【21】祭りのダンス
中央広場に人が集まっている。
大きな篝火が焚かれ、ひときわ明るい。
いつもは野菜を売っている店の前に古いオルガンが置かれ、なんと野菜屋の御主人がそれを弾いていた。
ダンス曲をとても速いテンポで弾き、小鍋やワインの瓶を棒で叩いている人もいてずいぶん賑やかだ。
たくさんの人が、速いテンポのオルガンに合わせて踊っていた。
夜会でよく演奏されている曲だと思うけれど、速すぎて違う曲に聞こえる。ダンスもそれぞれが好きなように踊っていた。
オルガンに近寄ってみると、欠けている鍵盤があった。時々調子外れになるのはそれが原因のようで、もはやそれさえも味わいだった。
私とアーサーも手拍子をしながら楽しそうな踊りを見ていた。
腰の曲がった老婦人を上手にエスコートしている枯れ枝のような老紳士、お腹の大きな妻を支えてゆらゆらと音楽に身を任せている若い夫婦、女の子に手を引っ張られて振り回されている恥ずかしそうな男の子。
誰もオルガンの速いテンポに合わせてもいないし、野菜屋の御主人も緩急をつけて好きなように弾いている。
ドレスやジュエリーの値段を水面下で競いあって、優雅なようで少しも優雅ではない夜会のダンスとはまったく違い、誰もが本当に楽しんでいた。
曲が変わった。
この国の誰もが知っている戯曲の、舞台用のダンス曲だ。
クライブ様と婚約していた時、王宮での短い王子妃教育の一環で女性のダンス講師と踊ったことがあった。
この曲は有名なので、余興で求められることがよくあると聞いた。
分かり易くて見映えがいいからだろうか。
誰にでも愛想の良い男が、恋人にプロポーズをするけど断られてしまう。
男は百本の薔薇を贈ったり百枚の金貨の入った大袋を置いたりして懇願する。
それでも恋人は拒絶する。
男は国境での戦いに出て百人の敵を倒して来ようと言って離れる。
けれど男は一人の敵も倒せなかったと言い、傷だらけで戻ってくる。
道端の花を摘んで、もう一度恋人にプロポーズをすると恋人はそれを受け取る。
そんな歌劇をぎゅっと短くダンスにした曲には、男女それぞれのソロパートもある。
「奥方様、せっかくですから踊りましょう。適当でいいので」
「え?」
アーサーは私の手首を掴んで広場に出て行く。何組もの男女もわらわらと出てきて、野菜屋の御主人が改めて最初から弾き始めた。
周りの女性を見ると、思い思いに踊っている。
ならば私もと覚悟を決めて、恋人がやってくる前の穏やかなソロダンスを踊る。
ワンピースの裾を持ってお辞儀をするところから。
八枚ハギのスカートが回るたびに膨らみ、ダンスのためにこのワンピースを着てきたようだった。
戯曲のストーリー通りに、蝶を追いかけているような女性のソロダンス。
すると、アーサーが私の前に跪いてプロポーズをする。
私は手のひらを向けて拒絶をして、背中を向けて少しテンポアップしたダンスを踊る。
アーサーはジャンプを取り入れた男性ソロダンスだけれど、あまりにも器用に踊っていて驚いた。
こんな街中の祭りで歌劇の舞台のようにジャンプをするなんて……。
周辺の人たちは大きな手拍子をアーサーに送っている。
アーサーは戦いに出た場面を踊る。剣を振り回しているようなダンス。
ここが男性ソロパートの一番の見せ場だ。
他の男性の中には側転や回転を入れている人もいた。
私は、空気を集めてかき抱く仕草のダンスをゆったりと踊る。
自分のせいで戦場に出てしまった、本当は愛している恋人を待っているダンスだ。
よろよろと近づくアーサーが、ズボンのポケットからハンカチを出して花に見立てて私に差し出す。
本当はジャケットの胸のチーフを抜くのだけれど、今日のアーサーは上着を着ていない。
私はハンカチを受け取ってそれで涙を拭く仕草をする。
そしてアーサーが再びプロポーズをする。私が頷くと手を取って胸に抱きしめる。
このダンスのシナリオ通りとはいえ、抱きしめられて顔が熱くなった。
私はパートナーを見つめていなければならないところ、すぐに目を逸らしてしまった。
その場面の後は普通にペアのダンスだ。
アーサーは私の手を取り、器用に私をくるりと回す。
他の男女もみんな楽しそうに見つめ合って踊っていた。
手拍子もオルガンもどんどん速くなり、私たちのダンスも速くなる。
野菜屋の御主人がオルガンを最後にジャンジャンジャンジャンと鳴らして止め、ワンピースの裾を持ってお辞儀をする。
アーサーや他の男性たちは左手を胸にあて右手を高く掲げた。
大きな拍手に包まれて、踊っていた他の女性たちと私は弾んで抱き合って踊り終えた興奮を分かち合う。
作法も振り付けもうるさく言われないダンスは、思った以上に楽しかった。
「奥さん、驚いたよ! こんなに踊れるなんてさぁ! アーサーさんもすごいじゃないか!」
編み物仲間の婦人がソーダをくれて、弾んだ息を整える。
「このダンスを人前で踊ったのは初めてよ。アーサーがあんなに踊りが上手だなんて知らなかったわ」
「みんな踊れるでしょう、あの曲ならば」
アーサーはそう言って笑った。
それからいろいろな人たちが私たちのところへやってきた。
役場の人も定食屋のご夫婦も、薪屋や果物屋の御主人も。
口々に、オールブライト領とこの街を愛してくれる領主の奥さんがいて幸せだと言ってくれたのに、何故か嬉しさよりも寂しさを感じてしまった。
街の人たちと笑っているアーサーの顔から目を逸らす。
胸の鼓動がまだ落ち着かなかった。
ダンスの中の、プロポーズの場面のアーサーの目を思い出してしまう。
抱きしめられた時、アーサーは『もう離したくない』と、劇中歌の言葉を諳んじた。
オルガンや手拍子の音にかき消されるくらいの小さな声が、耳朶を分け入って私の一番柔らかいところに沁み込んだ。
──私はアーサーのことを……。
その言葉を、私の心はすんなりと受け入れてしまった。
ソーダにアルコールが入っていたかのように、頬が熱くなる。
気づいてしまった想いに、胸が高鳴るより強く私の理性がストップをかけた。
お飾り妻でクライブ様に一度も手を取ってもらったことさえ無いとはいえ、私は領主の妻だ。
クライブ様に『愛することはない』と結婚の誓いを交わすはずの教会で言われた時よりも、大きな絶望感に苛まれた。
生まれたこの気持ちに少しの栄養を与えることも許されない。
そのまま消えるのを待つだけだった。
「……さすがに疲れたわ。もう帰りましょう」
「では」
アーサーが何か言いかけた時だった。
モッカ婆さんを連れたパン屋のおかみさんがやってきた。
「二人の踊りを見たよ。いい踊りだった」
「婆さん……」
「アーサー、早く結婚してしまいな」
モッカ婆さんの言葉にアーサーは何も返さなかった。
どうしてモッカ婆さんがアーサーを呼び捨てに……。
──孫の結婚を楽しみにしてるんだ
ふと、いつかのモッカ婆さんの言葉を思い出す。
孫の結婚……まさか……。
驚いた顔をアーサーに向けてしまった。
何も取り繕えなかった自分に怒りを覚える。
そんな私をアーサーが居心地の悪そうな目で捉えた。
「申し訳ありません。小麦の収穫を手伝いに行った時に伝えるべきでした。
自分は婆さんの娘の子どもです。意図的に隠していたわけではないのですが」
「……そうだったの。それならあの日、パン屋のおかみさんがやってくる前に、アーサーがモッカ婆さんの麦を先に収穫しに行けば良かったわね。館の仕事なんて後回しにしても、それほど困ることはないのだもの」
「前日に行くべきだったと後になって思いました……」
アーサーの言葉が頭の上を通り過ぎていくようで、何も入ってこない。
──王さまが言うにはね、もうすぐ孫は領地を貰えるそうなんだよ
──そうしたらお嫁さんを娶って、二人でその領地を治めることになるって
モッカ婆さんの嬉しそうな声だけが頭の中で繰り返される。
祭りの喧騒が消えたように意識が遠のきそうになった。
……もうすぐ、アーサーはあの館を出て行くのだ。
どこかの領地を国王から与えられ、そこで結婚する。
そういうことなのだと胸の奥で独り言をつぶやいて、すべてを振り切るように立ち上がる。
「今夜はもう帰りますわ。皆さまはどうぞこの後もお祭りを楽しんでくださいね」
すれ違う人たちが手を振るのに応えながら、ランプで灯された夢のような祭りの街を後にした。
そう、私の夢のような時間は終わった。
胸に灯ったばかりの暖かな灯りを吹き消して、私の胸の中は真っ暗になる。
せっかく暗いことに慣れていたのに、どうして灯りを点してしまったのだろう。
帰りの馬車を待つ間も揺れる馬車の中でも、アーサーに微笑みながら雑談に興じる。
いつもの私はどんな顔でアーサーと話していたのか、今この表情で合っているか自信がないけれど、とにかく穏やかに明るくこの場を乗り切りたくて必死だった。
「ただいま戻ったわ! ピート、留守番ありがとう。アーサーも付き合ってくれてありがとう、おかげさまで初めてのお祭りを楽しめました。ヘレナは戻っている?」
「ええ、少し前に戻ってきました」
「疲れているところ悪いけど、すぐに湯浴みをしたいの。お湯を沸かしてくれれば後は自分でします。お湯が沸く頃に降りてくるわ」
「承知しました」
部屋に駆け込みたいところ、ゆったりと階段を上がっていく。
私は『いつもの私』をうまくできていただろうか。
自室に入り閉めたドアにもたれるようにして、ずるずるとしゃがみ込む。
両手で顔を覆っても、泣くことだけはしたくなかった。
感傷的な気持ちになりたくない。
両手で作った小さな暗闇に、僅かな時間だけ心を任せた。




