夏の話 5
目をつけられたのは、二年のクラス替え。
三咲の学校では二・三年はそのまま持ち上がるため、三年になった今も同じクラスのままだ。おそらく、この太った容姿と陰気な性格が、標的として丁度よかったのだろう。
「……」
とはいえ、家族――叔母に相談することもできない。
他のクラスメイトもとばっちりを受けることを恐れ、三咲達の『遊び』に制止をかけるものはいない。たった二年だ、と我慢を続けてきたものの、どんどんとエスカレートし、三咲の精神は限界に達した。
その結果が、先日のあれである。
(でも、助かってしまった)
一度覚悟した死のはずだったが、それすらも阻害されてしまった。
こうしてまた生きていかねばならないという現実に、深く濃い霧が三咲の心を覆う。
――だめだ、早く片付けなければ。
なにせ昨日から、新しい任務が待っているのだから。
「おっそいわ!」
「す、すみません……」
中庭に散らばった教科書やノートを拾い上げているうちに時間が過ぎ、予定よりも随分と遅れてしまった。きっと怒られるだろうなあ、と行くのが怖くて仕方がなかったのだが、案の定この第一声である。
「あんた、昨日一往復にどんだけかかったかわかってんの。さっさと行かんかい、日が暮れてまうわ」
「は、はいいい」
カバンを近くの茂みに隠し、学校で着替えてきた体操着のまま石段を登り始める。
大きな体は動かすだけでもきつく、数十段あがった時点で既にふうふうと息が荒れ始めた。途中、欠けた段に足をとられふらつくが、何かに支えられるかのようにバランスが整う。これは桐人の力なのだろうか。
「つぎ。はよう」
頂上まで登りあげ、一息つこうとするとどこからか叱責が飛んでくる。くるりと身を返すと再び下に降りる、を繰り返した。
最初は勢いよく駆け上っていたはずがだんだんと歩みが遅くなり、三度目の下りともなれば、足が棒のように硬直し、ただの支えのようにしか感じられなくなっていた。日はとうに暮れ、一歩一歩という速度で降りていく。
(……)
最初は、色々と考えながら走っていた。いつまでこの生活が続くのか、またあの家に帰らなければならないのか。
しかし、ひたすら体を動かすうち、その思考する能力すらも奪われてしまったのか、次第に三咲の心は空っぽになっていった。不安や恐怖が、大量の汗と共に流れ出てしまったのだろうか。
ようやく最後の一段を降りると同時に、足がもつれて地面に飛び込む。手をつく余裕すらなく、顔面からぶつかってしまい、情けなさと痛みでじわりと鼻の奥が染みた。
「おつかれ」
案の定、背後からいつもの声が落ちる。
恥ずかしくなり慌てて体を起こして振り返ると、相変わらずの出で立ちで桐人が立っていた。
白い狐面に白いシャツ、黒いベスト。いつものように手袋までしている。
夕方とは言え、日中は結構暑いはずなのだが、神の遣いには気温なんて関係ないのだろう。
とりあえず今日の分のノルマはこなしたと、命が続いていることに感謝しながら、三咲は隠していた荷物の方へ向かう。
その時、桐人がぐいと三咲の腕を引いた。
「……⁉」
「なん、その髪は」
「あ、……えっと……」
思わず桐人を見上げる。
以前抱きかかえられた時は意識していなかったが、結構身長差があるようだ。
額にしとりとした感触が降り、手袋ごしに触られていると気づいたのはしばらくしてからのこと。
無機質な面に見下ろされ、その異常な迫力に身動きがとれなくなっていた三咲に、桐人は更に言葉を続ける。
「これ、切った?」
「……そ、そうです。伸びてたから、……」
歪になった前髪。
切られた、と言ってしまうのは簡単だ。
だが、自分が弱い立場にいることを認めてしまうような気がして、つい言葉を濁す。
「……へったくそ」
その時、信じられないことに桐人がかすかに笑ったのが聞こえた。
仮面越しで表情などは当然分からないが、ふ、とほほ笑むような息だった。悲惨な前髪を馬鹿にされたのかもしれない。恥ずかしさに三咲は俯く。
だが桐人はその腕を掴んだまま離さない。それどころか強く引っ張ると、石段の低い段に三咲を座らせ、彼女のカバンを顎で指した。
「切ったん出し」
「は、はさみのこと……?」
おずおずとハサミを出し手渡す。先ほどのこともあり、刃物を渡すのは怖くて仕方なかったが、ここで抵抗してもおそらく無駄だと判断したのだ。
桐人は事も無げに受け取ると器用にくるりと回転させ、彼女の前髪を指先で挟んだ。
放課後の映像がフラッシュバックし、三咲は緊張に体が縛られる。
だが後に響くのは手馴れたチキチキという小刻みな音と、パラパラと散っていく黒い髪の欠片。目ぇ閉じとき、という言葉に慌てて睫毛を伏せる。この時、三咲は何故か懐かしい感覚を思い出していた。
(なんか、こんな、ことが……)
目と鼻の先に人の気配がある。
どうしてだろう。この感じ、距離感に覚えがあった。ここ最近、髪は自分で切っていたから美容室などではない。
向かい合わせ。
額の付きそうな距離、息遣い。
どこで、誰と?
どのくらい経っただろうか、あまり間を置くことなく、ええよ、という合図とともに目を開けると、左右共に明るい視界が広がっていた。気づけば今度は横の髪を持っては、同じようにチャクチャク刻んでいる。
「あ、……」
そこでようやく、桐人が髪を揃えてくれたのに気づいた。そうこうしているうちに、左右の髪も見事に整えられる。無言でハサミの柄を向けられ、わたわたと受け取った。
頭は随分と軽くなっており、毛先のぼさぼさ感もない。
「あ、ありがとう、ございます……」
「別に。僕の【シタ】が汚れとうのがやなだけ」
「汚れ……」
飼い犬扱いかい、とちょっとショックを受けたのも束の間、はっと今の時刻に気づく。
ここに来るの自体遅くなっているうえに、ノルマの三往復。やばい、早く帰らないと。また叔母さんに嫌味を言われてしまう。
急いで帰ろうとする三咲を見、桐人は首を軽くかしげて告げた。
「僕は、僕のが汚されるのはいやや」
「……」
「ややったら、ちゃんと言い」
彼が何を言いたいのか、すぐに分かった。
だがその正論を受け入れる度量もなく、無言のままただ逃げるように桐人の前から立ち去った。
一人残されたその場所で、桐人は先ほどの言葉をこぼす。
「へたくそ……嘘なら、もっとうまくつき」