静かなる夜の出会い
グレンはその日、シバ駅近くの郷土料理店で夕食を取ることにしていた。
先程のライブの興奮が冷めやらぬなか、彼がテーブル席に着きオフにしていた携帯電話の電源を入れると、いきなり着信が入った。
発信元はアーニャである。
「あーやっと繋がった。兄ぃ、一体今どこでなにをやってるのよ」
「なにって、今日は遠出するから家を空けるって言っただろ」
「そんなの知っているわよ。なに、仕事関係の旅行かなにか? まあ兄ぃのことだからどうせ浮いた話とかじゃなさそうだけど、ちょっと気になって掛けてみたら電源切ってて、ますます気になるじゃない」
グレンとしてみれば、ちょうど誰かと感動を分かち合いたいと思っていたところである。
本来ならば嬉しくない電話ではあるが、料理が運ばれてくるまでのしばしの間、彼は話に付き合ってやることにした。
「くっくっく。実はさ、俺今シバの街に来てるんだよ」
「は? シバって、エアエアの?」
「そう。さっきまでここの女王のライブを観に行っててな」
「ここのって、クリスの?」
「ああ、そのクリスティーナ女王の単独ライブ。チケットの倍率凄かったんだぜ?」
アーニャからの返答はすぐにはなかった。
グレンの目には面食らって口を開けている妹の顔が浮かんでいた。
「で? どうだったのよ、観てみて」
「うーん、感想は色々あるけど、まあ一言で言うとさすがはチャンピオンってところだな。なんていうか、疾走感っていうのかな。とにかくパワフルで、元気を貰ったよ」
「ふーん。でもクリスなんかより私の方がもっと大勢の人を熱くできるけどね」
「なんでそこでいちいち張り合おうとするんだよ」
「なんでって、それが火の民の本能でしょ」
「しかし見た限りではお前があのクリスティーナ女王に勝つのは厳しいんじゃないか? 彼女見るからに明るく元気で可愛いし、お前のような攻撃性もない。ステージに乱入した観客をショーの一部にしちまう器のデカさがお前にあるか?」
グレンからすれば思った通りのことを言ったまでである。が、アーニャはその途端、露骨に不機嫌そうな声を出した。
「悪かったわね器が小さくて。まあそのライブがうまく行ったのだって、どうせ観客がお気楽能天気な風の民ばっかだったからでしょ。後でじっくりビデオ観させてもらうけど、私が総合的に見てクリスに劣るなんてことはまずあり得ないでしょうね。ぶっちゃけ、クリスの栄光なんて過去のものなのよ!」
「まったくその自信はどっから来てるんだか……。まあ俺はどっちが勝とうがどうでもいいんだが」
「だったら言うな、このバカ兄貴!」
グレンは正直、このムキになった反応が気持ちよかった。
「まあまあ。でもこのシバの街の雰囲気はマジでいいし、来てよかったと思ってるよ。将来ここに移住してもいいくらいだな」
「ふーん。まあ能天気な兄ぃには案外お似合いかもね」
「そう怒るなよ。あ、もうそろそろ料理来そうだから切るな」
「ちょっ、待ちなさいよ。お土産は?」
「お土産? なんでお土産がいる」
「可愛い妹に黙って国外旅行に行ったんだからお土産くらい買って当然じゃないかしら。ドーナツがいいわ。そっちの名産品の砂糖と胡桃を使った美味しいやつ」
「ったく、お前は本当に甘いもの好きだよな。というかお前の陣営のスタッフもこのライブ偵察しに来てるんだろ? そいつらに頼んで買って貰ったらどうだ」
「もういい、期待した私が馬鹿だったわ」
ガチャン。ツーツー……。
ヒステリックな声とともに電話は切られた。せいせいした気分になって夕食にありつくと、グレンは出された料理がより一層美味しく感じられた。
さきほどの熱気はどこへやら、夜のシバの街には人っ子ひとり見当たらない。
食事を終えたグレンは少しばかり付近を散策していた。どうせ帰りの電車で寝ることを考慮すれば多少の夜更かしは問題ない。動機としては、彼はこの異国情緒あふれる雰囲気をもう少しばかり堪能しておきたかった。
ネオンの光もなければ、暴走族も見当たらない、アグニの街とはまるで毛色の違う世界。
街の中心部から既にある程度自然と調和した景観ではあったが、それが少し外れるだけで途端に緑の量が多くなった。風の多いこの国では意図的に防風林が植林されているらしく、これもまたフレイアでは考えられない発想である。
グレンは携帯のマップを確認しながら、そのまま自然公園の方へと向かっていった。街を一望できる丘があるらしく、そこから夜景を眺めるつもりでいた。
いつからだろうか。
彼はふと、妙に耳触りの良い音の連なりを聞いていた。
寄せては返す波のような、いつまでも聴いていたくなる優しい音色。
それが人の声によるものだと気付いたときには既に、彼の魂は縛られていた。
まるで外灯に吸い寄せられる羽虫のように、彼の足はその発信源へと向かっていった。
――いる。
グレンは木を挟んで、目と鼻の先に気配を感じていた。
おそらく空を見上げながら、その声の主は歌っている。
顔は見えなくとも、グレンはその女性の正体について心当たりがあった。
清水のごとく透き通るような美しい声と、聴く者の心を掴んで離さない天賦の表現力。
たった数時間前に彼が肌で感じたばかりの女王クラスの存在感と同等のものを、彼女は間違いなく有していた。
「私を癒す 蒼き月♪
静かに平等に この虚しき世界を見下ろす♪
たとえこの目に映らなくても 感じることはできるから♪
それだけが唯一の 私の救い♪」
ストレートロングの絹のような毛先が、ふわふわと風に流れている。
グレンはただひたすら、その歌声の綺麗さに感動していた。
そして不思議なことにその歌には、彼にあるイメージを想起させる奇妙な力があった。全くの初対面で話したこともない、写真で見た程度でしかなかったはずのその女性を着飾るドレスのイメージが、そのときはっきりとした映像として彼の頭の中に浮かんできたのである。
「そこにいるのは誰?」
「あっ、えっと……」
慌てた様子で、グレンが木陰から身を出す。
そして声の主の顔を見る間もなく、最敬礼を意味する四十五度の角度で頭を下げた。
「すみませんっ! その、すごくいい歌だったものだから、つい立ち聞きをしてしまって」
「だから、誰?」
「グ、グレン・プロミネンスって言います! フレイアから来た旅行者でここへは偶然散歩で通りがかったっていうか……。あの、もしかしなくてもあなた様はウォルタ王国の女王陛下であられますよね……?」
「そうだけど。わたしのこと、わかるんだ」
ウォルタ王国女王、ソフィア・ミスティ。
アーニャ、ロゼッタ、そしてクリスティーナ女王に並ぶ四人目の女王。
ソフィア女王は意外そうな声を上げたが、彼女が奇跡の声を持つ稀代の歌姫であるという噂はフレイアにも届いていた。さらに目を奪うような青髪の持ち主という情報にも、疑う余地のないほどに合致しており、グレンが正体を予想するのは容易であった。
「そんなによかった? わたしの歌」
「ええ、それはもう! 心が洗われるというか、優しさの中に垣間見える儚さのようなものが体の芯に深く染み渡るというか。とにかく感動しました」
「そう……。顔、上げていいよ」
「はっ」
グレンがおそるおそる顔を上げる。月明かりに照らされたソフィア女王の顔は写真で見るよりも遥かに麗らかで、気品に満ちていた。
完璧な黄金比で整った顔立ちに、長いまつ毛。
物憂げな瞳にはミステリアスな雰囲気が漂っている。
そして彼女を着飾る、ゆったりとしたワンピースはアーニャとは真逆の、静かで落ち着いた佇まいをより強く演出していた。
「ソフィア女王、お目にかかることができて光栄です」
「敬語、やめていいよ」
「は? いえ、流石にそれは」
「プロミネンス……。その姓は確かフレイアでは代々女王の一親等だけ。なら格もそんなに変わらない。年も近そうだし、敬語で喋られると疲れる」
「そ、そうですか。それなら、ええっと……努力して、みよう……かな」
無理してタメ口を効いてみるも、さすがに落ち着かない様子である。かつてロゼッタにも同じことを言われたことがあるが、それは彼にとって中々に困る注文だった。
「わたし、普段は人と話すのはあまり好きじゃない。だけど今日は月が綺麗だから、ちょっと話したい気分。少し、相手になってくれる?」
「え? それはもちろん。俺なんかで良ければです……だけど」
「わたし、一度だけあなたの妹さんに会ったことがある。あなたの話をしていた。だから一度、会ってみたいとも思ってた」
「アーニャが? そうなのか」
「あなた、妹さんによく似てる。そっくり」
ソフィア女王は血圧の低そうな声で呟くように言った。
それに対し、グレンは目を丸くした。
女王同士、彼女とアーニャに面識があった点については別段おかしな話ではない。しかし問題はその発言の内容である。
ちなみに彼はこれまでの人生において、他人からアーニャに似ていると言われたことは一度たりともない。
「ええっと、ソフィア女王はどうしてここに?」
「ここは私の秘密の場所。風が気持ちよくて、好き」
「……ここってウォルタの首都からもそんなに遠くないんだっけ?」
「遠くない。静かで邪魔がいなくて、歌うのにもちょうどいい。いままであなた以外誰も来なかった。だからよく、歌いに来てる……」
「ああ、なるほど。大演舞会に向けての練習で。ああ大丈夫、アーニャに情報を売ったりはしないから」
するとソフィア女王は首を大きく横に振った。
「いいえ、わたしはただ歌いたいだけ。現実逃避をしたいだけ。歌っている間だけ、わたしは救われるから」
「現実逃避?」
「変なこと言ってる?」
「いや全然っ。ただ、女王様でもそんなこと思うのかなって」
「女王は孤独…………。人は皆孤独。友情も愛も、すべては幻。そうじゃない? 信じてすがらないと生きていけないから、そこにあると思っているだけ」
グレンは初対面からこれほど悲観的なことを言う人間を未だかつて見たことがなかった。
しかし同時に彼女はどうしようもなく受け入れ難いことを言っているはずなのに、彼はその言葉に強く惹かれていた。
彼女の世界の中に、どんどん自分が吸い込まれていくような感覚がしていた。
「でもさ、夜中こんなところで一人で歌っていたら危ないんじゃないかな」
「どうして?」
「まあ痴漢程度なら女王クラスの能力だったら大丈夫だろうけどさ、例えばほら、エアエア女王の信者が纏まって本気で誘拐しに来たりしたらヤバいんじゃないか?」
「大丈夫。ここはフレイアみたいに治安悪くない」
「ははは、ですよね。そんなクソ治安はうちの国だけだった」
グレンは苦笑を浮かべた。
四大国家のなかにおいて、フレイアは断トツで殺人件数ナンバーワンの治安を誇っている。
「ウォルタは自殺が多い、圧倒的に」
「え、そうなの?」
「死は最後の救いだから。あの国ではそういう考えが普通……」
「へぇ……。俺にはちょっとよく分からない感覚だな」
水の民は一般的に感受性豊かで芸術家気質な反面、内向的で酷くナイーブな人間が多いと言われている。トップたる女王がここまでネガティブな性格ならばそれも無理はないと、彼は妙に納得してしまった。
それからしばらくの間、会話のない時間が続いた。
グレンがさすがに気まずさを感じ始めた頃、唐突にソフィア女王が口を開いた。
「痴漢……?」
「え?」
「そういえばあなたって痴漢目的なの?」
突如として降りかかった驚天動地の発言に、グレンは思わず耳を疑った。
「は? いや、違う違う! むしろどうしてそんな流れになった?」
「なら、ストーカー……?」
「いや痴漢でもストーカーでもないって。さっきも言ったけど、俺はフレイアから来た旅行者で、ここへは偶然散歩で通りがかっただけであって……」
「でもさっきもわたしの隣にいたでしょ」
「さっきも、って……。え、まさかあのライブに!?」
グレンは頭をフル回転させ、数時間前の記憶を思い起こした。
アリーナで彼の隣の席に座っていたあの帽子の女性。確かに背格好はよく似ている。
しかしそれが本当に今目の前にいるこのソフィア女王であるならば、それはいくらなんでも出来過ぎたシナリオである。
しかし彼が他の可能性を考える間もなく、ソフィア女王は鞄からまごうことなき証拠を取り出し、突きつけてみせた。
「ほら。チケット持ってる。座席番号みて」
「本当だ……。いやまったく気づかなかった。ていうか普通一国の女王が一般席でライブ観に来てるだなんて思うかよ」
「偽名を使った。ここはセキュリティが甘いから」
「そういえばソフィア女王、ライブ中結構ノリノリで首振ってなかったっけ?」
「彼女の歌は好き。聴いてて気持ちいい」
「あ、それは同感。俺もそう思う。ああでも、俺はどっちかっていうとソフィア女王の歌の方が好き、かな……」
グレンは顔を赤らめて言った。
彼はもう既に、この時点である感情に陥っていた。
「そう?」
「ああ、神に誓って!」
「本当に偶然隣の席になって、いまも偶然あなたがここに来たのなら、それは多分、運命」
「うっ、運命……」
――運命。
そのフレーズだけが深い衝撃となって、グレンの頭の中でやまびこのように繰り返される。
そしてこの瞬間、彼は気付いてしまっていた。
現在自分が抱いているこの感情が、一体何であるかについてを。
「あのさっ……。大体いつここに歌いに来てるのか、良かったら教えてくれないかな」
「毎週、この時間はほとんど……」
「その、よかったらまた聴きに来てもいいかな。絶対邪魔はしないから!」
「……騒いだりしないなら。好きにすればいい」
「安心してくれていいよ。俺は妹と違って騒がないことには定評があるんだ」
このときグレンは心の中で高らかにガッツポーズを掲げていた。
こうして彼はそれからの毎週末、高い電車賃をかけてここへ通うことに決めたのだった。