第一章 ベンタと海斗 第2話 1-1(2023年 10月その1)
JR松戸駅の西口から駅前の大通りを真っ直ぐ、大人の足で十分程歩くと『江戸川』の土手が見えてくる。埼玉県から千葉県、そして葛飾の下町を抜けて東京湾へとつながるこの『江戸川』は、元は利根川の分流で、古くは江戸まで続く水運の船の物流を支え、且つ人の往来の重要な要所として渡船による周辺の河岸が発達していった。
川を暫く下ると江戸と矢切地域の人の生活を支えた有名な『矢切の渡し』があり、当時の賑わいを思い起こさせる懐かしい風情が今もなお残っている。『江戸川』の両岸の土手沿い一帯は、東京の下町に続く千葉都民と言われる人たちにとっての憩いの場にもなっており、災害対策として開発が進んだ両側の河川敷には、野球場やサッカー場、テニスコートやゲートボール場などの公営のスポーツ施設、またジョギングや自転車を楽しむ人達にとっても欠かせないスポーツロードがあり、健康や自然環境に配慮された住環境が整備されていた。
ゆっくり江戸川を眺めながら散策するお散歩コースを楽しみにしている人も多く、【健康ロード】として親しまれている土手沿いの道と、それに並行して走る東京と千葉、茨城、埼玉をつなぐ道路網は、蛇行する川の流れに沿いながら敷かれていて、水戸街道の渋滞緩和にも少なからず寄与していた。
松戸の河川敷がある土手沿い一帯は、昭和の時代から大々的に花火大会が開催されていた。
年号が『令和』になる前の『平成』の頃には、夏の季節ともなると、浴衣を着た多くの人や、親子連れ、近隣や東京近郊からの観光客、成田空港が近いことから海外からの外国人の観光客も多く集まり、地域振興の風物詩として昔から周辺住民に親しまれてきたが、四年前の2019年12月頃に中国の武漢で発生した新型コロナウイルスという感染力の強い原因不明の病気が世界規模で蔓延・流行したせいで、世界中がパニック状態になり、マスクを常用する生活が当たり前となった。あれから三年間、三密を避けるために大きなイベントやお祭り等がすべて中止されてきた。
新たな変異株が出るたびに大きなニュースになり、流行の波が医療のひっ迫や様々な制限と弊害を生んでいた。現在は第五類の定点把握とはなったが、今年の四月までは第二類の全数把握という政府の方針で、保健所や医療機関が毎日集計する数値が発表され、最も多い時で全国で一日に二十万人以上の感染者数、数百人規模の死亡者数と、呼吸器を必要とする重症患者も多数を占め、連日テレビやラジオ等のメディアで報道されつづけてきた。
医療機関の崩壊や、ロックダウンによる都市生活、経済活動の停止、また学校の閉鎖等を恐れて日常生活が振り回され、重症化を防ぐため小学生以下の子供もワクチンを接種するようになった。
また日本では医者が自由に使える国産のコロナワクチンや治療薬が厚生労働省からなかなか承認されず、マスクと海外旅行の制限解除やインフルエンザのような第五類の扱いにようやくなったのは五月からで、WHOによる緊急事態宣言解除も、同じく五月であった。
今年もゴールデンウイークやお盆の時期、秋から冬にかけて新型コロナの再流行が懸念されてはいたが、二年から三年中止されていた日本中の大型イベントや花火大会等のお祭りに集まる観光客の集客規模も、殆どがコロナ前の水準まで戻って催された。
二〇二三年、市制八十周年の記念の年を迎える松戸市もお祭りやイベント等の催事が数年ぶりに行えるようになり、【松戸花火大会】や松戸駅周辺で毎年十月に催される【松戸まつり】もコロナ前までの規模で開催され多くの人出で賑わった。
松戸市民にとって、イベントが無事開催できたことへの喜びと達成感、そして一体感と解放感は、決して小さいものではなかった。
新型コロナのせいで、外食より巣ごもりのように家で食事をする人達が増え、テイクアウトやインスタント、レトルト食品の消費に拍車がかかり、食事の流れが大きくシフトしていく中、中小企業や飲食店等の売上げの極端な減少に対して、国から事業継続支援金として一定の金額が補填されてはいたが、元々資金繰りが厳しい店は、お酒を提供する店を中心にコロナによる閉店や倒産が全国的に増えていった。新型コロナの第五類移行に伴い、人の往来の制限がなくなると海外からの観光客も増え、経済活動が活発になることは同時に中小企業や飲食を含めた小規模店舗にとって国からの補助金も無くなる事を意味していた。それにより今度は逆に閉店に追いこまれる店舗も増えはじめ、まるでバブルが弾けた一九八〇年代の光景を思い起こさせた。
千葉県にあるJR松戸駅前周辺も決して例外ではなかった。数十年前すでに大規模な開発が終わり、駅の西口側にあったスーパーの【ダイエー】が最盛期当時(昭和五二年以降)はまさに松戸の全盛期で、遠方からも多くの人が訪れかなりの賑わいがあったものの、ダイエーの終焉とともに街としての集客力が衰え、松戸駅周辺のテナントビルや商店街は今一つ活性化されないままの状態が長い間続いていた。特に数年前、松戸の代名詞といっても過言ではなかった百貨店の【伊勢丹】が閉店してからは、普段の人通りにも多大な影響が及び、現在は再び駅の再開発を進めている真っ最中ではあるが、東口にあるイトーヨーカドーが辛うじて営業を続けているという状態であった。
とはいえ、そんな中にあっても決して悪いことばかりではなかった。
ここ十五、六年程の間で、松戸が再注目されることになった話題の中心は、業界専門誌やユーチューブでも紹介されるほどのラーメンの超激戦区としての存在であった。
松戸市は都心に通うサラリーマンのベッドタウンとして多くの有名ラーメン店が進出し、ラーメンの激戦区として、全国からラーメン好きが集まる特別な場所にもなっていた。
そして何と言っても日本中はおろか世界にその名を轟かせる、つけ麺・ラーメンの名店「中華蕎麦とみ田」の登場は、正に奇跡と云っても過言では無かった。
ここ十年ほどに絞れば、現在はプロボクサーとして将来を嘱望される、キックボクシングの天才児、那須川天心の大活躍も特に大きな話題となった。
つけ麺・ラーメンの名店「中華蕎麦とみ田」の本店がある松戸駅東口の反対側、松戸駅西口からコンコースを抜けバス乗り場に下りると、目の前の大通りから真っすぐ、『江戸川』の河川敷までの一帯で、土手沿いに広がるエリアがある。上流に向かってしばらく歩くと右側のエリアには、戸建の分譲地や集合住宅、マンションや商業ビルが混在した閑静な住宅地が広がっていた。
ここは大人の脚なら駅から歩いて十五分ほどにある【樋野口】という所で、小さな公園も有り、喧騒を避けたベッドタウンといった感じの落ち着いた雰囲気のある場所でもあった。
もう少し上流に向かってゆっくり歩くと【古ヶ崎】という場所があり、ここは北松戸方面に向かって広がっていく手前のエリアで、松戸駅から歩いて三十分程の地域だった。
その一角に年季の入った看板を掲げた、あまり今風とは言えない、周りの雰囲気に相応してるのかあまりしていないのか、小さな工場跡地を再利用して改築した建物が一軒。
入り口には「見学希望の方はこちらからどうぞ」と書かれたカッティングシートが貼られていて、横にはインターフォンが有り、近づくと何やら大勢の人が動いている物音がした。
千葉県松戸市にある、この徳川ボクシングジムの中だけは、プロボクサーを目指す十代後半から三十代前半までの二、三十人の若者の熱気と真剣な男臭さにあふれていた。
赤と青のロープで囲まれた四角いリングの中では、ヘッドギアをした小柄なライトフライ級の選手が二人、トレーナーの指示を仰ぎながら軽量級らしい軽快な動きでスパーリングをしていた。リングの外ではパンパンという小気味良くミットを叩く乾いた音やリングシューズが擦れる音、鏡の前でシャドーをするパンチで空気を切る音や、ローピング(縄跳び)の回転する音、サンドバックを叩く音が響き渡り、ジムの中では、健康志向と護身のために仕事帰りにトレーニングに励む、三十代・四十代以降のサラリーマンの姿や、近年話題の【オヤジファイト】を目指す人も増えてトレーニングに励んでいた。
ジムの中はボクシングに取り組む男たちの情熱と熱気で異常な暑さに感じられた。
ブルーのマットが敷かれているプロ選手エリアでは、真剣にプロデビューを目指す若者や、四回戦、六回戦、八回戦以上の現役プロ選手数人がストレッチをしていた。
その近くで、腹筋運動を繰り返しながら、途中両膝を曲げた状態で四十五度の角度で停止した瞬間、何回もお腹を叩かれていた大柄な選手が一人。今にも泣きだしそうに見えるほど苦しそうな顔を歪めて嗚咽を漏らしていた。
「なんだ、そのヘッポコは?」
トレーナーの村木大介が、ベンタを叱咤していた。
「おらァ、気合いを入れろ、気合を!」
ベンタが耐えきれず背中からマットに伸びた。
「もう、無理っ、ス」
肩で息をしながら頭を上げられない。
「おらァ、こんなのも我慢できないのか? 図体ばっかりデカくたって、そんな根性無しじゃ、この世界では生きていけないぞ!」
村木が厳しい言葉でたたみ掛けた。
怒鳴られていた選手はベンタといい、ボクシングを習い始めてようやく半年が過ぎたところだった。
ベンタは、身長一八〇センチ、体重七〇キロの肩幅のある立派な体格とはうらはらに、九ヶ月前の一月に十五歳になったばかりで顔を見ると青年というより少年に近かった。
「おらァ、ベンタ、いつまで寝そべってんだ。もうへばったのか?」
村木が厳しい声をかけた。
「ボクシングは一歩間違ったら命に関わる危険なスポーツなんだ。自分の身を守るために必死に練習するんだ、分かったか?」
トレーナーの村木がさらに厳しい言葉を畳み掛けた。
「でも、苦しいものは苦しいっ、ス」
ベンタの引き締まってきた体中から汗が吹き出して、肉体的な疲労と精神的な疲労が蓄積された反動からか、苦しさのあまりトレーナの村木に初めて文句を言い返した。
「なんだと? 苦しいのは当り前だ。こんな程度の練習も耐えられない根性無しはボクシングなんか辞めちまぇ!」
現役を退いてもまだまだ闘争心むき出しの村木が短気を起こした。
「だいたいなぁ、すぐ弱音を吐くような奴にプロは無理だ!」
村木の語気がさらに強くなり、
「世界チャンピオンなんて、お前には夢のまた夢だ!」
村木が追い打ちをかけてベンタに罵声を浴びせた。
ベンタはうなだれたまま立ち上がり、汗をタオルで拭きながら、壁際においてあるジョギングスーツを着て、五六歩、歩き出した。そして村木に背中を向けながら、
「ロード行ってきます」
と、小声で云い終わるやいなや、肩を震わせながら足早にジムを出ていった。
「(村木)大介、ちょっと云い過ぎたんじゃないか?」
近くにいたマネージャー兼チーフトレーナーの田口が声をかけた。
「アイツには、あれぐらい云わないと闘争心のかけらもない奴なんですよ」
村木は角刈りの頭をかきながら、ばつが悪そうに苦笑いをした。
鏡の前でシャドーを繰り返しながら、ベンタと村木の様子を時折伺っている一人の選手がいた。
筋肉質で引き締まった体に若々しく精悍な顔つきの分銅海斗は、ベンタがジムを出て行ったのを見てシャドーを止め、田口と村木のところに近づいていった。
「すみません、自分も走ってきていいですか?」
海斗が田口と村木に少し遠慮気味に声をかけた。
「ベンタの事が心配なんで……」
右手で頭をかきながら照れくさそうに目線を下に向けた。
「おお、海斗、分かった。頼んだぞ」
田口がすぐに答えた。
「はい、ありがとうございます。行ってきます」
海斗が嬉しそうに顔を上げ、元気よく返事をして一礼した。
素早くジョギングスーツを着て、心配そうな顔つきで足早に海斗がジムを出ていった。
「大介、ベンタは大丈夫かい? 少し自信を失くしてるじゃないのか」
トレーナーの村木に向かって先輩の田口が心配そうに尋ねた。
チーフトレーナー兼マネージャーの田口仁志と、トレーナーの村木大介の二人は、同じ高校のアマチュアボクシング部出身で、共にオリンピック代表と世界チャンピオンを目指し、学生時代から才能を認められた、アマチュアボクシング界のエリートボクサーだった。
村木と同じ高校のボクシング部の先輩だった田口は、父親が世界タイトル十三度連続防衛の日本記録を持つ『カンムリワシ』具志堅用高と、その弟弟子で世界タイトルを五度防衛した世界チャンピオン渡嘉敷勝男という、共に沖縄出身の二人の天才ボクサーのファンだった影響で、小さい頃から父親にボクシングの指導を受け、もともと父親と徳川会長が知り合いだった縁もあり、ジムでも指導を受けながら技術を磨き、現役時代は防御主体の華麗なテクニックで、高校総体インターハイ「フェザー級チャンピオン」となり、金メダリストを数多く輩出した日本体育大学へ進学。一年生からトップ選手として活躍し、四年生の時に大学日本一になり、アマチュアの最高峰オリンピック代表を目指した。
アジア代表の選考会まで進み、決勝で、のちに世界チャンピオンとなるオーストラリアの選手に微妙な判定で破れ、オリンピック出場の夢が叶わず、断念。大学の職員として一度社会人を経験したが、徳川の誘いを受け、再びボクシングを再開。
二階級制覇の天才畑山隆則選手や三階級制覇を成し遂げた長谷川穂積選手、十二試合連続防衛の山中慎介選手に憧れ、プロ入り後はスーパーフェザー級でデビューし、日本チャンピオンとして五度防衛、さらにOPBF東洋太平洋タイトルを獲得、やはり五度防衛し、世界ランキング7位まで上がり、当時最強といわれた世界チャンピオンに挑戦を果たしたが、十二回TKOで破れ、左眼の網膜剥離が原因で現役を引退。その後、トレーナーになった。
一方の村木は、父親がアマチュアボクシングの出身で、徳川がジムを始めた頃からの後援会員だったことから中学に入ってすぐに徳川ジムへ通いはじめた。
現役時代は強打のファイターで鳴らした。田口と同じ高校で、高校総体「フェザー級チャンピオン」になり、ボクシングの名門拓殖大学へ進学。大学では一度も学生チャンピオンになれなかったためオリンピックを諦め、卒業後は田口の誘いでプロ入りをはたした。
大学の二人の大先輩、社会人を経験してからプロデビューし、スーパーフェザー級でKOの山を築いた、十一試合連続防衛記録のスーパーチャンピオン内山高志選手と、三階級制覇の八重樫東選手に憧れ、学生時代と同じフェザー級でプロデビュー。日本チャンピオンを三度防衛し、田口と同様OPBF東洋太平洋タイトルを獲得して世界ランキング八位まで上がったが、世界挑戦を目前にして、精密検査で脳内出血が判明し、再起できずやむなく引退。
田口と村木。二人は学生時代を含め、プロボクサーとなって引退するまで徳川ボクシングジムで指導を受けながら切磋琢磨し、苦楽をともにして腕を磨いた同門の先輩後輩であり、徳川の薫陶を受け、そのすべてを受け継いで、フェザー級、スーパーフェザー級を知り尽くした師弟の間柄でもあった。
「ベンタは日本人離れした素晴らしい素材なんです」
村木が続けた。
「海斗の柔軟さや俊敏さとは違い、ベンタはすばしっこくは動けない」
村木が力を込めた。
「だけど小さい頃からバスケをやってきてるから瞬発力と脚力はあるし、フェイントを入れるというバスケの感覚と技術があって、体の切り返しが上手い。そして何よりあの馬力です」
村木が自分の首にかけているタオルを両手で強く握った。
「アメフトやラグビーをやったらトップレベルの選手になれるような身体の芯の強さ。理想的にはガーナの世界ウェルター級チャンピオン、アイク・クォーテーの様にガードを固めて強いジャブで相手を近づけさせないタイプ、または、防御をしっかり学んで相手のパンチをかわしながら、多少ボディを打たれても、逆に破壊力のあるハードパンチで相手を倒した、ウクライナの世界ヘビー級チャンピオン、ウラジミール・クリチコのようなタイプのボクサーになれる可能性がベンタにはあると思うんですよ」
田口を見ながら一呼吸おいて、村木は話を続けた。
「体が成長しきっていない今のうちに少しずつボクシングに必要な強い筋力をつけながら、無駄な脂肪を徐々に削り落として、成長期が終わるまでに細かい防御技術とパンチ力を身につければ、世界に通用する中・重量級ボクサーとしておもしろい存在になりますよ」
村木のベンタへの期待感が田口には十分に理解できた。
「問題はあの性格だ。どこかのんびりしていてエネルギーが爆発するまでになかなかエンジンがかからない。お坊ちゃん育ちというか、あれさえ克服できれば大化けすると思うんですよ」
室内リングの中ではヘッドギアをしたフライ級四回戦の選手が、バシッ、バシッと音を立てながら、打ち合ってスパーをしている様子に目配りをしながら、田口は村木の肩を軽く叩いた。
「そういえば、昔同じような選手を一人知ってるぞ、大介」
田口の顔が笑っていた。
「田口さんも人が悪いなあ、それは俺のことでしょ?」
村木も苦笑いをしながら頭をかいた。
村木は軽い笑みを浮かべながらも自分が短気を起こして云い過ぎた事が一因になったことへの反省で少し不安げな表情をしていた。ベンタを最高の選手にしたいという熱い情熱が、村木を駆り立たせた事くらい、田口は十分に理解していた。
村木は昔から一途な性格の人間だった。
期待が大きいだけに、心にもない事をつい口走ったのであった。
「なあ大介、うちのジムから俺たちが叶わなかった世界を獲れるボクサーを育ててみたい、心の底からそう思ってるんだよ」
田口は何かを欲している表情で後輩の村木の顔を見た。
「大介、焦るなよ、じっくり育てるんだ。教える俺たちが辛抱しないといけない」
田口は村木の顔を見ながら諭すように云った。
「まだまだ体が大きくなる。無理な減量をしなくても、試合が出来る選手に育てるんだ。階級を決めるのはその後だ」
「わかってますよ、田口さん」
村木は決意を込めた真剣な目で、苦労を共にした先輩田口を見た。
「世界タイトルを獲れるボクサーを必ず育ててみせます」
田口が頷きながら、少し笑みを浮かべて村木に尋ねた。
「それにしても海斗だ。中学時代に県内外の高校から野球推薦のスカウトが試合を見に来るぐらいの選手だったらしいが……大介はどう思う?」
「運動神経全般に優れた海斗のようなタイプは、多分何のスポーツをやっても一流になれるんじゃないかと思える身体能力を持っています。素質だけなら日本代表クラスです」
学生時代アマチュアボクサーのトップレベルで活躍した村木は、様々な選手を見てきた経験で感じたままの率直な意見を述べた。
「俺はな、海斗がうちのジムに入ってきて練習を始めた頃、あの筋力と柔軟さ、そして一つ一つの体の動きを見て驚いたんだ」
村木と同じくアマのトップレベルでオリンピックを目指した田口が、初めて海斗に対する自分の印象を口にした。
「海斗には正直、俺も驚きました。十五、六歳のボクシング初心者とは明らかに何か違うものを感じてました。その何かは分かりませんが……」
村木も初めて、海斗に対する自分の印象を田口に告げた。
「海斗は俺が今まで見たことがない、誰とも違うタイプのボクサーになるような気がしてならないよ」
田口は海斗の未来を予想した。そして続けた。
「ベンタと海斗、あの二人には、何か特別なものを感じるんだ」
リングの中で打ち合いをするスパーリング中の選手の動きを見つめながら、田口は自分に言い聞かせるように穏やかな声で言葉を続けた。
「田口さん、ベンタには海斗がついてるから、心配いりませんよ」
村木は自分のバツの悪さを何とかカバーして欲しいという思いで、海斗に期待を寄せた。
「そうだな、海斗は頼りになるからな」
田口は心のなかで、
『頼むぞ、海斗』
とつぶやきながら、
『無事に戻って来いよ、ベンタ』
という気持ちで一杯だった。
不安そうな眼を向ける後輩の村木を見ながら、田口も自分を納得させるようにうなずいた。
ジムの外は小雨が降りはじめていた。
一方、海斗は外に出て左右を見渡した。
ベンタの姿を捜したが、確認することが出来なかった。
ベンタは快足を飛ばしたのか、すでにその大きな背中は見えなくなっていた。
海斗は頭の中でベンタの行き先を予想した。
『ベンタは土手沿いの【健康ロード】、ではないな』
『必ず街灯の明るいロードコースを走るはずだ』
「そうなると……」
海斗は確信を持って走り出した。
「松戸中央公園だな」
海斗はつぶやきながら、ウエアのフードをかぶり顎のところで紐を結んだ。
そして周りを確認しながら徐々に走るスピードを上げていった。
夕方の買い物客や薄手のコートを着て傘をさしながら家路を急ぐ人をすり抜け、にぎやかな駅前通りを抜けると、いつもベンタと二人で歩く見慣れた景色が飛び込んできた。