2(2023年 10月その2)
地球温暖化の影響によるものなのか、ここ十年くらいの日本の夏と云えば、湿度が高いうえにさらに暑さが増し、三十五度以上が当たり前となった。より夏の期間が長く感じられるようになり、まるで亜熱帯か熱帯地域のような気候になりつつあった。
日本に住むスリランカの人々が「日本の方が暑いよ」と云うくらいの蒸し暑い、四十度前後の気温がいつの間にか定着していた。
今年も八月の猛暑から九月になり徐々に暑さが和らいだ。
十月に入ってようやく時折り朝晩の肌寒さを少し感じられるようになったとはいえ、それでもひと昔前までの九月や十月に比べると、まだまだだいぶ気温が高かった。
この日は二日、三日前からの秋雨の影響もあってか、今年の春以降で一番肌寒く感じられる一日だった。一旦弱まった雨が少しまた強くなりはじめていた。
ベンタは【松戸中央公園】にいた。
人とすれ違ったという意識はなかった。気落ちしているせいか、うつむきがちに歩いていた。
人の気配を感じる心の余裕は、今のベンタにはまるで無かった。数メートル先の歩道に視線をやりながら、歩道から伝わる冷たい空気を感じて身震いをした。
それはまるで、世の中の冷気という冷気が、雨と一緒に自分の体を包み込んで、まるで大きな冷凍庫の中にいるような気がしてならなかった。
何処をどう走って歩いてきたのか?
無意識な精神状態のまま、公園の入り口付近のベンチに一人うなだれて座っていた。
アウトドア用に開発された銀色のフード付き防寒軽量防水ジョギングスーツを着た体格のいい背中が膝の方にもたれかかって足元を見つめていた。
海斗はベンタを見つけて、ゆっくり近づいた。
そして落ち着いた口調で声をかけた。
「こんなところに座ってたら、体が冷えるぞ?」
どこか懐かしくて、暖かくて優しい、いつもの海斗の声だ。
「弱音を吐くなんてお前らしくないじゃないか?」
紐をほどいたフードをかぶったまま頭を垂れて、雨の滴が前髪から頬を伝って落ちてくるのも気にしていない様子だった。
ベンタは今にも泣き出しそうな声で、言葉を吐き出した。
「村木さんが一生懸命俺を鍛えてくれているのは分かってるんだ」
「なのに、云い返したんだ! 村木さん、きっと怒ってるよ。俺はもうジムに戻れない」
ベンタはうつむいたまま涙をこらえていた。
「分ちゃん……俺はボクシングなんか向いてないんだ。わかってるんだ!」
「人をぶちのめして勝ち負けを競うなんて、自分の性に合ってないんだ」
ベンタが投げやりになっているのが海斗にはよくわかった。
ベンタの言葉は、まるで自分のことのように感じられた。
雨音は急に静かになり、いつの間にか小雨になっていた。
「俺だってベンタと同じ気持ちだよ」
海斗がうつむいているベンタを観ながら話しを続けた。
「会長たちの時代と違うさ。昔の子供と違って、今は子供同士の喧嘩で友達を殴るってことさえ一度もないまま育ってきてるんだ。人を殴って気持ちのいいことなんてあるはずがないさ」
海斗は自分に言い聞かせるように言葉を選んだ。
「村木さんは怒ってないよ。一緒に謝りに行こう、なっ、ベンタ?」
普段は犬の散歩やジョギングの人で行き交う公園も、肌寒い小雨のせいで人の気配もまばらだった。
ベンタは手に巻いたままのバンテージの甲で目頭を押さえた。
「嫌だよ、和歌山に帰る」
ベンタが強い口調で云った。
「村木さんに辞めちまえって言われたんだ、戻れないよ」
「あの人の口癖だって! 誰にでも云うことさ」
海斗には、ベンタが自分自身を許せなくなっているように感じられた。
一旦止みかけたと思った雨がまた少し降り始めた。
折りたたみの傘をさしながら、薄暗い公園を抜けて、足早に家族の待つ自宅へ帰ろうとする会社帰りの年配のサラリーマンが、怪訝そうに二人を見ながら通り過ぎて行った。
「さあ、ベンタ、行こう」
うなだれているベンタを慰めるように言葉を選んだ。
「さあ、一緒に歩こう」
と云いながら、右手でベンタの左肩をポンポンと軽く叩き、筋肉質の左腕上腕を少し引き上げた。うつむいていたベンタが、気を取り直したのか、海斗の言葉に促されて、ようやく立ち上がり、二人は歩き出した。
海斗は黙って右手でベンタの背中を軽く押した。
二人は公園を出て、もと来た道を歩き出した。
雨は小雨のまま変わらない調子で、少し霧が出て霞がかってきた。
「村木さんは確かに厳しいけど、言葉がきついだけさ」
海斗は、一回り大きいベンタの顔を見ながら云った。
「現役時代は闘争心あふれる強打のファイターだったらしいよ」
ベンタはうつむいたままだ。
「だから誰に対しても言葉が自然ときつくなるのさ」
海斗が村木の気持ちを代弁した。
「そんな根性なしじゃ、プロは無理だって……」
ベンタは両手の拳を握った。
「チャンピオンなんか夢のまた夢だって云われたんだ」
スポーツなら、特にバスケットボールなら誰にも負けない、という小さい頃からの自信も、世界チャンピオンという夢も打ち砕かれたようなベンタの言葉だった。
「村木さんは口が悪いだけさ」
海斗は優しい眼差しをベンタに向けた。
「本気で云ってるわけじゃない、そういう人じゃないか」
ベンタの事が心配で追いかけてきた、海斗の思いやりのある言葉を聞いて、ベンタの気持ちに少しづつ変化が現れ始めていた。
それと同時にベンタの体は急激な寒さと倦怠感を感じてもいた。
雨の中を無我夢中で走ってきた疲労によるものなのか、それとも挫折と落胆の精神的ダメージでジムを飛び出してきた興奮が落ち着いてきたことによるものなのか、ベンタにもよく分からなかった。
和歌山から上京して半年。
親戚も知人も友達も、誰一人として自分が頼れる人がいなかった。
プロボクサーを目指しながら毎日ジムと選手寮を行き来する孤独なバイト生活の中で、ひたすらボクシングの基礎練習を続けるだけの先を見通せない不安が、少しづつベンタの心を蝕み、十五歳の若者が思春期の揺れ動く不完全な精神状態と闘いながら、夢と現実のはざまで、目に見えないストレスがベンタの心に生まれていたのであった。
スポーツや芸術といった特別な世界には、小さい頃から英才教育を受け、運と実力と才能に恵まれた天才的な若者が、同世代に必ず一人や二人存在しているという常識は、小さい頃からスポーツ競技を続けてきた海斗やベンタにとって、十分過ぎるぐらいあたり前の事だった。
当然ながら、ボクシングの世界も例に漏れない。
半年前にボクシングを始めた時からハンディを背負ってのスタートだった。
最初から水をあけられた、年齢もキャリアもバラバラなライバル達に、ベンタと海斗はあらゆる面で追いつかなければならなかった。
現役の間は常に体重管理と減量が付きまとい、プロとしての自己管理と責任という自分との戦いにも打ち勝たなければならない。
憎くもない相手と拳のみで殴り合い、殴った相手に勝ち、どんどんランキングを上げていく事が求められる。仮に日本チャンピオン以上になれたとしても、何度も防衛をしなければ高額なファイトマネーを獲得する事も安定した生活をしていくことさえも出来ない。バイト生活を終わらせるにはプロボクシングの世界で少しでも早く這い上がっていくしかなかった。
現在世界には数多くのボクシング団体があり、その中でも伝統と長い歴史を持つ、WBA・WBCに加えて、IBF・WBOの四つがメジャー団体として現在公認されている。
それは同時に各階級ともに少なくても四人の世界チャンピオンが存在するという状況を作り出していた。日本のボクシング史上最高傑作といわれる井上尚弥選手は、日本人で初めてこの四団体の世界バンタム級統一王者となった。これはアジア人初の快挙でもあった。
現在はその四つのベルトを返上し、一階級上げてスーパーバンタム級の統一王者を目指して挑戦を続けている。
日本チャンピオンにしても、東洋太平洋チャンピオンや世界チャンピオンにしても、井上選手のように、人気と実力の両方が備わっていなければ、注目度が高い試合を組んで高額なファイトマネーを得る事は出来ないのが現実で、本当の意味で頂点へ上り詰められるのはたった一人。しかし頂点に昇り詰める過程で、失明や網膜剥離、加えて内臓疾患や脳内出血といった健康障害による後遺症等、引退した後の仕事や生活への不安を抱えながら、それでもアルバイトや仕事を抱えて毎日ジムに通い、節制しながら試合のたびに減量し、自らの肉体をかけて、そして人生のすべてをかけて戦う。運が悪い場合はパンチドランカーや、最悪の場合命を失うことまで覚悟しなければならない。
お互いが打たれないようにして相手と打ち合う、高度な技術。
目の前にある現実のプロのリングとは、プロボクサーの生活や人生とはそれほど厳しい、想像を絶する下剋上の世界であった。
街灯の明かりに照らされながら、雨が歩道を濡らしていた。
夕方からの雨模様のせいで、走る車のヘッドライトの光を路面が照り返し眩しく乱反射していた。雨に濡れながら走る車のタイヤの音やすれ違う人の足音、車道から聞こえてくるトラックや乗用車の風を切る音が普段より増幅されていたが、二人の目や耳にはそんな当り前のいつもの街の風景が、まるで無声映画のように自分達の前をただ通り過ぎていく光景にしか感じられなかった。
「普通の若者のように気楽に遊びを楽しむことも無く、何の為に毎日毎日こんな苦しい練習をしなきゃならないのか?って。そう思ったらどうにも辛くなったんだ」
ベンタはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
そして少し照れ笑いを浮かべながら、ベンタは心の叫びを口にした。
「スポーツしか知らない世間知らずな自分でも、他にお金を稼ぐ方法はないのか? あってもそれが自分にとってふさわしいものかどうかもわからないよな、ってさ」
海斗には、ベンタの辛さが痛いほど身に染みていた。
海斗もベンタと同じ状況で生活をし、同じ気持ちを感じていたからだった。
「世間知らずは俺も一緒さ」
海斗は、ベンタに背中を向けながら噛みしめるように呟いた。
道端には雨に濡れた街路樹の朽ち落ちた枝葉が、バスを待つ人の列の足元付近で、通り過ぎる車のヘッドライトの光線に反射され、異様な輝きを発していた。海斗は続けた。
「世の中の事なんか何も分かっちゃいない。ただ、『自分の身の上に起きた運命に抗って生きてやろう』って、自分の人生に負けたくない一心で、もがいてるだけさ」
海斗は話しながら、岩手県下閉伊郡田野畑村【島越】に残してきた祖父母と妹の事を考えていた。
「ベンタ、前に話したろ、俺の田舎のこと」
海斗は悲しい眼をしながら話し始めた。
「じっちゃん、ばっちゃん、それに中学生の妹。残された家族みんなが……俺が東京でプロボクサーになって頑張る姿を……津波で全てがなくなった【島越】で、いろんな事に耐えながら待ってくれてるんだ」
海斗の心の中に、父と母に会えなくて泣きじゃくる幼い妹の顔が浮かんだ。
「震災(東日本大震災)で父ちゃん母ちゃんが海に流されたとき、俺は三歳、妹は一歳だった。だから俺はあんまり記憶にない。妹は父ちゃん母ちゃんのことを何も知らずに育った」
海斗の苦しみが、自分の想像をはるかに超えているようにベンタには感じられた。
「父ちゃん母ちゃんは、いくら待っても戻ってこなかった。母ちゃんの方のお祖父さんお祖母さんも一緒に津波に流されて未だに何も発見されていない。残っているのは写真だけ。だけど震災で肉親を失った人は大勢いる。辛いのは自分だけじゃないっていう現実をこの眼でたくさん見てきたんだ」
ベンタが、悲痛な表情の海斗の顔を見た。
「おれはさっ、小さい頃から同じ岩手県出身の大谷選手が大好きでさ。あんな凄いプロ野球選手になれたらいいなあって、ずっと思ってた。でも震災のボランティアで三陸に来ていた田上さんと徳川会長に出会って、俺はプロボクシングの道を選んだんだ。もう大好きな野球はやれなくなった。だけど全く後悔はしていない。『世の中の不幸を全部自分が背負った』なんて考えちゃいけないんだ」
海斗は、自分に言い聞かせるように言葉を継いだ。
「俺もベンタもこの年で父親を亡くしたんだ。頼れる親父はもうこの世にはいない。俺はもう母ちゃんに会うことも出来ない。だけどベンタには大切なお母さんが故郷で応援してくれてるじゃないか?」
自分以上に不幸な運命に翻弄された悲痛な海斗の言葉を聞いて、ベンタは和歌山に残した母の顔を思い出した。