【9】戸惑い *アーサー視点
このところ落ち着かない気持ちでいる。
奥方様がばっさりと髪を切った。ばっさりなんていう生易しいものではない。
腰のあたりまでのたっぷりした美しいハチミツ色の髪だったのに、少年のように顎のラインで切り揃えてしまったのだ。
たしかに日頃は作業がしやすいようにといつも後ろで一つにまとめていて、少し切ろうかしらと言っていらした。
だからと言ってまさかあんなに短くするとは……。
お姿を見た瞬間、言葉を失ってしまった。
貴族の女性は髪をとても大切にしている。夜会やパーティの時は、どれだけ美しくまとめてそこに高価な飾りをつけるかに力をいれるものだ。
そんな『女性の命』ともいえる髪をばっさりと切った奥方様の心の内を思うと、穏やかではいられなかった。
ヘレナは短く髪を切った奥方様を見た時に、グズグズと泣き出してしまった。
本邸付きの我々三人の中でしか言えないことだが、私たちは日を追うごとに奥方様に惹かれている。
こんな境遇で嫁いできたのに、奥方様は愚痴のひとつ涙のひとつもこぼさない。
何の飾り気もない『本邸』とは名ばかりの寒々しい建物に、たった三人の使用人と共に閉じ込められている。
別邸には三十人近い使用人がいることを奥方様は知らない。
廊下や吹き抜けの階段まで炭火鉢が点々と置かれ、別邸全体が暖かく保たれていることを知らない。
旦那様によって奥方様は、別邸に近づくことも禁じられているからだ。
それなのに奥方様はたった三人の使用人に、家族や友人のような思いやりを向けてくださる。
ご自身の私室の掃除を始め身の回りのほとんどのことを、奥方様は自分でなさる。
贅沢で高価な物など何一つ求めず、領主夫人であるのに薪の節約のためにこの寒冷地で湯浴みも週に二度しかなさらない。
その湯浴みの時も、すぐにヘレナに後の湯に入るように言うらしく、その時の残り湯も湯で洗うと汚れものが良く落ちると言って自ら洗濯に使う。
別邸で、深窓の姫君のごとく大事にされているブリジット様とはあまりにも扱いが違う。
結婚初夜から旦那様は奥方様の部屋を訪れたことは一度もない。
花の一本も奥方様に贈ったことはなく、奥方様が私費でインク瓶を三つ買っただけで、わざわざ私費で買ったと言うのは小賢しいと吐き捨てるように言ったのだ。
旦那様は、ご自分のままならないことへの鬱憤を、ちょうどいいところにいる奥方様にぶつけているのだ。
旦那様ご自身もおそらくそのことを分かっていらっしゃる。
奥方様が何も悪くないことも、でもそれを認めてしまえばご自身の苛立ちをご自身で解決する必要に迫られてしまうことも。
不敬を承知で言えば、旦那様は奥方様を突き放しているように見えて、その奥方様に甘えているのだ。
奥方様は領主の妻として、積極的に街で領民たちと交流をしている。
困ったことがあると聞けばそれを助ける。
街では多忙な旦那様の代わりに来たと、領民の暮らしを見ようともしない旦那様をかばうように言っている。
その実、旦那様は多忙などではない。
領主として書類に目を通したりはしているが、この土地をもっと繁栄させようだとか交易を盛んにするための布石を打つとか、領民の陳情を聞くといったそういう仕事には手を出さない。
領主の仕事は、別邸に居る五人の執事と自分を加えた六人で行い、役場の者たちと国境を守るオールブライト騎士団と連携している。
旦那様は豪華な別邸で、物語のお姫様のように暮らすブリジット様と共に、特に何をするでもなく一日二食と豪華なティータイムをゆったりと過ごしている。
庭を散策してみたり読み物を取り寄せてお二方で読んでみたり、街に出かけてブリジット様に贈り物をしたりもする。
クライブ様は時に王都にお一人で出向くこともある。
そうした旦那様のことを奥方様は何も知らず、多忙な旦那様を少しでも助けなければと思っている。
そして何より我々三人の胸を苦しくさせるのは、奥方様がそのような旦那様をお慕いしていることが分かるからだった。
豪奢な別邸で妻ではない女性を大切にしてのんびり暮らし、自分には使用人にも劣る暮らしを強いている旦那様のことを何も知らずに慕っている奥方様。
髪を切ってしまった奥方様を見てヘレナが泣き出したのは、そうした奥方様を寂しく思ったからだろう。
そんなヘレナを奥方様はおろおろしながら慰めていた。
その優しさが切なくヘレナの涙は止まらなくなってしまった。
世の中には願っても努力を重ねても叶わないことがあることは、誰もが知っている。
でも奥方様が、高貴な侯爵家に生まれ努力する資質もそれに応えられる能力もあるにも関わらず、ほのかな想いさえ踏みにじられていることが自分のこと以上に悔しいのだ。
我々は働くことで給金を得ているが、奥方様にはそれすら無い。
それでも笑顔を絶やさない奥方様が寂しくて悲しい。
「旦那様、アーサーが参りました」
「入れ」
「失礼いたします」
毎日の奥方様監視の報告に来る足取りも重いが、仕事はきちんとしなければならない。
別邸の旦那様の執務室は暖かくて、本邸の寒さに慣れてしまうと暑いと感じるほどだ。
「アレはどうしていた?」
「はい。街に出て寄合所にて女性たちの陳情を聞いていらっしゃいました。
その後、養護施設に赴き、現在そこで養育されている子どもたちの正確な人数や健康状態などを調べるように申し入れ、文字を学ぶなど学習面においてのサポートについて役場の方々との話し合いに臨まれました。
その後は、奥方様がカリンの種からお作りになった化粧水の量産と流通についての話し合いを、商工会にて行いました」
「カリンの種の化粧水とは?」
「はい。ここオールブライトではカリンの実がよく採れるようですが、これまでは果実酒やジャムなどにして個人が消費するだけだったそうです。
奥方様が果物屋の主人に教えてもらった方法で化粧水を作ったら、思いのほか良質だったとのことで、それをオールブライトの特産品として王都で販売できないかと模索中とのことです」
「そのカリンの種の化粧水で、私費を増やそうというわけか」
「それは違います。特産品として高値で取引されることになればこの領地の税収が安定して増えるだろうということと、カリンの生産者を増やすことと加工をする工場を作ることで新たな雇用を生み出すことも目的としているようです」
「……そうか、分かった」
いや、何も分かっていらっしゃらない。
奥方様が自身のことなど何も考えておらず、ひとえに領民の暮らしをお考えのことについては。
「そうだアーサー、二週間後に別邸にて大事な客を招いてちょっとしたパーティを開催することになった。本邸の使用人も当日はこちらに来てもらうことになるかもしれない。
アレには特に何も言わずともよい。
それから、カリンの種の化粧水だったか。そうしたオールブライトの税収を上げることなど一連のことについて、アーサーからアレを褒めておいてくれ。髪飾りなど希望の物を買ってもよい」
「……畏れながら申し上げます、奥方様へのお褒めの言葉は旦那様が直接おっしゃったほうがよろしいかと思いますが」
今更髪飾りなどを贈ったところで、髪を短くしてしまった奥方様が喜ぶとも思えない。
でも旦那様から直接声が掛かればあの方は笑顔になるだろう。
「まあ、機会があれば私からも伝えよう。とりあえずのところは頼んだ」
「……かしこまりました」
別邸を出て本邸に戻ると、奥方様に呼び止められた。
「お願いがあるのだけど」
「なんでしょうか」
「このひざ掛けを旦那様にお渡ししてほしいの。商人がこれから売りたい手編みの品物を、サンプルの意味合いで領主宛てに献上品として持ち込んできたのよ。とても質のいい毛糸を使っているようだから旦那様に使っていただくのがいいと思うわ。ではよろしくね」
奥方様から手渡されたのは大判のひざ掛けだ。
献上品だと言ったが、どう考えても奥方様が編んだものだろう。
でも、奥方様の手編みだと旦那様に言えば要らないと拒否されることは分かっている。
これだけ大きな物を編むのに幾日かかったのか……。
別邸から戻ったばかりなので、これは明日持っていくことにする。
旦那様が使ってくだされば、奥方様にそう報告しよう、きっと奥方様はお喜びになるに違いない。