謎の少女と雨傘
どしゃ降りの雨。
終電で帰ってきたばかりの俺は、人気のない道を歩いていた。
そのときだった。
街灯の下、ぽつんと立ち尽くす少女が見えた。
傘も差さず、びしょ濡れで。
(……傘、持ってないのか?)
こんな大雨の中で、まるで置き去りにされたみたいに立ち尽くす彼女の姿は、どこか現実感がなかった。
通りすがりの俺がどうこうできることじゃないのかもしれない。……けど。
「これ、使っていいよ」
自然と手が動いて、俺は自分の傘を差し出していた。
「えっ? でも……」
「大丈夫。俺の家、すぐそこだから。それじゃ、風邪ひかないようにな」
そのまま走り出そうとした俺の腕を、彼女の細い指がぎゅっと掴んだ。
「あの……私も、すぐ近くなんです。一緒に帰りませんか?」
「え? まあ……」
ためらいつつも、チラッと彼女の顔を見てしまった。
──うわ、だめだ。
ずぶ濡れの髪が肌に張り付いてて、妙に色っぽいし、なによりあの目。
不安げで、どこか必死なまなざし。
こんな目で見つめられて、断れるわけがない。
「わかった。じゃあ、一緒に行こう」
「はいっ」
傘を差し直し、ふたりでひとつの傘に入る。
なんだこれ、すごく距離が近い。
ちらっと横目で見ると、彼女も同じことを思ってるのか、頬をうっすら赤らめて俯いていた。
沈黙。
気まずくもなく、でもちょっとくすぐったい沈黙。
先にそれを破ったのは、彼女だった。
「あの、自己紹介がまだでしたよね。私、神崎紗奈っていいます」
「西片翔。よろしく、神崎さん」
名前を交わしただけで、少し空気がやわらぐ。
でもまた、すぐに沈黙が落ちてきた。
──と、思ったら、すぐに彼女がもう一度口を開いた。
「あの……どうして、私に声をかけてくれたんですか?」
「傘もささずにびしょ濡れだったし、それに…すごく寂しそうに見えたから」
「そう……ですか……」
それきり、神崎はまた口をつぐんだ。
会話は得意じゃないんだろう。だけど、そのぎこちなさが、かえって自然で、嫌な感じはしない。
白い長袖のシャツ。濡れて少し透けてるのがちょっと危ない。
紺色のスカート。制服じゃないのに、なんとなく制服っぽい雰囲気。
長い黒髪は雨に濡れて、しずくが滴ってる。
──きらきらしてて、まるで星のかけらみたいだった。
色白の肌は儚げで、まるで触れたら壊れてしまいそうで──それでも、傘の下で俺の横を歩いている彼女は、確かにそこにいた。
(不思議な子だな……)
気づけば、家のすぐ近くまで来ていた。
「あの……西片さんは、どんなお仕事をされているんですか?」
傘の下で、ぽつりと彼女が訊いてくる。
「普通のサラリーマンだよ。君は……大学生?」
「いえ、わたしは……」
言いかけた言葉が、そこで止まる。
神崎は一瞬だけ、目を伏せた。
(あれ……?)
見た目はたしかに幼い。中学生と言われても違和感はない。
だけど──この時間帯に? しかも一人で? どしゃ降りの中?
ふとした疑問が、頭の中に渦を巻く。
──いや、でも女性に年齢を訊くのはマナー違反だろ。
……そう思いつつも、好奇心が勝ってしまった。
「……神崎さん、何歳?」
彼女は一度瞬きをしてから、まっすぐこちらを見て言った。
「わたし…、十二歳です」
「じゅ、十二歳!?」
思わず、変な声が出た。
中学生どころじゃない。小学生──いや、もしかすると小6?
そんな年齢の子が、深夜に一人で道端にいるなんて、正気の沙汰じゃない。
「……親御さんは?」
俺は焦り混じりに訊いた。
その答えは、もっと衝撃的だった。
「……わかりません」
「……え?」
「うちお母さんしかいないんですけど、
今、どこにいるのかわからなくて……」
「……連絡は? 携帯とか……」
「かけても、もう使われていないって……」
俺は神崎から教えてもらった番号をスマホに打ち込んでみた。
──ツー……ツー……『この番号は現在使われておりません』
「……マジかよ」
冷たい機械音が、妙に現実離れして感じられた。
母親がいない。連絡もつかない。
つまり──彼女は今、完全に一人きりということになる。
「兄弟は?」
「いません」
「親戚は?」
「いるかどうかも、わかりません」
正月やお盆に会うような存在ですら、記憶にないという。
それって……本当に彼女は独りぼっちなんだ。
「君の母親、何かに巻き込まれたのかもしれないな……」
「いえ……多分、知らない男の人と一緒に…どこか旅行に行ってるんだと
思います…」
神崎はうつむいたまま、ぐっと口を強く閉じた。
この状況、十二歳の子どもにとってはあまりにも酷だ。
どう声をかければいいのか、俺にもわからない。
──だけど、何かしなければ。
「……警察に行こう」
それが一番安全で、そして確実な方法だと思った。
未成年の保護は、本来なら彼らの仕事だ。
今ならまだ、取り返しがつく。
「──だめです」
神崎が小さな声で、けれど強くそう言った。
「どうして?」
「さっき、警察の人に声をかけられて……。
──胸を、触られそうになったんです」
「……っ」
一瞬、言葉を失った。
冗談で済ませるには、あまりに生々しい。
「だから……警察は、いやです。こわいです」
濡れた髪が額にはりつき、神崎は小刻みに震えていた。
怒りとも悲しみともつかない感情が胸をざわつかせる。
──くそ。
そんな奴が“正義”を名乗ってるのかよ。
「……困ったな」
ぽつりと、本音が口をついて出る。
どう考えても、まだ十二歳の少女を一人で帰すわけにはいかない。
「西片さん、私の家に来てください」
神崎が、俺の袖をきゅっとつかむ。
その目には、不安がにじんでいた。
「……わかった。ただし、一つ条件がある」
「……?」
「明日、一緒に警察に行くこと。朝なら、人目も多いし……さすがに、例の警察官も下手な真似はできないだろ」
「……わかりました。こっちです、ついてきてください」
神崎はぱっと傘の外に出て、前を歩き始めた。
いつの間にか、雨は止んでいた。
〇●〇
神崎の家は、高層マンションの最上階だった。
タッチパネルの操作にも迷いがなく、パスワードを入力する姿には、妙な手慣れた印象を受けた。
途中、エレベーターの中でスーツ姿の中年男とすれ違ったが、まるで俺たちに興味がないようで、無言のまま通り過ぎていった。
「おじゃまします……」
「適当にくつろいでください」
靴を脱いで上がると、神崎は玄関の鍵をカチリと閉める。
なぜか、その音がやけに大きく響いた気がした。
「シャワー、浴びるならどうぞ」
神崎がちらりと俺の濡れたスーツに目を向ける。
「俺は君のあとでいいよ。濡れてるの、そっちの方がひどいし」
「それじゃあ、お言葉に甘えて──失礼します」
神崎は小走りでバスルームへ向かっていった。
濡れた素足の足跡が、床に生々しく残っている。
リビングに目を向けると──思わず、ため息が出た。
ボロアパート暮らしの俺からすれば、ここはまるで異世界のようだ。
白を基調とした内装に、ガラス張りの大きなテーブル。
リビングはやけに広く、それでいてどこか物足りない。
テレビもゲームも、本棚すらない。生活感がない、というべきか……。
(これ、本当に十二歳の住む家か?)
俺はソファに座ることなく、窓の外に広がる夜景をぼんやりと眺めていた。
やがて、リビングの扉が開く。
「西片さん、どうぞ」
白いバスローブに包まれた神崎が、髪をタオルで拭きながら現れた。
「あ、ああ……」
思わず、声が裏返りそうになる。
年齢なんて関係ない。
その立ち振る舞いは、大人びていて、まるでどこかの女優かモデルみたいだった。
俺は逃げるようにバスルームへ向かい、ぬるめのシャワーで頭を冷やす。
用意されていた新品の下着とシャツ。
サイズはぴったり。──どういうことだ?
(まさか、前にも誰か泊めたことが……?)
そんな思考を振り切りながら、着替えを済ませてリビングへ戻る。
「どこか、干すところないかな?」
濡れたスーツを腕にかけ、神崎に尋ねると──
「隣の部屋に乾燥機があります。私がやっておきますね」
神崎は俺のスーツを受け取り、すっと隣の部屋へ消えていった。
──ふぅ。
ソファに腰を下ろす。
ようやく肩の力が抜ける。
(……なに緊張してんだ、俺)
相手は十二歳の少女だ。
でも、言葉遣いも、表情も、所作までもが大人びていて──つい、感覚が狂ってしまいそうになる。
「お待たせしました」
がちゃ、と乾燥機のある部屋から戻ってきた神崎が、にっこりと微笑む。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その笑顔は、まるで作り物のように完璧だった。
──いや、違う。
“作られた”もの、なのかもしれない。
俺の胸の奥に、ふと、妙なざわめきが広がった。
一息つく間もなく、神崎はキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。
手にしていたのは──缶ビールだった。
(……まさか、お礼ってそれか?)
「西片さん、こっちに来てください」
「え、お礼とか別にいらないよ?」
「これ……一緒に飲みましょう」
「……は?」
神崎は缶ビールを一本、俺に手渡すと──
もう一本を自分で開け、ためらうことなく、ぐいぐいと飲み干しはじめた。
「ちょっ、おいおい待て待て! 君、未成年だろっ!?」
「んっ……さいっこー……。西片さん、飲まないんですか?」
「いやいや、そもそも君が飲んじゃダメだろ! 未成年飲酒、完全にアウトだぞ!?」
あたまを抱えた俺の頬に、神崎の手がふれた。
「西片さん……目、閉じてください」
顔をほんのり赤らめて、潤んだ瞳で見つめてくる。
──酒、入ってるなこれは。
だが、そのとき。
「たす……け……て……」
「……!?」
誰かの声が、微かに聞こえた気がした。
「今の、なんだ……?」
俺は音のした方向に目を向ける。
それは──乾燥機がある隣の部屋の扉の向こうだった。
「どうしたの?」
神崎の問いかけを振り切り、俺は扉を開けて中に踏み込む。
部屋の中には、乾燥機と洗濯機が一台ずつ。
それ以外は、特に変わったところはない……はずだった。
「たす……けて……」
まただ。間違いない、今度ははっきり聞こえた。
耳を澄まし、音の発生源を探る──
(あれか……!)
業務用のように大きな洗濯機。
家庭用には不釣り合いなサイズ感のフタが閉まっている。
その中からだ。
俺は一切の躊躇なく、フタを開けた。
──中にあったのは、スマホ。
そのスピーカーから、また声が流れる。
「たす……けて……」
(なるほど……)
肩の力が抜けた。
まさかの、アプリの音声だった。
画面を見ると、知らないホラー系のアプリが起動している。
定期的に女性のボイスが流れる、いわゆる“びっくり系”のアプリだ。
「人を驚かせるためのアプリか……くだらねぇ……」
スマホの電源を切り、リビングに戻る。
神崎がソファに腰掛け、無邪気に笑っていた。
「俺を驚かせようとしたのか?」
「驚いた?」
満足げな笑みを浮かべる神崎が、にくたらしくも、なんだか愛おしい。
その時。
「あっ」
スマホを受け取った神崎が、ふと何かを思い出したように声を上げた。
「どした?」
「私、ほんとは“二十歳”だって言ったっけ?」
「──は?」
神崎は、スマホの画面を操作し、画像フォルダを開く。
そこには、身分証明書の写真が表示されていた。
名前、顔、そして──生年月日。
……確かに、二十歳だ。
「からかってごめんね」
「………………」
……してやられた。
未成年飲酒疑惑どころか、年齢詐称で振り回されてたってわけだ。
俺は受け取った缶ビールを見つめてから──一気に飲み干した。
「ふぅ……」
「朝まで飲もうよ、西片さん」
空になった缶ビールを軽く合わせ、彼女が笑う。
──夜はまだ、長い。
でも今夜は、少しも寂しくなさそうだ。