夏の話 9
誰もいない教室に到着する。
テスト明けのせいか、机は相変わらず綺麗なままであった。ほっとしたのもつかの間、誰かが教室にくる気配を感じ、静かに席で身を縮める。
ガラ、と開かれた扉の向こうには麻中さんが立っていた。
そういえばテスト初日からずっと来ていなかった気がする。いつもこんな早い時間に来ているのかな、と勝手に考えながら、目立たないよう三咲はカバンの中から本を取り出した。
すると、しおりを手繰っていた三咲の傍に麻中が近寄って来て、彼女の顔を覗き込むようにして呟いた。
「あれ」
突然のことに、三咲は手にしていたしおりを落とす。
間近でみる彼女は長い睫にふちどられ、なんだかとてもいい匂いがした。香水は校則違反のはずだが、白くのぞく鎖骨と合わせて何だかとてもドキドキする。
「は…、え……?」
「前髪、かわいいじゃん」
三咲は慌てて前髪を隠した。
すっかり忘れていたが、三咲の髪はまだだいぶ短いままだった。冬木たちからくすくす笑われることはあったが、こうして面と向かって髪について言われるのは初めてだ。
なんと返したらいいのか分からず、はくはくと口を動かす。
そんな三咲に笑みを残すと、麻中は自分の席へ颯爽と向かい、いつものように鏡を広げてメイクの仕上げを始めていた。
(ギャルはすごい……)
やがて朝礼、授業と単調な一日が過ぎていく。
ついにテスト期間が終わってしまった。それが意味することはただ一つ。――あの「遊び」の再開だ。
「つーかテストまじでだるいんですけど」
「うちらストレスたまってっからさーどうしよっかー」
「あー金持ってない、だめじゃん」
誰もいなくなった教室でひとり、三咲は行き場を無くしていた。
冬木たちに取り囲まれ、財布を投げ捨てられる。
経験上、テスト明けの「遊び」が酷くなるのは知っていた。
「髪もさーせっかくあたしたちが綺麗にしてあげたのに、ださっ」
「ほんとだよねーブスが似合わないっての」
「うける、ブスやばい」
「てかなんか臭くない、こいつ」
えーやだーと嫌な笑い声が、心の中を通り抜けていく。
言葉だけならいい。痛みや傷がつくのは困る。
だが何かを言い返せば、激昂しかねない冬木たちだ。ただひたすら黙っているしかない。
早く飽きてくれないだろうか、と三咲がひたすらに願っていたその時、教室のドアが勢いよく開いた。
「ね、ちょっと! 正門のとこに超イケメンいるんですけど!」
まじで! と一瞬で空気が変わる。
冬木たちは窓から見ようとするが、背を向けていてよく見えないらしく、すったもんだの騒動になっていた。思いがけない吉報に、このまま事態が落ち着くのを待つ。
「なんか人待ってるみたいでー多分北校生だよね」
「えっちょっと見たいじゃん、いこーよ!」
「えっずるい私もいく!」
言うが早いか教室から人がいなくなり、三咲一人だけが残された。なんだかよく分からないがありがとう見知らぬイケメン。ギャルもすごいけどイケメンもすごい。
これ幸いとばかりにカバンを持つと、三咲は全力で靴箱へと向かう。
正門には女子の団子が出来ており、おそらくあの中心に件のイケメンがいるのだろう。ありがとうイケメン。時折聞こえる名前や連絡先を求める声をバックに、三咲はこっそりと裏口を目指す。
正門から随分と離れた裏口は、生徒でもほとんど知るものはいない通用口だ。
雑草が生い茂り、薄暗いため通りたがる者もいない。以前他の生徒に混じって逃げていた時、正門で待ち伏せされることが増えたため、どうにか逃げ出せる脱出路はないかと探した成果だ。
ふうふうと息を吐き、なんとか通学路へつながる道へと出る。正門から割と離れているので、ここなら気づかれることはない、と思っていた。だが。
「――三咲ちゃん!」
「⁉」
ばっと振り返るとそこには、件のイケメン……ではなく、亘理がのんきに手を振ってこちらへ駆け寄ろうとしていた。ちょっとなにしてくれてんですかあんた。
視力どんだけいいんだ、という距離から三咲を見つけると、周囲の女性陣に構うことなく、一直線にこちらへ向かってくる。
女性陣は当然その後を追うから、ちょっとした民族大移動みたいになっていた。
三咲は慌てて逃げようとしたが、ストライドの違いか、あっという間に追いつかれ、隣に並ばれてしまった。
「この辺案内してもらおうと思って、迎えに来たよ」
「ええと……その……」
「えっ案内ならあたしたちがしてあげるってー!」
「てか制服北高だよね。頭いーんだぁ、良かったら勉強教えてほしいなぁ?」
「尾崎さんの知り合い? うちらも友だちなんだけど良かったら一緒遊ばない?」
「昨日みたいなのがまたいたら危ないし、よかったら家まで送ろうかと」
「えっ家⁉ どこどこ? 教えてよー!」
副音声ややこしいわ!
と、ツッコミたい衝動にかられながら、必死に足を進める。
だがこれから神社に行かなくてはならない。こんなところでまごまごしている場合ではない。
「おれ、三咲ちゃんと話してるから、ちょっと黙ってて。ごめん、こんなことになるとは……」
「あ、あの、わたし寄るところがあるから、案内はちょっと無理……ごめん……」
そういうと三咲は亘理を残し、足早に立ち去った。さすがに申し訳なく思ったのか、亘理もそれ以上追うことはせず、その場にとどまっている。
ようやくいなくなった三咲を見て、女性陣は再度アプローチを始めていた。
「てか、尾崎さんと知り合いなんだー」
「うん、幼馴染で」
「でもぉーあの子暗いし、ちょっとぽっちゃり? っていうかあ」
「だよねー」
くすくす、と聞こえる悪意に、亘理は彼女の置かれている状況をなんとなく感じ取ったようだった。だがここで自分が何かを言うと、彼女の立場を更に悪くするかもしれない。
なおも話しかけてくる声を気にも留めぬまま、亘理は小さくなっていく三咲の背中だけを見つめていた。