【短編】浮気を繰り返す婚約者が、君を一番愛しているんだよと言ってきた
煌びやかな夜会会場から逃れるように、人気のないバルコニーでは若い男女が愛を語り合っていた。
「愛しているよ」
月夜の下で、銀髪碧眼の見目麗しい第三王子に囁かれて、うっとりするお相手の貴族女性。
「パトリック殿下……」
二つの影が重なる。その様子をターラント侯爵令嬢であるジェシカは、少し離れた場所から冷めた目で見ていた。
(何が悲しくて、婚約者の浮気現場を見せつけられないといけないのかしら?)
先ほどパトリックの従者から「殿下がバルコニーに来てほしいとのことです」と伝えられたので来たら、このありさまだ。
ジェシカは深いため息をついた。
(私達、相性が悪かったのかもね……)
パトリックの銀髪が月のようなら、ジェシカの黒髪はまるで月のない夜空のよう。パトリックの青い瞳が凪いだ湖のようなら、ジェシカの赤い瞳はまるで燃え盛る炎のよう。
どちらも美しいが、二人の容姿は対照的だった。
そのとき、パトリックがジェシカの存在に気がついた。浮気現場を見られたにもかかわらず慌てる様子も、悪びれる様子もなく口元に笑みが浮かべている。
まるでジェシカに浮気現場を見せつけて楽しんでいるようだ。
ジェシカは再びため息をつくと、静かにその場を離れた。すぐに赤髪の護衛騎士がジェシカのあとを追ってくる。
「ジェシカ様! パトリック殿下をあのままにしておいていいのですか!?」
「いいも何も、浮気をされるのは今回が初めてではないわ」
パトリックはジェシカと一緒に夜会に参加するたびに、婚約者であるジェシカを置いて別の女性との逢瀬を楽しみに行ってしまう。
(出会った頃のパトリック殿下は、こんなことをするような人ではなかったのに……)
パトリックへの愛情は、とっくの昔に失われて、もうジェシカの中には欠片も残っていない。
置いていかれたジェシカは、以前、酔った貴族男性にからまれそうになったことがあり、自衛のために夜会にまで侯爵家の騎士を連れて歩くことになってしまった。
ジェシカはターラント侯爵家騎士団の副団長であるアンディを振りかえった。アンディは、ターラント侯爵にも認められているほど優秀な騎士だ。貴族が集まるパーティー会場内にいても、まったく違和感がないくらい整った外見をしている。
「ジェシカ様、あの愚か者の首を取るご許可を。見事に打ち取って見せます」
ジェシカは、アンディの鋭く吊り上がったグレイの瞳を見つめた。
(冗談を言っているようには見えないわね)
アンディは少しだけ暑苦しいところはあるが、『それだけ職務に真面目なのね』とジェシカは思っていた。
アンディが本当にパトリックを打ち取ってきたら困るので、ジェシカは話題を変える。
「いつも夜会に付き合わせてごめんなさいね」
「俺のことはいいのです。そんなことより、あんな男にジェシカ様を侮辱されて黙っておれません!」
「そうねぇ……。ここまでされるとお父様もお怒りになるかもね……」
ジェシカとパトリックの婚約は、王家の強い希望で結ばれたものだった。その目的は、侯爵家から王家への金銭的援助だ。
ターラント侯爵としても、一人娘のジェシカの婿養子に入ってくれる令息を探していた。
こうして、両家の利害は一致した。
(国王陛下からも私達の婚約がどうして成立したのか、話してくださっていたと思うけど……。パトリック殿下はまったく聞いていなかったようね)
「さぁ、どうしたものかしら?」
ここまで軽んじられては、ターラント侯爵家を侮辱されているようなもの。
「何か手を打たないとね……」
ジェシカがそうつぶやいたとき、夜会会場の一角が騒がしくなった。
「ジェシカ・ターラント、どこだ! 今すぐ僕の前に出てこい!」
「まったく……。浮気の次は何かしら?」
出ていかずにジェシカがため息をついていると、パトリックのほうから近づいてきた。
「見つけたぞ、ジェシカ!」
パトリックの隣には、先ほどの浮気相手の令嬢がピッタリとくっついている。何が楽しいのか二人ともニヤニヤと笑っていた。
「ジェシカ、君とは今日限りで婚約を破棄する!」
「……」
あきれ返ったジェシカは、つい無言になってしまった。
(私から破棄するならともかく、どうして浮気をしていたほうがそんなことを言ってくるのかしら?)
どういう思考でそんなことになっているのか、ジェシカは純粋に興味が湧いてきた。
「婚約破棄の理由をお聞きしても?」
パトリックは、フフンと笑う。
「君には可愛げがない。女性というのは、彼女のように可愛くなければ」
パトリックに肩を抱き寄せられた令嬢が、勝ち誇った顔をする。
「はぁ……可愛げ、ですか?」
(言われてみれば確かに、私には可愛げはないかもしれないわ。私としても浮気者の男性には嫌悪感があるし)
このまま婚約を続けていては、双方不幸になるのが目に見えている。
「そうですね。では、婚約破棄をうけたまわ――」
ジェシカが「うけたまわります」と言い切る前に、ジェシカの視界いっぱいに赤いバラの花が広がった。
「は?」
なぜかパトリックが、ジェシカに大きなバラの花束を差し出している。
「ウソだよ、ジェシカ!」
バラの花束の向こう側でパトリックが満面の笑みを浮かべた。
「まさかこんな冗談、本気にしていないよね?」
パトリックに寄り添っていた令嬢や、周囲の貴族たちがニコニコ笑っている。
「僕が愛しているのは君だけだよ、ジェシカ!」
ジェシカは首をかしげた。
「愛ですか? 殿下はそちらの女性にも同じことを言っていたようですが?」
「ああ、あれはほんの遊びだよ。恋は駆け引きと言うだろう? 恋多き男のほうが魅力的なんだ。ジェシカは、愛する僕が別の女性に愛を囁いて嫉妬したでしょう?」
「では、殿下は私を嫉妬させるために、わざわざ別の女性を口説いて見せつけていたと?」
「そうだよ、そのほうが盛り上がるだろう? 一番は君さ。愛している、ジェシカ」
ジェシカは、何度目になるか分からないため息をついた。
(なんなのでしょうね、この人は)
もう会話すらしたくなくて黙り込んでいるジェシカに、パトリックは「なんとか言ってよ、ジェシカ」と甘えるような声で言ってきた。
(この人、婚約当初はこんなことを言うような人ではなかったのに)
出会った頃のパトリックは、もっと大人しくて自信がなさそうだった。優秀な第一王子や第二王子と比べられて、縮こまっていたのだ。
(政略結婚でもせっかくできた縁なのだから、お互い大切にできる関係になればいいと思い、私から好意を伝えすぎたのがいけなかったのかしら?)
ジェシカは、パトリックに会うたびに、いろんなことを褒めに褒めた。髪型から顔から、声まで。褒めれば褒めるほど、パトリックが自信をつけていったので、ジェシカは嬉しかった。
(それがいけなかったのかしらね……)
好かれている相手には、何をしても許してもらえると愚かな勘違いをしてしまう人がいる。そう、今のパトリックのように。
「では、殿下に私の気持ちをお伝えしますね」
ジェシカは、パトリックの青い瞳をまっすぐ見つめた。
「……キモッ」
低い声で思いっきり顔を歪めながら伝えると、輝くような笑みを浮かべていたパトリックの表情が固まる。
「え? ジェシカ、なんて? 聞こえなかった」
「ですから、キモッと言いました。ちなみにキモッとは、気持ち悪いの意味で平民が使う言葉です」
「え? え? 気持ち悪い? ジェシカはお酒の飲みすぎで気分が悪くなったってこと?」
ジェシカは、お酒なんて一滴も飲んでいない。
(私が夜会でお酒を飲まないようにしていることすら、パトリック殿下は知らないのね。私には、少しも興味がないことが分かったわ)
もうこれ以上話したくもないのでジェシカが帰ろうと踵を返すと、背後では護衛のアンディが怒りでブルブルと震えていた。
「ジェシカ様、発言の許可を」
地獄の底から這い出てきたような声でそんなことを言ってくる。
「私の許可があっても仕方ないでしょう。パトリック殿下、私の護衛の発言を認めてくださいますか?」
「えっ? あ、ああ、許可する」
アンディは、鼻から息を吸い大きく吐いた。
「では発言させていただきます。ただ今のジェシカ様の『キモッ』発言は、パトリック殿下に向かって発せられたことであり、意味はパトリック殿下が気持ち悪すぎて今すぐ目の前から消えてほしいという意味です!」
アンディの声は、夜会中に響き渡る。
「ジェシカ様はパトリック殿下との良好な婚約関係を築こうとされていましたが、パトリック殿下はジェシカ様のお心を踏みにじり、弄ぶようなことばかりされてきました」
「そ、そんなことは……」
あせるパトリックに、アンディはさらに言葉を続けた。
「護衛の俺がこの場にいるのがその証拠です。パトリック殿下は他の女性と遊ぶことに熱心で、ジェシカ様はいつも夜会でお一人でした。こんなにお美しいジェシカ様を一人にしたらどうなると思いますか? そりゃもう、危ないに決まっています!」
周囲の貴族たちは、ザワザワとざわめいている。
パトリックが「いや、だからそれは、恋の駆け引きで……。ね、ジェシカ? 僕のことを愛しているジェシカなら分かってくれるよね?」というので、ジェシカは淡々と間違いを指摘した。
「殿下は勘違いなさっていますが、私達の関係は恋ではなく政治的意味合いを含んだ婚約です。求められるのは、誠実さと信頼関係なのです。恋を楽しみたいのであれば、どうぞ別の方と」
「ジェ、ジェシカ!」
必死な声で呼び止められたジェシカは、ゆっくりと振り返った。パトリックが安堵する顔が見える。
「良かった。ジェシカ、君はやっぱり僕のこと……」
「いいえ、殿下への愛情は、もう少しも残っておりません」
「あ、愛情がない?」
今さら衝撃を受けているパトリックに、ジェシカはさらに言葉を続けた。
「殿下、先ほどの婚約破棄うけたまわりました。そちらの浮気による婚約破棄なので、のちほど慰謝料を請求いたします。あっ、そうそう」
そう言いながらジェシカは、パトリックに愛を囁かれていた令嬢に視線を向けた。
「あなたを含めたパトリック殿下の今までの浮気相手すべての方にも慰謝料を請求いたします」
浮気相手の女性が「ど、どうして私が!?」と驚いている。
「どうしてって、パトリック殿下と私の婚約は、王家と侯爵家を結ぶ重要なものです。それを破談にさせた責任は重いですよ」
「そんなっ!? わ、私はパトリック殿下に頼まれて浮気相手を演じていただけで……」
「本当に?」
ジェシカは、浮気相手の女性をまっすぐ見つめた。
「本当にそれだけの理由で、私を……。ターラント侯爵家を敵にまわしたのですか? だとしたら、あなたはあまりにも浅はかです。でも、違いますよね? あわよくば、私の代わりにパトリック殿下の婚約者になれるかもしれない。そうなれば、ターラント侯爵家さえも退けられる。そう考えたから、引き受けた。違いますか?」
浮気相手の女性の顔は真っ青だ。
ジェシカは、改めてパトリックに視線を戻した。
「殿下は恋の駆け引きを楽しんでいたかもしれませんが、あなたのその行動のせいで、多くの女性が惑わされました。私もとても不快でしたわ」
護衛騎士アンディも、ジェシカのとなりでウンウンとうなずいている。
「では、殿下。失礼いたします。もう二度と会うことがありませんように祈っております」
ジェシカは、優雅に淑女の礼をしてからその場を立ち去った。
背後でドサッと音がして「きゃあ!? パトリック殿下が気を失って倒れたわ!」と悲鳴が上がったが、ジェシカは立ち止まらない。
さっさと馬車に乗り込みターラント侯爵家に戻ったジェシカをメイド達が出迎えた。
自室でメイクを落とし、ドレスからゆったりとしたワンピースに着替えている間に、護衛騎士アンディが侯爵であるジェシカの父に夜会で起こったことを報告したらしい。
ジェシカが父に会いに行ったときには、父は怒りで顔を赤黒く染めていた。その場にいた護衛騎士アンディも同じような顔をしている。
「話はアンディから聞いた。パトリック殿下との婚約は早急に破棄する」
「ありがとうございます。お父様、そうと決まれば、次の婚約者を探しましょう」
淡々とジェシカが伝えると、父は「お前は本当に私に似ているな」とため息をつく。
「褒めていただき光栄ですわ。貴族に生まれたからには、貴族の責務を果たします。ターラント家に利益をもたらす相手はいますか?」
「そうだなぁ……」
父は腕を組んで考え込んだ。
「今は、レッグ公爵家と繋がりがほしい。あそこの山を開拓して通れるようにすれば、隣国からの新しい輸入経路が確保できる」
「なるほど。では、レッグ公爵家の方と私の婚約を――」
ジェシカの言葉に、父が首を左右に振る。
「それだが、あそこの長男はすでに結婚していてな。次男がいるのだが、貴族社会を嫌い若い頃に『俺は自由に生きる!』と叫んで家を出ていったまま、行方が分からないらしい」
「あらまぁ、そんな貴族の責務を放棄するような方との婚姻なんて嫌ですわ。でしたら婚約はあきらめ――」
そのとたんに「ちょっと、待ったぁあああ!」というアンディの大声が響いた。
何事かと驚いていると、アンディが「ジェシカ様! お、お待ちください!」と必死に叫んでいる。
「何を?」
「レッグ公爵家の次男との婚約をあきらめないでください!」
「でも、行方が分からないのよ? しかも自分が自由になりたいというくだらない理由で行方をくらますような無責任な方よ? 私、そんな方、嫌だわ」
アンディは、なぜか「うぐっ」と言いながら痛そうに自分の胸を押さえた。
「まったくもってジェシカ様のおっしゃる通りですが、その次男、今はきっと、心を入れ替えております」
「そうなの?」
「はい、俺はその者の行方も知っています」
「でも……」
困ったジェシカが父を振り返ると、父は悪そうな顔で笑っていた。
(こういう顔をしているときのお父様は、何か企んでいるのよね…)
父が止めなかったので、ジェシカはアンディの言う通りレッグ公爵家の次男と会うことになった。
行方不明のはずなのに、なぜか話はトントン拍子に進んでいき、今日、そのレッグ公爵家の次男がターラント侯爵家を訪れるそうだ。
ジェシカは、気が進まないまま身支度を整えた。整え終わったところで、メイドが来客を知らせる。
「お嬢様。お客様がいらっしゃいました」
「レッグ公爵家の次男が来たのね」
ジェシカの言葉に、メイドが困った顔をした。
「いいえ、そうではなく。第三王子殿下が来られました」
「パトリック殿下が?」
ジェシカは、混乱しながらパトリックの待つ客室へと向かった。
(今さらいったいなんの用があって来たのかしら? もしかして、レッグ公爵家の次男がパトリック殿下だなんていわないわよね?)
客室では、パトリックがソファーに座ってうつむいていた。ジェシカが来たことに気がつき顔を上げたが、その顔は憔悴している。
「ジェシカ……」
そうつぶやいた声は、今にも消えてしまいそうだ。
「僕は君がいないと生きていけない……。そ、それなのに、君が別の婚約者を探していると聞いて、いてもたってもいられなくて……」
ジェシカは、首をかしげた。
パトリックの話を聞く限り、レッグ公爵家の次男がパトリックだったということはなさそうだ。
(それはそうよね。少し混乱しすぎたわ)
ジェシカは、パトリックの向かいのソファーに腰を下ろす。
「殿下」
「ジェシカ……」
縋るような瞳を向けられても何も感じない。
(まだ殿下は、現実が見えていないのね。元婚約者として、最後に現実を見せてあげましょう)
「殿下はいつもご自身のことばかりですね」
「え?」
驚くパトリックに、ジェシカは困ったように微笑みかけた。
「だって、殿下ったらこんな状況になっても、謝罪のひとつすらないんですもの」
「……あっ」
そう言われてから、パトリックはようやくそのことに気がついたようだ。
「ジェシカ――」
「でも、今さら謝罪はいりません」
ジェシカは、パトリック殿下の言葉をさえぎった。
「殿下。この世には、一度失うと二度と戻ってこないものもあるのです。私からあなたへの信頼や愛情がそれです」
「すまなかった」
パトリックの頬に涙が流れていく。
「君からの好意が心地好くて……もっともっとほしくなってしまったんだ。こんなことをしても愛してもらえるんだと、優越感に浸っていた。君の苦しむ顔を見て……僕は愛されているからこそ、嫉妬してもらえていると喜んでいたんだ」
ジェシカは、首をかしげる。
「殿下は私の愛情がもっとほしかったのですか? でしたら、あんなことをせずに、あなたも私と同じように私を褒めてくだされば良かったのです」
「そ、そんなことで……?」
「はい、そんなことで良かったのです。私は一方的に送る愛情には限度があると思います。でも、お互いに愛情を送り合うと、ずっと愛し合っていけるのでは、と思うのです」
パトリックは「そんな簡単なことで良かったのか」と後悔をにじませている。
「殿下。私の気持ちは壊れてしまい、二度とあなたには戻りません。しかし、この破局で学んだことは、きっと今後の私達に役立つと思うのです」
「今後……?」
「そう、今後です。一度の失敗がなんですか。生きていたらいくらでも失敗します。きっと殿下は、次に出会った女性は傷つけることなく大切にしてあげられると思いますよ。私だって、次の婚約は成功して見せますから」
パトリックは「複雑だ……」と言いながらも小さく笑った。
「私達の関係は、政略で結びついたものです。だからこそ、今回は慰謝料というお金で解決できました。まぁその額が大きかったので、殿下には相当な罰になったと思いますが」
その慰謝料でターラント侯爵家は潤ったし、浮気相手を喜んで演じていた女性達の家は、ターラント侯爵家に頭が上がらなくなった。その結果、父は政治がやりやすくなったと喜んでいる。
「破局した私達には悪いウワサがついて回りますが、そんなことで潰されるほど、私達は無価値ではありません。だって、私はターラント侯爵令嬢で、あなたはこの国の第三王子なのですから。利用価値ならいくらでもあるのです」
パトリックは、まるで眩しいものを見たように目を細めた。
「君の、そういうところに、ずっと憧れていた」
(婚約していたときにその言葉をくれたら、私達の今の関係は変わっていたかもしれない。でも、もうすべてが遅いわね)
ジェシカは、小さく微笑んだ。
「さようなら、第三王子殿下」
最後はあえて、パトリックの名前を呼ばなかった。
パトリックが帰ったあと、いつまで待ってももう一人の来客が来ない。
ジェシカは、三杯目の紅茶を注ごうとしているメイドを止めた。そして、ソファーの向かい側に座っているアンディを睨みつける。
「アンディ。レッグ公爵家の次男は、いつになったら来るの?」
「そ、その……」
(常に直球のアンディが口ごもるなんてめずらしい。何か事情がありそうね)
ジェシカは、アンディの言葉を待つことにした。
「レッグ公爵家の次男は、かなりの愚か者で貴族がなぜ貴族であるのか、その責任の重要さについてまったく考えていなかったのです」
「まぁ、『自由に生きる』なんて言葉を残して出ていくような方だそうだから、そうでしょうね……」
アンディが深くうなだれた。
「その愚かな次男は、多少、剣の腕に自信があったのでとある貴族の騎士団に入団しました」
「あら、そうなの?」
ジェシカは、相手に少しも期待していなかったが『騎士団に入れるならまったくの無能ではなさそうね』と考えを改める。
「そこで、とある貴族のご令嬢にお会いして……。その方は次男と正反対の考え方を持っていたのです。貴族と生まれたからには、貴族の責任を果たすと日々努力されていました」
アンディがゆっくりと顔を上げた。
「そんな方を見て、レッグ公爵家の次男として生まれたのに何の責任も果たさずに家を出た俺は、自分がどれほど無責任なことをしていたのか思い知ったのです」
「あなたがレッグ公爵家の次男……」
「はい、そうです」
真剣な瞳が、ジェシカを見つめている。
「俺はジェシカ様のことを、ずっと尊敬しておりました。でも、夜会に護衛としてついていくようになってからというもの、婚約者に蔑ろにされているジェシカ様を見るたびに腸が煮えくり返るような思いを……」
そこで一度言葉を切ったアンディの顔は、徐々に赤くなっていく。
「そのうちに『俺ならジェシカ様を悲しませないのに』とか『他の女性に目を向けずジェシカ様だけを大切にするのに』などという不相応なことを考えるようになってしまい……」
まだまだ話が続きそうな雰囲気だったので、ジェシカは「ようするに?」とつい口を挟んでしまった。
「ジェシカ様、愛しております! 俺と結婚してください!」
勢いよく立ち上がったアンディは、ジェシカに右手を差し出した。
ジェシカは直感的に『この手を取ると婚約を飛ばして、今すぐにでもアンディと婚姻を結ぶことになりそうな気がする』と思った。
今までのジェシカなら慎重にことを進めるために『まずは婚約から』と言っていたはず。
(でも、パトリック殿下とはその婚約期間に破局してしまったのよね)
悩んだのはほんのわずかな時間。ジェシカは覚悟を決めてその手をとった。
「お願いします」
その後、パァと顔を輝かせたアンディに苦しいくらい抱きしめられたので、「婚姻前にふしだらなことをしないでください!」と怒ったら「では、ふしだらなことは婚姻後に!」と真面目な顔で返されてしまう。
頬が真っ赤に染まったジェシカは悔しいが、それ以上言い返せなかった。
こうして、ターラント侯爵令嬢ジェシカは、レッグ公爵家の次男アンディと結婚することになった。
父はアンディの素性を知っていたようだ。知っていてアンディがどういう行動を取るのか高みの見物をしていたらしい。
(さすが私のお父様、良い性格をしているわね)
ジェシカの結婚後、パトリックも他国の姫と婚約を結んだ。心を入れ替えたパトリックは、その婚約者をとても大切にしているらしい。
その話を聞いたジェシカが「若いころの失敗は、人生の勉強でもあるのね」とつぶやくと、愛する夫アンディまでも大ダメージを受けてしまった。
なので、ジェシカは、もうこの話はしないことにした。
おわり




