1 告白
夕日に染まる屋上。
春にしては少し肌寒いと感じる風を浴びながら、目の前の少女を見つめる。
女性の中では長身だと思うその人は、僕よりも頭半分くらい低い程度しか差がない。制服のリボンは青色で、一学年上の先輩であることは分かる。
風に揺れる髪を抑え、にこやかに笑みを浮かべているだけの女性。おそらく僕は彼女に呼び出されたのだろう。
なぜ、確信が持てないかと言えば、僕自身が先輩のことをよく知らないからだ。
朝、登校した時に靴箱に手紙が入っていた。この時間に、この場所に来てくれ、と。宛名も差出人の名前もなく内容だけが書いてある手紙。
だから来た。
「えっと……」
「深那大地君。来てくれて、ありがとうね」
「あっはい」
視線をあちこちに巡らせて、どうしようか迷ってしまう。先輩だからではない。この雰囲気に飲まれているのだ。
「あの、私のこと……覚えてる?」
「いや、その――」
覚えてない。
そう答えることは可能ではあったけれど、このタイミングで答えたら怒られそうな気がする。こんな美人さんと仲良くなった覚えがない。
だから、口を噤むしか道はなく、曖昧な笑みを浮かべてしまった。
「いきなりゴメンね。そうだよね。覚えているわけ、ないか」
悲しそうな笑顔を浮かべると、屋上の端に向かってゆっくりと歩き出した。そこには、落花防止用にフェンスがついていて、肩辺りのフェンスを右手で軽く握る。
「私は、悠凪寒奈悠久の悠に朝凪の凪に寒いと奈良の奈で、悠凪寒奈。二年生だよ。って、それはリボンで分かるか」
振り向くと照れくさそうに髪を弄り始める。
名前は聞いた覚えがなかったが、学年がリボンで分かるのは理解できたので頷いた。
男子はネームプレート。女子はリボンによって学年を見分けることができる。
一年は緑。二年は青。三年は白だ。
まだ入学して日は浅い。それでも、そのくらいの情報はあった。
「えっと……」
雰囲気は穏やか。
先輩はにこやかな笑顔を浮かべて僕を見ている。肩まで届く髪は、毛先が軽くウェーブしていて風に揺られ、夕日を浴びているせいか、薄い茶色に見える。
凄く綺麗な先輩だ。
綺麗すぎて思わず恐縮してしまうほどで、まともな言葉が口からなかなか出てこない。
僕なんかが話していいのかと疑問さえ浮かぶほどだ。正直、この状況に釣り合う人間でないと自負できるほど僕は平凡だ。
中学までのテストも中間順位を右往左往していたし、体育でも邪魔にならないように隅っこで大人しくしていたせいで通知表にはアヒルが並んでいた。体育祭でも大した活躍ができなかったのも理由の一つだろう。むしろ、当日休めと命令が下らなかったことが不思議なほど役立たずだったと記憶している。唯一誇れるとしたら、無遅刻無欠席で皆勤賞を取ったくらいだ。
後、自分を紹介するとしたら、超常現象やオカルトが大好きでそっち系の本を収集したり、テレビ番組を見てははしゃぐ程度のいたって平均的な男子だろう。
それなのに、この状況。
「あの、えっと……」
言葉を濁して、視線を色々なところにさ迷わせる。
チラリとたまに見える先輩は、僕が言葉を放つのを待っているのかにこやかなままだ。
今にも沈みゆく太陽の代わりをするかの如く眩しい笑顔。このまま、芸術作品にできるのではと思えてしまう。
目をギュッと閉じる。
ここで、引き下がることはできない。対峙している以上は会話をするのが最低限のルールだと思う。
今度は、ちゃんと言葉を紡ぐために口を開いた。
「あの、悠凪先輩」
「あっ私のことは寒奈でいいよ」
「…………寒奈、先輩」
考え、おもいっきり考えて、先輩を後ろにつけた。いきなり呼び捨てだと馴れ馴れしいような気がする。
だが、先輩は少しだけ頬を膨らませると僕との距離を縮める。
一歩。また一歩と距離が縮まり、互いに手が触れられる位置に立つと、僕の胸元に人差し指を置いた。
「寒奈」
「えっと……」
「先輩なんて他人行儀は止めて。ね?」
小首を傾げて目を細める。
細やかな仕草が凄く板について見える。まるで、何度もシミュレーションし、練習をしたかのような自然な動き。
女は誰でも女優とはよく聞くけど、実際に見ると驚いてしまう。
中学の時にはこんな女子は居なかった。これが、高校の洗礼なのだとしたら、僕はかなり出遅れているのだろう。男子と女子の違いはあれど、一年後に同じようになっているかと聞かれたら即座に首を横に振る準備はできている。
「はい。もう一回どうぞ」
ここで、ワンモアチャンス。
もしも再び先輩と呼べば憤慨するか、僕に襲いかかるのではと思ってしまう。
だから、
「寒奈……さん」
これが精一杯だった。
今の僕の顔は夕日のせいだけではないくらいに真っ赤になっていることだろう。本気で恥ずかしい。こんな辱しめを受けることになるなんて想像もしてなかった。
来なければよかったと後悔しながら、顔を下げる。
少しでも顔を見せないようにしたかったのだ。反応すら確認しない。怒っているか、喜んでいるか、呆れているか、一度確認したい気持ちがあるにはあるが、それ以上に自分自身にある恥ずかしさをどうにかしたい気持ちで一杯だった。
「うーん。まあ、いきなりは無理だよね」
声には多分に残念の色が宿っている。それでも、許されたことを理解して顔を上げた。
「それで、寒奈さん。僕に、僕なんかに、何のようなんですか?」
「敬語も禁止」
今度は、口に人差し指が来た。
可愛らしくウィンクする姿に、言いなりになるしかないと理解して頷いた。頷きで言いたいことを理解したのか人差し指が口から離れる。寒奈さんは少し考えてからその人差し指をペロッと一度舐めた。
ドキッと心臓が高鳴る。
だが、首を横に振ってから心を落ち着ける。
「質問に答えてくだ――いや、答えて」
「あっごめんね。本題に入らないで……でも、こうしているのが楽しいの。分からないとは、思うけどね」
苦笑と共に一歩後ろに下がる。
先程から前に来たり後ろに下がったり忙しい人だ。もしかしたら、緊張を隠そうとしてるのかも……って、僕じゃないんだから、そんなことあるはずないか。
僕なんかは、緊張しすぎてさっきから手のひらや背中が汗だくだ。
もしも、僕がここに居るにふさわしい人間であったならば、こんなに緊張しなかっただろうし、来たことを後悔はしなかったはずだ。けれども、僕はこの場において明らかに不適切な存在。その事を強く理解しているから、一挙手一投足を注視しているのかもしれない。
もしも、逃げるための準備として体全体をいつでも全力出せるようにリラックスさせておく。硬いままだと咄嗟に動けないからだ。
「あのね。笑わないで、それと真剣に考えてほしいの」
太陽が完全に沈もうとするタイミングで、真剣な瞳を向けてくる。
その瞳に対して首を横に振るなんてできずに小さく縦に振る。
何を言われても真剣に答えられるように気持ちを落ち着ける。
寒奈さんは深呼吸をしている。僕と同じように気持ちを抑えようとしているのかもしれない。そこまでしないと話せないことなのだとしたら、僕も本気で受け入れないといけない。
「私。悠凪寒奈は、大地君、君が好きです。付き合ってください!」
太陽が完全に沈み、黒が世界を覆い尽くそうとしているにも関わらず、寒奈さんだけは光輝いて見えた。
差し出される手はよろしくお願いしますの気持ちを込めているのだろう。
まだうっすらと明るさがある。そんな薄い明かりの中でも、その顔はよく見えた。
不安げに瞳を揺らしながらも懸命に笑みを浮かべている。屈託がなく、柔らかい笑み。手をもう一度見てみると微かに震えている。
告白を受けた。
その事をようやく理解して、この場に呼ばれた理由を確信して、曖昧に笑った。