異世界のんびりスローライフ
異世界転生なんて、ライトノベルの読みすぎだろって話だ。
俺はいたって普通の高校生で、どこにでもいる平均点な人生を、そこそこに歩んで、
そこそこに老いて、まぁそこそこに死んでいく──予定だった。
ところがどっこい。
その人生、ある日突然、すっ飛んだ。
それは、二週間ほど前のこと。
いつも通り、学校へ向かう道を歩いてた俺は
眠気と戦いながら、
電柱に頭ぶつけそうになりながら、やっとの思いで駅に着いて──
──
真っ白。
視界が、って話だ。
なんか変な薬でも盛られたのかってくらい、
一瞬で世界が消えて、次の瞬間にはどこぞの空間に立ってた。
「……どこだよここ?」
周囲は、見渡す限りの真っ白。
天井も床も壁もない。ただただ白い空間。
視界の外も白。
言うなれば、白一色の何もない無限美術館って感じ。
うん、わけわかんねぇ。
「あー、夢? 死後? 拷問の一種?」
なんて自問自答していたら──
「よく来たな」
と、出てきた。
突然、俺の前に現れたのは、白髪・白髭・白装束の老人。
絵に描いたような“それっぽい”老人で、なんかうさんくさい。
「あんた誰? ここどこ?」
反射的に問いかける俺に、老人はニヤリと笑った。
あっ、この笑い方、たぶんロクでもない。
「ワシか? ワシはこの世界の神じゃよ」
「は?」
お約束かよ。
思わず変な声が出た。
ていうか神って。
もうちょっと段階踏んでくれよ。
せめて案内役の天使からスタートしてくれ。
「……本当に、神?」
「うむ。証拠を見せよう。何か欲しいものはあるか? 叶えてやろう」
……なにか欲しいもの、か。
正直、欲しいものなんて思いつかなかった。
ブランド物? 高級車? 天才的な頭脳? モテる容姿?
──いや、別にそんなもんいらない。
俺の人生、モノを持っても変わらない。
学校では理不尽な暴力に晒され、
家に帰れば母親とその愛人が俺をゴミでも見るような目で見てくる。
居場所なんて、どこにもなかった。
それでも、俺はただ──平穏に生きたかった。
「……神様」
「なんじゃ?」
「俺は、平穏な人生が欲しい。
誰も傷つかない、平和な世界で、静かに暮らしたい」
すると神は、「ほう」と呟き、またニヤリと笑った。
「ならば、それを叶えてやろう」
次の瞬間、視界が真っ暗になった。
「うおっ、なにこれ!?」
反射的に目を閉じる。
暗闇が押し寄せてくる。
音も、空気もない。
夢だったんじゃねぇか、とか、そもそも死んだんじゃねぇか、とか。
そんなことが頭をよぎった──
そして。
パッと、視界が開けた。
「うわっ! まぶしい!」
目の前には、青空。
あったかい風。
ふわふわと舞う綿毛。
そして俺は──なぜか、農地のど真ん中に立っていた。
麦畑?いや、トマトかこれ?
とにかく、
まわりには野菜畑とぽつんと立つ小屋がひとつだけ。
……異世界転生、ガチで始まったんだが?
「あれは……家か?」
農地の向こう、ぽつんと立っている小さな木造の家。
ログハウスってやつだな。
まるで絵本の中に出てきそうな、手作り感満載の可愛いやつ。
だけど周囲に人の気配はまったくない。
森がざわざわと風に揺れているだけで、虫の鳴き声すらしない。
静かすぎて逆に不安になってくる。
「……まさか」
なんとなく辺りを見回してみる。
白い空間にいたあの神様──
らしき老人の姿は、当然どこにもいない。
でも、さっきのやりとりはたしかにあった。
夢でも妄想でもない。
だってこうして、明らかに異世界チックな農地に俺は立っているんだから。
『俺は、平穏な人生が欲しい。
誰も傷つかない平和な世界で、のんびり暮らしたいんだ』
『ほう、ならば、それを叶えてやろう』
あのとき、俺は確かに願った。
物でも地位でも力でもなく、ただ「平穏な人生」を。
その願いは──こうして叶った。
「……俺の願いは、叶うべくして叶ったってことか……」
ぽつりと呟く。
神様、ありがとう。
声には出さなかったけど、心の中で何度も頭を下げる。
俺は俺のまま転生してきたらしい。
別人になったわけでも、赤ん坊からやり直しってわけでもない。
服装はなんか──農民ぽい。
シャツとズボン、麦わら帽まであるし。
でもまぁ、学生服のままでこの世界に来るよりマシだろ。
「さてと──」
ここから始まるんだ。
俺の、誰も傷つかない、争いとは無縁の、のんびりスローライフが。
目指すは自給自足、たまに釣り、たまに昼寝。
動物と話したりできたら最高だけど、まぁ贅沢は言わない。
まずは──あのログハウスを調べてみよう。
ざっ、ざっ、ざっ。
耕された土を踏みしめながら歩いていく。
ドアの前に立ち、静かにノブをひねる。
「がちゃ」
「──うわー、すげぇ、なにもない」
いや、マジでなにもない。
家具ゼロ。
冷蔵庫もテレビもない。
テーブルもイスも見当たらない。
あるのは、古ぼけた木の床と、ちょっとホコリっぽい空気だけ。
「せめて……キッチンくらい……あ、ないのね」
風呂もない。
マジか。
いや、だけど──トイレだけはある。
なぜか新品のウォシュレット付き。
しかも便座あったかい。
誰が設置したんだこれ。
「……必要なものは自分で作れってことか……」
ブツブツ言いながら階段を上がる。
二階には部屋が三つ。
どれも六畳くらいで、殺風景そのもの。
がらんとしていて、物のかけらもない。
「……ま、これから自分で揃えればいいか」
そう、俺は今ようやくスタートラインに立ったんだ。
焦らず、ゆっくり、自分の手で生活を作っていけば──
「ガチャ。ドン!」
──
一階から、ドアの開く音と何かが倒れる音が聞こえた。
「……?」
思わず息をのむ。
誰か来た?
この世界に来てから、初めて聞く人間の気配──か?
「お、おーい……誰かいんのかー?」
二階からそっと階段を降り、玄関をのぞき込む。
扉は開いている。
だけど──
「誰も、いない……?」
あたりを見渡す。
影も形もない。
風の音しか聞こえない。
「も、もしかして……幽霊……?」
ぞくっ、と背筋が冷える。
いやいや、まさか、朝の光がこんなにまぶしいのに、幽霊なんて──
いやでも、この世界、神様いるんだよな……。
緊張で汗がにじむ。
玄関の扉を閉めようとした、その瞬間だった。
「ご主人様っ!」
背後から聞こえた高くて可愛らしい声に、思わず体がビクッと反応する。
「なっ!?」
振り返ると──
そこにいたのは、白い毛並みのふわふわした猫だった。
しかも、二本足で立ってる。
まるでぬいぐるみ。
いや、ぬいぐるみよりも可愛い。
くりくりした青い瞳、つややかな真っ白の毛、ぴくぴく動く小さな耳──
思わず衝動的に抱きかかえてしまった。
「くっ……なんて破壊力だ……」
ぎゅっ、と抱きしめると、猫はされるがまま、俺の腕の中でうっとりと目を閉じた。
「ご主人様の手……あたたかいです……」
「おまえ……ほんとに喋ってるのか?」
「はい。私は、普通の猫ではありませんから」
うん、まぁ、そうだろうな。
二足歩行してる時点でお察しだ。
「なあ、さっき変な音がしたんだけど……ドン、って」
「あれですか?私は何も聞こえませんでしたよ。
古い木造の家ですから、柱が軋む音じゃないでしょうか?」
猫の言葉に、思わず胸を撫で下ろす。
よかった、幽霊とかそういうのじゃないらしい。
「……名前は?」
「ありません。まだ、誰にももらったことがなくて……」
猫が寂しそうに目を伏せた。
「じゃあ、俺がつけてもいい?」
「はいっ!」
白くて、ふわふわで、可愛い──ありきたりだけど、これしかない。
「シロ。お前の名前は、シロだ」
「わあっ!素敵な名前!ありがとうございます!」
こうして、俺とシロ、二人きりの生活が始まった。
春は畑を耕し、夏は小川で泳ぎ、秋は野菜を収穫し、
冬は暖炉の火を囲んで身を寄せ合う。
まるで絵本のような日々が、淡々と、しかし確かに過ぎていった。
──そして。
気づけば俺は、七十五歳の老人になっていた。
白髪まじりの髭を撫でながら、薪をくべる。
向かいに座るシロは、今も昔と変わらない姿のまま、穏やかな目をしていた。
「……なあ、シロや」
「なんですか?ご主人様」
「昔から気になっていたんだが……あの“ドン”という音のことじゃ。
お前、あの音が鳴るたびに、どこかに行っとる。
あれは……本当に、ただの音だったのか?」
言葉にすると、不思議と心が軽くなった。
もう、俺の人生も長くはない。
だからこそ、知っておきたい。
真実を。
「……」
シロは視線を落とし、小さな肩を震わせた。
暖炉の火がパチパチと音を立てる。
時間がゆっくりと流れていく。
「こっちにおいで」
古びた椅子に腰を下ろしながら手を広げると、
シロはすっと膝の上に跳び乗ってきた。
その青い目が、まっすぐ俺を見つめている。
「……話してくれ」
重くなるまぶたの奥、かすむ視界の中で、シロが口を開いた。
「……わたしは、神様の使い。
ご主人様の願いを叶えるために、この世界に生まれました」
「……」
「あなたは“平穏な人生”を望みました。
それを守るためには、平穏を乱す存在を……“消す”しかなかったんです」
耳がおかしくなったのかと思った。
いや、言葉は聞こえている。
だけど──意味が、理解できなかった。
「ここは人里離れた場所ですが、それでもたまに人が迷い込む。
旅人、盗賊、時には村の者……でもそのたびに、私は……」
「やめろ……それ以上は……」
「……全部、ご主人様のためなんです。
ご主人様の“平穏”を守るために、私は……」
それが、俺のため……?
この穏やかな暮らしを維持するために、
シロは、そんなことを──
だけどもう、体は言葉に反応できなかった。
ゆっくりと閉じていく視界の中、
最後に見たのは、悲しそうに泣くシロの顔だった。
──こうして、俺の人生は幕を閉じた。
平穏な人生だったか? と聞かれれば、答えはきっと「はい」だろう。
……ただ、それが“本当に平穏だったのか”は、もう俺には確かめようがない。
ことの真相を知ることなく、シロを置き去りにして、この世を去ってしまった俺──。
それが、死んだあとにようやく訪れた、
どうしようもない後悔だった。
だから、願った。
神様。
もう平穏な人生なんていらない。
シロに……シロに、会わせてくれ。
〇●〇
あたたかい日差しが頬を照らしていた。
ばっと目を開けた瞬間、思わず声が出た。
「……学校?」
目の前には、見慣れた校舎と、賑やかな登校風景。
俺が通っていたはずの高校だ。
だけど──おかしい。
たしか、俺は……七十五歳の老人だった。
暖炉の前で……誰かの告白を聞いて……
「……? なんだったっけ?」
そこまで思い出しかけて、記憶が霧のように消えていく。
「じゃまだ、どけっ!」
ドンッ!
不意に背中を強く押されて、そのまま地面に突っ伏した。
「ぐっ……!」
わき腹に、何度も蹴りが飛んでくる。
後ろから聞こえるのは、クラスメイト達のけたたましい笑い声。
口の中に広がる、鉄の味。
立ち上がることもできず、地面にうずくまっていると、
やがてその足音が遠ざかっていった。
「……っ」
顔を上げると、いつもと変わらない青空が広がっていた。
どこか夢のようで、だけど、痛みだけはやけにリアルだ。
ゆっくりと体を起こし、ふと校門の前を見る。
そこに、一匹の白い猫が、ちょこんと座っていた。
「……野良、猫?」
首輪もなく、誰かの飼い猫ってわけでもなさそうだ。
白い毛並みに、くりくりとした青い目。
どこかで──いや、絶対に、会ったことがあるような……
「にゃあ、にゃあ」
白猫が、まるで返事をするかのように鳴いた。
「……お前、名前は?」
猫は首をかしげるような仕草を見せた。
まるで、わからないふりをしてるみたいに。
「ないのか。じゃあ……白いし、“シロ”って名前、どうかな?」
「みゃあっ!」
元気よく鳴いて、ぴょこぴょこと尻尾を揺らす。
どうやら、気に入ってくれたようだ。
「じゃあ……またな、シロ!」
わき腹の痛みをこらえながら、俺は校門をくぐり、教室の自分の席へと向かう。
机には、誰かに書かれたであろう「消えろ」の文字がうっすらと残っていた。
それを見ていつも憂鬱な気分になるのに、
今日はなぜか、気にならなかった。
あの白い猫──シロのことが、頭から離れなかったから。
〇●〇
そして翌日。
登校すると、なぜか俺をいじめていた三人の同級生たちの姿がなかった。
「……え?」
不思議に思ってクラスメイトに尋ねると、
皆が不思議そうな顔でこう言った。
「誰のこと?」
まるで最初から存在していなかったかのように、
誰一人として、彼らの名前を覚えていなかった。
ぞくっと、背筋が冷える。
──…一体何がどうなってる?
帰り道、ぼんやりと歩いていたそのときだった。
白い影が、俺の前を横切る。
「……シロ!」
思わず名前を呼ぶと、シロは振り返って、嬉しそうに鳴いた。
「みゃあっ!」
まだ出会って間もないはずなのに、懐かしくて、涙が出そうになった。
どうしてこんなにも、シロに惹かれるんだろう。
──それにしても何か大事なことを忘れている様な気がする。
それが一体なんなのか、俺は思い出すことができなかった。