絶対零度の歌姫
『人生は、どんなに足掻いても思い通りにはいかない。世界は無自覚にわたしたちを追い詰める。必死に努力を続けても、本当に欲しいものだけは絶対に手に入らない……』
しーんと静まり返った空気が、モニター越しからも伝わってきている。
深海のような群青と、爽やかな空色のツートンカラーのドレスに身を包んだ水の女王の冒頭の語りはもはや放送事故と呼べるレベルの、せっかく盛り上がったムードを一転して氷結させるほどの絶対的な冷気に満ちていた。
されど彼女のずば抜けた表現力と物憂げな瞳には、訴えかけるわけでもなく吐き捨てているだけの独り言を、観衆に聞き入らせるだけの魔力が宿っていた。
ソフィア女王はグレンがあの公園で見た彼女のまま、百万の観衆の心を掌握し始めた。
『執着を捨てれば一時的に楽にはなれる。けれど糸はすぐにわたしたちを絡めとる。人はみな、哀しくも呪われし操り人形……。だから人は今日という日に夢を見る。女王という幻想に逃避する。ならばわたしが見せてあげる。極上の夢、“無の世界”という極上の夢を……』
深呼吸で空気が震える音がはっきりと聞き取れる。それほどの静寂に、場内は包まれていた。
ペンライトの動きが一斉に静止し、まるで時が止まったかのような孤高のステージの上で、彼女は歌い出した。
『嫌になったら終わらせればいい どうにもならないなら捨ててしまえばいい♪
そんな人生なんの意味がある 意味なんてなにもない♪
あなたの存在に意味はない 人間という種族に意味などない♪
さあ肩の力を抜いて 全てを忘れ忘れ去って 優しい無に身を任せよう♪』
グレンは画面の中の彼女に問い掛けていた。
これがこのステージの上で、本当に君が歌いたかった歌なのかと。
しかし酷くネガティブな歌詞でありながらも、相変わらず頗る居心地のよい、優しい旋律の前に彼はまた性懲りもなく魅了されていた。
その声には上手下手といった次元を超越した、感情にダイレクトに働きかける説得力があった。
分かり切っていたことであるが、やはり恐ろしく美しい歌声である。
さらにソフィア女王は歌いながら手にした杖からいくつもの水泡を放出し、それを空中で弾けさせたり融合させたりしながら、幻想的な演出を次々と繰り出した。
『恐れを一つずつ捨てて行こう 無の支配は最後の幸福♪
今宵あなたは生まれ変わる まっさらで無垢な神の一部にあなたは触れる♪
You will be reborn よい夢を♪』
会場全体を包み込んだ霧が、あらゆる熱を奪っていく。
恍惚状態で魂の抜けたようにペンライトを振る観客の面々は、完全に彼女の世界に取り込まれているようである。
過去二人の女王が沸き起こした熱狂を、まるでなかったかのようにする独壇場。
彼女の歌の前ではもはや聴く者の民族すら関係なく、本来このような湿っぽい空気が苦手なはずのフレイアの民でさえも、沈黙するばかりであった。
奇跡の歌声を持つ稀代の天才歌姫、ソフィア・ミスティ。
その実力を、アーニャたちはまざまざと見せつけられていた。
彼女がたった今作り出したこの空気は間違いなく、最後に出番を控える彼女にとっては向かい風でしかない。ここまで冷え切った会場では彼女の持ち味の情熱が響かないどころか、掻き消されてしまう可能性すらある。
グレンが心配するなか、ふとアーニャが口を開いた。
「兄ぃ……」
「なんだ?」
「兄ぃはさ、こいつのこの歌に惚れたんでしょ?」
「ああ、お前には悪いがやっぱり凄いと思うよ」
「そう。すごいかも知れないけれど、私は嫌いよ」
「だろうな」
「兄ぃは、私に勝って欲しい?」
「ああ、勝って欲しい。お前に一番勝って欲しい」
「なら勝ってくるわ。兄ぃを傷つけたソフィアに勝って優勝して、敵を取ってあげる」
「まあ、そうなったらお前のドレスを作った俺の宣伝にもなるな」
「ふふん、任せなさいっての♪」
一面真っ青な花で埋め尽くされたモニターを背に、グレンはアーニャを見送った。
彼は彼女の震える肩に、もはや手を触れることはしなかった。
同時に目も離さなかった。
グレンはこの日に賭けてきた妹のすべてを全身全霊で応援し、帰ってきたら最高のケーキをご馳走してやろうと心に決めていた。
彼の小さな妹は、そして戦いの場に立った。




